酔って甘えて
「男チョコ?」
「何やら甘いもの好きな男が、自分のために買うチョコの事を言うんじゃとよー」
「へーえ」
バレンタイン当日
今更ながら、立海の男子テニス部レギュラー陣の一部が、バレンタイン特集を組んだ雑誌を広げて、中身を全員で覗き込んでいた。
「不思議ですねぇ…去年はそんな呼び方など聞いた覚えはありませんが…」
柳生が顎に手を当てて考え込んでいる隣で、仁王はさして興味も無いといった様子で言い捨てる。
「興味もなければアンテナも立たんし、知ってどうなるワケでもないじゃろ。男チョコが流行っとると聞いて、買いに行こうと思うか?」
「確かにそうですね」
うん、と相棒の台詞に同意を示した柳生に代わり、今度はジャッカルが、ん?と不思議そうに天井を見上げた。
「…けど、それって、そんなに言う程珍しいことなのか?…その…男が甘いものを買うって行為がさ。わざわざ男チョコなんて名前つけるなんて大袈裟じゃないのか?」
「確かにそうッスよね」
切原も頷いた、ところで…
「チョコチョコチョコ〜〜〜〜ッ!!」
部室の中に、賑やかに飛び込んできた人物が一人。
丸井ブン太だ。
彼の手には鞄の他に、大きな紙袋が二つも三つも抱えられており、彼は大はしゃぎでそれらを大事そうに抱えていた。
上部から覗いたところに見えるのは、目にも鮮やかな包装に包まれた箱、箱、箱…
何であるかは最早疑いようがない。
無論、立海にも例外なくバレンタインデーはやって来る。
こういうイベントでは、どれだけ戦利品がもらえたかという証が、男の勲章にもなるので、大体の男性陣は朝から色めきたっているのだが、唯一、丸井ブン太だけはそういう色恋とは少々離れた目線で、この日を迎えていた。
実は朝から盛り上がっていた彼のお目当ては、無論、貰えるチョコレート。
何しろ甘党なのである。
お菓子が大好物なのである。
日々のおやつが欠かせない彼にとって、無料で貰えるチョコレートは何より有り難い糖質補給源なのだ。
くれる女性については…まぁ、感謝はしていることだけは確かだ。
「お〜〜、大漁大漁っ! こんだけあれば、一週間はおやつ買わなくて済むぜ〜〜! 助かるっ」
『………・』
いそいそとロッカーに紙袋を押し込む丸井の様子を眺めていた男達が、原因が分かったとばかりに一様にため息をついた。
「ああ、成る程なぁ…」
「見慣れてたワケじゃな…」
「普通だと思っていましたからね…」
「何とも思わなくなった事が、今更ながら怖いッス…」
傍にしょっちゅうお菓子を買う男性がいたら、それが日常の光景になってしまうのだ。
人間、慣れとは恐ろしいものである…
他の部員の視線を背中に受けて振り向いた丸井が、むっと威嚇するような視線でそれを返す。
「…やんねーぞぃ、勝手に取んなよ。そんなことしなくてもちゃんと…」
「自分を基準にしちゃいかんぜよ。俺らもそれなりに貰っとるんじゃ」
仁王が即答した時、ほぼ同時に今度は部長の幸村が部室に入って来た。
「よいしょ…っと」
丸井以上に大きな手提げ袋を幾つも抱えながら入ってくる姿を見ると、華奢に見えても確かに鍛えている男性なのだと理解出来る。
袋の中身は、丸井と同じくバレンタインの戦利品。
部室に入った後、全員の奇異の視線の中でそれらを床に下ろした部長は、軽く額の汗を拭う仕草をしながら言った。
「ふぅ…重かった。部活の前だけどこれも一種のトレーニングだな…やぁみんな、もう来てたんだね、遅れてごめん。あ、弦一郎と蓮二もすぐに来るよ」
「分かっとる。自分の分と、お前さんの分を手伝って持って来とるんじゃろうが」
その仁王の言葉が終わらない内に、真田と柳も部室に荷物を抱えながら現れた。
「やれやれだ」
「好意だけに、無碍に断ることも出来ないからな…」
二人とも、貰った喜びなどより、荷物の重さについて辟易している様子だ。
しかし、おそらく女子達の前ではそういう素振りは見せなかっただろう、その程度の思い遣りは持ち合わせている男達だ。
結局、部室の床のかなりの面積を、男達の貰ったチョコが占拠する羽目になってしまった。
「今年はまた、更に壮観ですねぇ」
柳生が苦笑いしながらそう評し、対する幸村もまた苦笑い。
「うん…彼女がいたら断れるんだろうけどね。これで来月はまた懐が寒くなるだろうなぁ」
「ホワイトデーか」
「そう。決まった相手がいるなら、それを理由に受け取れないって大義名分が立つんだけどね」
「…成る程な、しかしそういう事を理由に誰かと付き合うのも動機としてはあまりに不純だが」
「勿論、分かっているよ。だから俺達、毎年こんなに苦労しているんじゃないか」
真田の意見に答えながら、どうしたものだろうね、と幸村は笑みを浮かべながらも肩を竦めた。
「……?」
そんなものなのか?と丸井の表情は今ひとつ納得出来ていない感じだ。
「けど幸村、本当にこれ、置いて帰るのか?」
「うん、くれた人達には悪いけど、とても全部は食べられないから。家族が好きそうな物は幾つか貰うけど、他はここで消費してくれたらいい、糖も貴重な栄養源だからね…あ、でも」
ジャッカルの質問に大事な事を思い出した幸村は、その思い出したばかりの譲れない条件を言った。
「…竜崎さんからのチョコはあげないよ、持って帰る」
部長の言葉に、他の部員達も一斉に同意した。
「そりゃあ当然じゃろ」
「同感ですね」
「アイツの菓子、美味いしな」
「俺達にとっても共通の準部員みたいなもんだし、人にあげんのは失礼ってモンっすよ」
「うむ、それはその通りだな」
「彼女の料理の上手さだけではなく、気持ちの問題だ。懇意にしている人の好意を無碍にするのは好ましいことではない」
「あったりまえだぃ」
実は立海のレギュラーメンバーは全員、青学の一年生女子の桜乃を妹分として非常に可愛がっており、彼女が来た時には雑談の他にテニスの指導も行ってやっている。
桜乃もそんな彼らにはよく懐いており、指導にも熱心に応えて順調にテニスのレベルを上げていた。
一定の彼女がいない立海のメンバー達だが、彼らにとって本命とも言えるチョコは、その桜乃から貰えるものなのだ…
彼らの求めていたものは、その日、可愛い本人と共に現れた。
「こんにちはぁ」
「あ、おさげちゃんだー!」
小さな身体と長いおさげがトレードマークである桜乃が、紙袋を抱えてコートに現れると、それだけで辺りの雰囲気が少しだけ和らぐ。
無論、和らぐばかりでは練習にならないので、それもすぐにレギュラー達の引き締めにより、元の厳格な練習風景へと戻るのだが。
「やぁ、竜崎さん。来てくれたんだ?」
「はい!」
他校の生徒は基本的に立ち入り禁止だが、彼女だけは部長の幸村が最初に応対し、練習に支障のない場所へと誘導することになっている。
「今日は少し遅かったね…残念だけど、練習はもうすぐ終わってしまうんだ」
「あ、大丈夫です…その、今日はお届け物があったから…」
「そう…じゃあ、少し部室で待っててくれる? 俺達もすぐに戻るから」
「はい」
そんなやり取りの後、桜乃がまず部室に向かい、それからクールダウンを終えたレギュラー達が部室へと向かった。
これから起こるトラブルなど、無論、知るワケもなく……
「うっわぁ〜〜〜!」
部室に入った桜乃が真っ先に目を奪われたのは、あの紙袋の山だった。
チョコチョコチョコ…見渡す限り、バレンタインの愛の証達……
「すごい眺めだろう?」
「皆さん、やっぱりモテるんですねぇ〜〜」
苦笑する幸村に対し、桜乃はまるで自分の事の様に喜んでいる。
「何だか、嬉しそうに見えるぜぃ? 竜崎」
「はい! 凄く嬉しいですよ。だって、皆さんがそれだけ格好いい男性だって評価されてるって事じゃないですか!」
純粋に喜ぶことしきりだった桜乃は、そこでようやく自分の来た目的について思い出し、自分の持っていた袋に手を入れた。
「私も持ってきたんです。日頃から、皆さんにはすごくお世話になっていますから」
そして取り出した、掌からややはみ出る大きさの赤い小箱を、彼女は一つ一つレギュラー達へと渡していった。
「こんなに沢山のチョコの前だと、私のなんか霞んでしまいますね」
『いや、これだけで十分です』
皆の心の声は、無論、桜乃には聞こえない。
「あ、じゃあ、ついでに俺もここで渡す〜」
不意に声を上げたのは丸井だった。
彼は自分のロッカーから、何やら桜乃と同じくらいの大きさの黒い小箱を、その場にいる人数分取り出してくると、また桜乃と同じく一つ一つ渡しだす。
「ブン太…何だい? これ」
「あ? チョコだよ。一応俺の手作りなんだぜぃ? おさげちゃんじゃないけど、一応俺も皆に個人的に世話になってるからな、お世話チョコってヤツ?」
「うわ、本当に? すごいなブン太」
驚いたのは幸村だけではなく、他の部員や桜乃も同様だった。
「お前らだけだからな、誰にも言うなよ!?」
後が面倒になるから、と念を押す丸井に、皆は頷きながらも面白そうに箱を眺めたり、中を覗き込んだりしている。
「…もしかして、これでホワイトデーは三倍返しとか」
「ありえそうじゃのう…丸井のことじゃし」
男達が訝る中で、丸井は平然と言い切った。
「や、三倍返しって言うより、三百六十五日、機会があればこれからもお菓子俺に恵んで」
「いつもと同じじゃねーか」
「じゃあ、いいじゃんか」
「……」
男達の奇妙な沈黙を他所に、桜乃は貰った箱に頬ずりしそうなほど興奮している。
「すごーい! 丸井さん有難うございます。あの…早速食べてもいいですか?」
「ん? ああ、いいぜ、良かったら感想も聞かせてくれよ」
喜んでもらえたことで気を良くした丸井の許可を受けて、桜乃が彼から貰った箱を開け、一つを取り出す。
小粒の、一見トリュフに見えるような茶色の宝石…それが綺麗に並べられていた。
「いただきまーす」
ぱく…
食べる桜乃の姿が誘い水になったのか、他のメンバー達も同じ様に丸井のチョコに手を付け始めた。
「おいし〜〜〜! 柔らかくて、口でとろける〜」
最初に食べた桜乃の声に倣い、メンバー達も誰一人、賞賛以外の批評は口にしなかった。
「確かに、美味しいよ…」
「うむ、苦味の中に甘味が混在しているが、その割合が絶妙だな…」
「よく分からないけど、すぐに一箱空けちゃいそうッス」
「ふむ…香りもなかなかだ、流石は丸井だな」
「やるじゃないか、丸井」
ぱくぱく…と食べ続ける仲間達に、丸井はえへんと胸をそらして自慢げに説明した。
「専門店に行って吟味した材料と、天才的な俺様の腕にかかれば、この程度の作品なんてちょろいちょろい! 今回は、ちょーっとした隠し味も入れといたんだぜぃ?」
「ほーう…」
ぱくぱく…
「……のう、丸井」
「ん?」
不意に丸井に声を掛けた仁王は、じーっと何処か一点を見据えたまま、相手に質問を投げかけた。
「もしかして、隠し味っちゅうんは、ブランデーか何かかの」
「うぇっ!? すっげ! 何で分かったんだよ仁王!? ブランデーだけじゃないけど、他の酒もちょっとずつな。もしかして、前もってリサーチしてたとか!?」
余程鼻が利くか、味覚が優れていないと分かりはしないだろうと思っていた予想が大きく裏切られ、慌てる立海一のパティシエに対し、仁王は、いや、と首を横に振ると同時に、すっと視線の先を指差した。
「今、知った」
「ほへ?」
気の抜けた声と共に、ゆっくりとそちらへと目を向けた丸井が見たのは…
「〜〜〜〜」
ふにゃにゃ〜〜〜〜…・・ぱたっ
顔を真っ赤にして、床に倒れてしまった竜崎桜乃だった。
「うわ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
「竜崎さんっ!?」
途端に部室中が大騒ぎ。
慌てた幸村が彼女の身体を抱き起こしてみるが、相手に全く反応はなかった。
ただ、とにかく顔が赤く、表情は苦痛のそれを浮かべているワケでもなかった。
これはもしかしたら…
「…ブン太…入れたブランデーって…」
「ちょっとだよちょっと!! ほんの香りがつくかつかないかぐらいの量だって! そのぐらいじゃないと『隠し』になんないだろぃ!? 確かに熱でアルコール飛ばす作業はなかったけど…」
僅かに声が低くなった幸村に対し、丸井は潔白を証明するべく必死に弁解をする。
もし彼女を酔い潰す目的でアルコールなど入れたと看做されたら…死より恐ろしい猛特訓が自分を待っているのだ。
「とにかく、横に寝かせるべきです。それと飲ませる水を準備して下さい。氷嚢で身体を少し冷ますのも有用でしょう」
「では、取り敢えずそこのベンチでどうだ?」
「水、持って来るッス」
「氷嚢は俺が準備しよう」
真田や切原、ジャッカルが、柳生の指示に従いてきぱきと動き出す傍らで、柳は何処へか携帯電話をかけると、そのまま幸村へと何事か言いながら手渡した。
「もしもし…ああ、竜崎先生、立海の幸村です……ええ、お久し振りです、あの」
どうやら柳は、桜乃の保護者へと迅速に連絡をとって、彼女の状態の報告をしておくべきと判断したらしく、それは全く正論だった。
『なに? 桜乃がブランデー入りのチョコを食べて倒れた? ありゃりゃ…そりゃあ厄介なことになったね』
「な、何か問題があるんでしょうか…? 何か病気を!?」
血相が変わった幸村だったが、向こうからはいつもと変わらぬ闊達な笑い声が聞こえてきた。
『いや、何でもないよ。ただ、桜乃は極端にアルコールに敏感な子なんじゃ、消毒綿でも腕が真っ赤になるぐらいだからねぇ…少し飲んだり食事に入れたりするだけでも十分に酔っ払ってしまうんじゃよ』
「チョコを作った本人は、香り付け程度の量だと…」
『ああ、そのチョコを作った子は何も悪くないさ、責める必要なんかないよ。ウチの孫がそういう体質だったってだけだ。少し休ませたらすぐに意識も戻るだろう、すまんが、少しだけ世話を頼むよ』
「はい…俺達が責任もってお帰しします」
『ああ…そう言えば、その子、酔ったらちょっと変なクセがあるんじゃが…まぁ、お前さん達なら大丈夫じゃろ』
「え?」
聞き返したものの、既に通話切れの音が響くのみとなってしまった携帯電話を耳から離し、他の部員が取り囲んで世話を焼いている少女へと目を向ける。
(変なクセ…?)
何だろう…と思っている間にも、向こうでは罪悪感にどっぷり漬かっていた丸井が、涙目で、寝ている少女に謝罪していた。
「うわ〜〜〜ん! ごめん、ごめんな! 竜崎〜〜〜!」
「……ふぁ」
「りゅ…え?」
むく…
謝っていた彼の目前で、何の前触れも無く、桜乃が虚ろな瞳のままに起き上がった。
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