「参謀……今日は幸村、一人で通学だったのか…」
「ん? ああ、そうだが…」
「そうか…じゃあ、覚悟しとった方がええのう」
「え?」
相手の疑問には答えず、仁王は謎を解く鍵を握る後輩に再び話を振った。
「赤也…電話口でどんな話があったんじゃ?」
「え? うーんと…」
視線を上に上げ、切原が思い出した言葉を羅列する。
「確か…部長が電車に乗ってた時に、誰かがトラブルに遭って…何か、ケーサツも来たって…・いや、事故とかそういう類じゃないみたいなんスけど…何でしょ、誰か倒れたんスかね…」
『・……………』
二年生の切原以外の全員が、一斉に言葉を失い沈黙する。
そして同時にそこの空気が、一気に氷点下にまで下がったような錯覚が生じ、切原は周囲を見回した。
「ど、どうしたんスか、全員、そんなに固まって…・」
誰も彼には答えない。
代わりに、まずは柳が眉をひそめ、その眉間に指を押し当てながら首を振った。
「そうか……データとしては認識していたが、いつの間にか失念してしまっていた…」
丸井も、風船を膨らませては壊しつつ、下を向いて渋い顔をする。
「…幸村、病人だってイメージ、長かったからなぁ……」
ジャッカルも視線を逸らせつつ、ぼそりと呟いた。
「そう、だな…もう元気になって、リハビリばりばりこなしてるんだもんなぁ」
「…おそらく、真田副部長は、部長を迎えに行ったのでしょうね…何処かの駅へ」
柳生が眼鏡に手をやりながら予想するが、その声には僅かに苦味が含まれている。
「へっ?」
相変わらず話が見えてこない後輩に、仁王は首を振りながら言った。
「…詳しい話は後で幸村と真田からあるじゃろ…そうか、赤也はまだ知らんかったのか」
「知らないって…何ッスか?」
「いや、だからそれは後で聞けばええよ…」
それきり黙る詐欺師は、何となく疲れた表情を浮かべていた……
結局、切原が朝の詳細について聞かされたのは、放課後の部活…ミーティングでのことだった。
「本当にごめんよ、俺が変なトラブルに巻き込まれてしまって…」
午後の部活動には参加出来た幸村は、もういつもの朗らかな笑顔を取り戻していたが、他のレギュラー陣はやはり、一様に微妙な表情を浮かべている。
「結局、何があったんスか? みんな心配してたッスよ?」
無邪気に尋ねる切原に、幸村は首を傾げて笑いながら答えた。
「いや…恥ずかしい話だけど、朝、痴漢に遭っちゃってね…捕まえたのは良かったんだけど、何か、いきなりその人の腕が折れちゃって」
「…………」
一瞬、切原の頭脳が思考を静止させる。
今…何か物凄い物騒な告白を聞いた気がするんだが……?
「…えーと…」
何とか動かない頭を働かせて、質問の内容を考える後輩の周囲では、先輩一同が諦念に支配された表情でうつむいている。
「いきなりって……何スかそれ…どっかにぶつけたんスか?」
「いや? 俺が掴んでいたんだけど、何故か、『ぼきっ』って。ちょっとした拍子に折れたと思うんだけど」
『どういうちょっとした拍子に、大の大人の腕が折れるんだ』
皆が突っ込みたかったところだが、誰もそれを口にはしない。
「いや、たまたま俺が握っていた方の腕だったからね…びっくりしたよ、いきなり悲鳴上げられて」
幸村は、大変だった…と相変わらず笑っている。
『それは上げるでしょうね』
『精市、それはたまたまではない』
『間違いなくお前さんが折ったんじゃよ』
『相変わらず、そこは鈍感なんだな…』
『幸村、恐すぎるよぃ…』
『精市の握力は、かなり回復に向かっているようだな…データに加えておこう』
先輩達がそれぞれ考えているところで、ようやく切原も彼らの沈黙の理由を察しつつあり、それと引き換えに顔の色を失っている。
「は、はは…それで、電車が止まったんスか…」
「うん、そう…痴漢したのは事実だし、引き渡さないといけないからね。次の駅で俺も一緒に降りたんだ。駅員さんもびっくりして、警察の人も来たんだよ」
『そりゃあそうだろうな』
再び、全員の心の声…無論、音に乗せる者はいない。
「部長、よく解放されたッスね…疑われたりしなかったんスか? その…骨折ったこととか…」
「ああ、警察の人にはその人が痴漢だって事を知らせて…骨折についてはよく分からなかったから、あまり上手く答えられなかったんだけど、すぐに解放されたよ? 華奢な君じゃあ無理、とか言われたけどね」
『警察まで騙されたか……』
みんなの苦悩を知らず、幸村はにっこりと笑って締め括った。
「痴漢の人も、俺が救急手当した後はすぐに容疑を認めてくれたからね。もっと聴取とかで時間が掛かるかと思っていたんだけど、良かったよ」
『だから…それは違う、精市!』
『この場合、心理的には下手な威圧より温和な態度が恐怖を彷彿とさせる可能性が高い…』
『自分の腕折った奴に笑いながら手当てされたら、誰でも心が折れるじゃろ』
『こ、恐かったろうな〜、その痴漢男』
『容疑を認めてでも、幸村部長と即刻離れたかったんでしょうね…』
『恐いから、幸村が折ったとも言えなかったんだろうな…ちょっと気の毒だよぃ…』
そして、切原はこの時、完全に顔面蒼白のレベルまで達してしまっていた。
『バケモノ、バケモノと思っていたけど……この人、マジでバケモノだ〜〜〜!!!』
「あー……こほん」
切原が心で叫んでいるところで、真田が無理やり話のまとめに入った。
「まぁ、今回は容疑者の骨折などの件もあったが、特に幸村にお咎めはなしということで、我々立海テニス部の活動にも何ら支障はない。報告は以上だ」
「……今回って…」
後輩の声を途中で止めるように、くんっと彼の袖が隣から引かれ、柳生と切原の視線が合う…いや、合った気がする。
『…幸村部長はこれまでに、少なくとも五件は同様の事件に「巻き込まれて」いるんですよ』
『へっ……』
それって、巻き込まれているんじゃなくて、実際は……
「とにかく、ミーティングは以上だ。明日からはまた幸村の指導も加わる形で練習を行う」
副部長の厳しい言葉が、一人を除いたメンバー達の硬直を解く。
「精市、明日からまた改めて頼む」
「うん。今日の朝は残念だったけど、また明日から宜しくね」
ミーティングの終了を受けて、幸村は悠然と部室から退室してゆく。
そしてその場に残った全員は誰もが動くことなく留まっていた。
「そういう訳で、だ……」
真田が神妙な顔で切り出した。
「やはり、今後も俺達が動かねばならんだろう…蓮二、すまんが分担表を」
「もう作成してある。後でコピーして渡そう」
みんなが全てを語られる前に、既に納得の態で頷く…切原以外。
「何の話ッスか?」
「ああ、赤也も今回から加入してもらうぞ。これからこのメンバーで、交代制で精市と一緒に通学してもらう」
「ええっ!? 何で!?」
「…分からんか?」
睨む真田の顔が…物凄く恐い。
数秒考えた切原は、何となくその理由を察した。
つまり…
「…俺らが、壁になるって事ッスね…」
「正解です」
柳生がくいっと眼鏡の縁を押し上げ、珍しく一発で正解した後輩に頷いた。
「あくまでも、精市には偶然会ったという形でな。まぁこの時期ならば、あいつの身体が不安だからと適当な理由をつけてくれても構わん…とにかく、今後もあいつと痴漢を接触させたら」
「その度に、この立海テニス部の存続が危うくなるからな…今回は何とか免れたが」
柳が端的に重要事項を指摘する。
確かに、毎回痴漢に遭う度に、こうして骨をぽきぽき折られては堪らない。
容疑者が一番悪いのは紛れもない事実だが、あんまりこちらもやり過ぎると、相応のペナルティが課せられるだろう…本人に自覚がなくても。
「…でっかい爆弾じゃのう」
「あんなに部を思っている部長なのに…因果だよな」
仁王とジャッカルは、はぁ…とため息をつきつつも、真田の提案に意見は唱えない。
「いっそ、部長本人に言ったらどうッスかね」
「では、お前が言うか?」
切原の発言も、真田の問いかけにあえなく座礁…
「やるッスよ…やればいいんでしょ」
テニス部がなくなるよりは余程マシだ…・と寝ぼすけの二年生エースも腹を括った。
そして、翌日の朝……
「あ、幸村部長、おはよッス」
「あれ? 切原じゃないか。珍しいね、ここで会うなんて」
テニス部の先輩と後輩が、駅のホームで『偶然』出くわしていた。
「はぁ、何となく幸村部長の身体が気になって…・昨日のこともあるし、一緒に通学させてもらってもいいッスか?」
「ああ、勿論だよ」
先輩の幸村は断る理由もなく、頷いて後輩に笑いかけた。
いつもの朗らかな笑顔で、人目を引く程に美しい。
「でも、心配してくれて有難う。入院する前も、こうして他のレギュラーと通学していたりしたからね、その時のことを思い出すよ。みんな、優しいよね」
知らぬは幸村ばかりなり……
「そ…そうッスね……はは…」
まさか本当の理由を言える訳もなく、切原は僅かにひきつった笑みを浮かべながら、ホームに滑り込んできた電車に幸村と共に乗り込んだ…
了
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