語らぬ罪人
或る日の立海大附属中学…
「おはよー」
「お早うございます!」
朝も早い登校時間
この日も立海の風紀委員長を務める真田弦一郎は、校門前に立って、全生徒の登校を見守る傍ら、服装指導を行っていた。
今日のテニス部は、朝からコートに新しい物品が納入される関係と、業者の整備が入るという事で、練習が中止となっている。
「おはよう、弦一郎。こうしてここで会うのも珍しいよね」
「精市か…そうだな、いつもは朝錬で会うからだろう…なかなかに新鮮な感覚だ」
「ふふ…じゃあね、頑張って」
「うむ」
親友との会話を交わしたりしながら、指導を行っていると、そこに風紀委員を担当する教師が歩いて、様子を伺いに来た。
「お早う、真田君。どうかね」
「先生? はい、特に問題はありません」
「そうか、それは良かった…最近、立海ではないのだが、別の中学や高校で、嫌な話があってね…今日の職員会議でも出るのだが…」
「嫌な話ですか?」
立海の中の問題でなければ実際あまり関係は無いと思ったが、一応聞いておいた方がいいかもしれない…と、真田は詳細を聞こうと尋ねた。
「どんな内容ですか?」
「また最近、他の学校の生徒や市民に、喧嘩を売ったり、金品を奪ったりというグループがいるそうだ…近くの商店街にも出没したという話がある。しかし売られた喧嘩だからと言って安易に買ったりするのは言語道断。どんな酷い怪我を負わされるか分からんからな」
(俺なら、完膚なきまでに叩き潰してやるのだが…)
武道についてもかなりの自信がある真田は、内心はそう思いつつも、教師の言葉に素直に頷く。
自分と同じ能力を、他の誰かに求めてはいけない。
それに…
「それに、君のように部活動に属している場合は、部そのものにも影響がないとも限らんからね」
そう、それだ。
下手に喧嘩などの荒事に関わってしまったら、天下の立海テニス部の名に泥を塗ることになる。
それは決して犯してはならない禁忌なのだ。
「分かっていま…」
全てを言い終える前に、視線を前に戻した真田の口が閉ざされる。
視線の先…周囲の生徒達の注目を一斉に浴びながら、立海の一人の生徒が歩いてくるのが見えた。
知った顔…二年生の切原赤也、立海テニス部の二年生唯一のレギュラーだ。
いつもなら遅刻ギリギリで来るか、完全に遅れてくるのが常套なのだが、今日は登校時間内に来た…しかしそれはいい。
問題なのは、その姿だった。
「あれは…君の後輩じゃないかね」
隣でそう呟く教師も、向こうの異様な姿に声を強張らせている。
自分も、もし声を出していたら、似たようなものだったのかもしれない…
(赤也…!?)
周囲の奇異の視線に気付いているのかいないのか、切原は真っ直ぐに前を見て、誰と挨拶を交わすこともなく歩いてくる。
全身…傷だらけだった。
制服は問題ない新品そのものだったが、そこから覗く手の皮膚、顔…至る所に生傷が存在していた。
あまりに酷い箇所はガーゼを当てているが、軽症と看做された殆どの部分は放置状態。
そして表情も、いつものおちゃらけた感じとは程遠い、夜叉の如く凄惨なもので、だから周囲の人間達も近づくに近づけないのだ。
赤目でこそなかったが、きっとその心の奥に、怒りに似た感情があるのは間違いない。
「赤也…」
「おはよっす」
唖然としている副部長の前を、相手の顔を見ることもなくすっと通り抜け、通り抜けざまに簡単な挨拶のみ。
もしここで、『いや〜、自転車からすっ転んでしまって』とか、馬鹿馬鹿しい理由でも言ってくれたら、真田としても『たるんどる』の一言で済んだのだ。
それなのに、何も言わずに通り過ぎ、自分の視線をも無視した…何事かあったのだと思わざるをえない。
「待て、赤也」
「……・」
ちっと舌打ちをした音が聞こえた気がしたが、それは無視して、立ち止まった後輩に再び呼びかける。
「その怪我はどうした」
「…別に、大したコトじゃないっすよ」
ぶっきらぼうに言い放つ後輩の言葉が、少なからず真田の神経を逆撫でた。
「大したことでなければ言えるはずだな、赤也」
「……喧嘩ッス」
「…なに?」
問い返した真田へとゆっくり振り向きながら、切原は険しい表情のままで断言した。
「どっかの学校のヤツらに喧嘩を吹っかけただけッスよ」
昼休み…
「じゃあいいかい。俺の質問に正直に答えるんだ、いいね、切原」
「…はい」
緊急で集められた他のレギュラー達が見守る中、切原は、机を挟む形で部長の幸村と向き合い、質疑を受けていた。
切原の朝の姿は当然、多くの生徒や教師に知られる事となり、更に彼が相手に喧嘩を挑んだという発言が、かなり大きな問題として職員会議でも取り上げられたのだ。
問題を起こした部には少なからぬペナルティーが課せられる。
それが分かっていない筈がない若者が、何故そんな愚かな行為を仕出かしたのか…誰もが疑問に思うのは当然だった。
「昨日、何があったの」
「……部活の帰りに、広場でたむろしてる奴らがいて…やけに耳障りな音出して癪だったんで…丁度、むしゃくしゃしてたんで喧嘩を吹っかけました」
「…君一人で?」
「はい」
「知っている人達だったの?」
「いや、知らないヤツらばかりッス」
「……理由も無く、他人に喧嘩を売ったのかい」
「……そうなるッスかね」
「……・」
皆が、それぞれの感情を宿した表情で互いの顔を見合わせた。
ジャッカルや丸井は、信じられないという驚きの表情で、仁王は何故か薄い笑みを浮かべ、柳生はやはりいつもの様に表情を眼鏡の奥へと隠してしまっていた。
柳と真田は沈痛な面持ちで後輩を見つめ、部長の幸村は冷たい表情で、視線を、組んだ腕の先の机上へと落として無言を守った。
特に真田については、両腕をしっかり組みながらも、その腕が小刻みに震えている。
耐えられない何かを、それでも必死に耐えているような、痛々しい姿だった。
部に対するペナルティーは、学校の方から自然と下る形になる以上、誰が何を言っても無駄な事。
しかし、部員へのペナルティーは…部が下すことになるのだ。
その主導権は、当然、部長の幸村が握っている。
「俺が君から聞いた話からは…残念ながら、一つとして情状酌量の余地が無い…分かっているね」
幸村の声には刃の様な鋭さと冷たさが混在していたが、それを首元に突きつけられて尚、平然としている罪人の如く、切原は動じずに言い放った。
「…退部届け、書くッス。先輩方まで泥を被る必要はないッスよ」
「赤也ぁっ!!」
「止めろ、弦一郎っ!!」
我慢がならないと、遂に真田が切原に掴みかかろうとしたところを、柳が止めた。
それでも尚、真田の腕が相手を掴もうと宙をもがく。
「弦一郎…!」
珍しい、厳しい表情の幸村の諌めにも、真田は応じない。
「俺はっ…! 俺はお前に、指導してきた筈だ!! 立海の名を背負う者として、人としてどう振舞うべきか、どう生きるべきか、お前に何度も教えてきた筈だっ!! お前はそんな男じゃないと信じていたし、今だって信じている!! ここにいるレギュラー全員がそうだ!! 何故…っ!!」
「…っ……失礼します!!」
ぐ、と唇を噛み、何かを必死に耐えていた二年生は、がたんっと椅子から立ち上がると、他の部員を押し退けるようにして部室を飛び出して行ってしまった。
彼が消えた後も暫く、真田が柳に抑えられていたが、それもやがて脱力へと変わっていく。
「……」
全員が沈痛な面持ちの中で、幸村は、切原を直接指導していた真田へと振り返った。
「君が手塩にかけて育ててきた可愛い後輩だ、辛い気持ちもよく分かる…でも、弦一郎、君は副部長なんだ…こういう時こそ、堂々と振舞わなければ…ね」
「……」
ぎり、歯軋りをしながら、真田はぐっと帽子を深く被った。
「…精市…赤也の処分はどうするつもりだ」
「そうだね」
参謀の問に、部長は暫く黙考した後、瞳を開きつつ答えた。
「……もし切原が言った通りの理由だとしたら、俺は彼を追放処分にするよ。退部は勿論だけど、今後立海で、彼がテニスに関わることは許さない」
ざわ…とレギュラー達からざわめきが起こったが、部長はその意思を覆す様子はなかった。
「俺達立海テニス部を裏切り、弦一郎の期待を裏切り、みんなの心を傷つけた人間は、もうここには必要ない…寧ろ害悪だ。俺は部長としてやるべきことをやらなければならない」
「…恐いのう」
ぼそっとよそ見をしつつ笑って言った詐欺師の隣で、戸惑った丸井が幸村に進言した。
「けど…俺は信じられないよぃ……アイツ確かに喧嘩っ早くはあるけど…自分から売るって…」
「……だから、切原が言ったことが真実なら、だよ」
静かに断った幸村の表情は、最後まで冷静で、口元には笑みさえ浮かべていた。
放課後…
「弦一郎、しっかりしろ。お前がそんな事でどうする」
「……」
切原の質疑から以降、真田の落ち込み具合は凄まじいものだった。
いつもならびしっと姿勢を正して授業に打ち込んでいる彼が、ずっと机の上に『へちゃ…』と突っ伏していたのだ。
注意したくても、あまりの変貌振りに教師すら恐れおののき、スルーしてしまった。
立海テニス部を、自分達の後を継いで支えていってくれる期待の後輩…そう思っていた真田にとって、今回の件はあまりに無情だった。
自分に責任があるのならまだましだ、自身で責任を取ったらいいのだから。
切原に何か理由があっての行動であったのなら、副部長として助力も出来たかもしれない。
しかし、相手が非を認め、何の言い訳も無いのであれば、最早どうする事も出来ない。
何も出来ずにただ後輩が追放処分になる姿を見ているしかないのか……
「お前がそんな事では、他の部員の士気にも関わる。赤也の件は、ひとまず置いておけ」
「…分かって、いる」
分かってはいるが、理解したくはないのだろうな…と柳は分析した。
そんな二人が、職員室の前を通り過ぎようとした時だった。
職員室の前で、見慣れない外部の女性が、一人の教師と会話している様子が見えた。
「あの、すみません…こちらの生徒さんで、昨日、酷い怪我を負われた方がいませんか? くせっ毛の男の子で、目が猫みたいにきょろっとして…赤い目の…」
「!?」
「!!」
真田と柳、同時に足が止まり、女性の方へと身体を向ける。
彼女は二人に気付く事も無く、教師と変わらず話し続けている。
「どんな御用件でしょうか…?」
「あの…昨日、私が若い子達のグループに取り囲まれて襲われかけていたところを、助けて下さって…病院にまで連れて行って下さったんです。お礼をしようと思った時にはもう消えてて…彼も、酷い怪我を負っていた筈なのに…」
「弦一郎、あれは…!」
「!!」
間違いない……それは切原赤也だ!!
奴は…俺達を裏切った訳じゃなかった…!!
女性は、教師に、その時の詳しい話を続けていたが、聞けば聞く程に切原と一致している。
喧嘩を吹っかけた荒くれ者は、本当は、弱い女性を助けた勇気ある善人だった。
「…ん?」
ふと、柳が隣を見ると、真田の拳がわなわなと震えていた。
しかし切原の質疑の時の様な、怒りのためではない…きっと、それは……
「…良かったな、弦一郎」
親友の言葉に、真田はぐい、と帽子を深く被って鼻を鳴らした。
「ふん…たかが数人相手に、たるんどる」
「……」
照れているのだろう親友を笑って見つめながら、柳はこれから幸村に急いで報告しなければならない件について考えていた。
「そうか、切原が女性を…」
「だから、彼には非があるどころか、寧ろ感謝されて然るべき理由があった…精市、どうか彼の処分については取り消してくれないか。教師達にも伝わった以上、部へのお咎めはなくなる筈だ」
部室で参謀が進言している中、幸村は黙ってそれを聞きながら、一通の封筒を持って表を見つめていた。
ここに来た時、既に机上に置かれていたものだ。
「……精市?」
「…彼が置いて行ったんだよ」
その表には、何とか綺麗に書こうとして、しかし失敗した様な文字で『退部届』とあった。
「あの馬鹿者…!!」
出て行く必要など最早無いのだ…と忌々しげに真田が呟き、ジャッカル達が慌てて互いの顔を見合わせる。
「お、おい…もしかして、帰っちまったのか?」
「俺達に挨拶もなしにかよぃ」
「…これ以上、迷惑をかけられないと思ったのでしょう。安易に人に喧嘩を売る人間が私達に近づいたら、それだけで世間は何を言うか分かりませんから…」
でも、その彼の嘘も、もうばれてしまっているんですけれどね……
「…まずいな」
不意に、眉をひそめて幸村が呟く。
「何だ、精市」
「退部届を出して、切原がもうこことは無関係だと思っているんだとしたら…彼はどうすると思う?」
「……まさか!」
考えたくない結果に行き着いた真田が、顔色を青くしたが、傍の柳は幸村の仮定をあっさりと肯定した。
「向こうのグループも赤也の事ぐらいは覚えているだろう…もし奴らが、彼と鉢合わせでもしたら、大事だ」
「さっ、探しに行くぞ!!」
「で、でも何処に行けばいいんだぃ!?」
あわあわと慌てる丸井とジャッカルを他所に、幸村はぐるりと部室内を見回して、銀髪の男が不在であることを確認すると、ちゃっと携帯を取り出して相手にかけた。
「…もしもし、仁王かい? 少し調べてほしいことがあるんだけど。橋本屋のみつまめ付けるから…」
そう言うと、全てを聞く前に、向こうから拡声モードで相変わらず飄々とした声が返って来た。
『おーう、お前さんか。○△中学にアヤしいグループがあるぜよ、そこの近くの広場によくたむろっとるらしい。因みに赤也の帰り道じゃな。という事で、あんみつセットに格上げしてくれ、じゃあの』
ぶつっと切られた回線音に、幸村は携帯を見つめつつ苦笑いを浮かべた。
「…プラス三百円か…相変わらず抜け目ないな、仁王は」
(あいつ、マジで何者なんだよ…)
ぞっとしているレギュラーを他所に、真田が部室を飛び出していく。
向かう先は、言わずとも知れている。
「精市?」
「俺も行くよ、切原はまだウチの部員だからね……皆も来るかい?」
問われた彼らに、否やのあろうはずがなかった。
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