最悪の気分の時に、最悪の環境が合わさったら…それはもうマジで死ねる。
 丁度、今の自分がそんな状態。
 けど、死ぬのは真っ平御免だし…部活辞めた以上、どうでもいいって感じだな…
「……」
 生傷のヒリヒリ焼けるような痛みに耐えながら、切原はテニスバッグを抱えたまま、憮然とした表情で広場に佇んでいた。
 その彼を、ずらっと取り囲んでいる他校の生徒達…全員が男子生徒であったが、友好的な雰囲気には程遠い、嫌な空気が流れていた。
 『おい、あいつだ』とか、『今度こそやっちまおうぜ』といった物騒な言葉が時々耳に入ってくるが、切原は正直、もうどうでも良かった。
 昨夜、ここを帰り道に通っていたのがそもそもの始まり。
 女性の悲鳴を聞いて駆けつけてみると、同年代の男達がよってたかって女性に絡んでいたのだ。
 無論、見た以上、助けない訳にはいかなかった。
 こちらは一人で向こうは八人…結構キツかったが、何とか撃退は出来た。
 途中、自分が赤目に変わった所為で、向こうがビビッたこともあるかもしれない。
 その後、女性を病院に送って…その時に、

『お願いです! どうかこの事は誰にも言わないで下さい!!』

(って言われちゃったんだよな〜〜……)
 あの時は泣きながら言われた事もあって、ついうっかり頷いてしまったのだが…その代償は高くついてしまったようだ。
 しかし、今更約束は覆せない…人としても、立海のテニス部を背負っていた者としても。
 それで自分がテニスを出来なくなる事は辛い、当たり前だ。
 けど…本当に心が一番痛かったのは…
(……最後まで、怒らせちまったなぁ…真田副部長…みんなにも迷惑かけちまった)
 質疑の時の、真田の怒号…あれは効いた。
(別に、ここを通らなければ、なーんて後悔はしてないんだけどな…通ったから、助けられたんだし…でもなぁ…)
 何で、悪くない俺がここまで辛い目に遭わなきゃならねーの?
「……はぁ」
 ため息をついている切原の周囲を囲み、じりじりと間合いを詰めてきた若者達が、今にも襲いかかろうと構えている。
 『身ぐるみ剥がしてやれ』とか、相変わらず物騒な言葉を吐き出している向こうの存在に、ようやく切原が意識を向け、同時に視線も向けた。
「あのなぁ…俺はもうどうでもいいんだよ。終わっちまったんだから……ったく、会わなきゃ何もしないで済んだのに…何で、お前ら、またのこのこ出て来やがった!?」
 そうだよ、お前らが馬鹿なことしていなきゃ、何でもないただの帰り道だったんだ!!
 俺も、テニスを捨てないで済んだのに……!!
 別に仕返ししようなんて面倒なことも考えちゃいなかったのに、何で野良犬のように寄ってきちゃあ噛み付いてくるようなマネをするんだ!!
 忘れていた、忘れようとしていた怒りが再燃し、もう一人の人格の切原が目を覚ました。
 目が、真っ赤に染まってゆく…まるで血の様に……
「うわっ! 昨日と同じだ」
「気ぃつけろ、ああなったら、アイツ、すげぇヤバかった!!」
 周囲の動揺の中、切原が真っ赤な瞳をぎろりと動かし、囲む獲物達を見据えた。
 どうしてやろうか……拳も脚も、爪も、歯も…全て使って滅茶苦茶に……どうせ、俺はもう…!!
 残虐な切原が、血の夢を見ているように、ゆっくりと一歩を踏み出した時だった。
「そこまでだよ、切原」
「!?」
 名を呼ばれて背後を振り返ると、レギュラー達が走って広場に着いたところだった。
「ゆ、幸村部長!? みんなまで…」
「止めろ、赤也! もし今手を出したら、今度こそテニスを失うぞ! お前が女性を助けたことは、もうみんなが知っている!」
「真田副部長……」
 自分を制止した声に、す…と切原の瞳から紅の色が消えたが、彼は自嘲気味にその言葉を蹴った。
「手遅れッス…俺、退部届、出しました」
「……それってこれ?」
 すっと幸村が一通の例の封筒を切原に見せて、相手が頷いたのを確認すると、彼はそのまますたすたと歩み寄り、切原を囲んでいたグループさえも押し退けて彼の前に立った。

 ぺしっ!

「!?」
 幸村が投げつけた封筒が、切原の頬を叩き、ひらりと落ちてゆく…
「…え?」
「…こんな退部届は認めない、俺は」
 厳しい表情で、彼は続けた。
「退部したいんだったら、せめて読める字で文章を書いてくれ、切原! 誤字、脱字は当たり前で送り仮名もなっちゃいない。文の内容と、文字の形で眩暈を起こしたのも生まれて初めてだよ。俺は現代人なんだから、象形文字で退部届け出されても困るんだ!」
「うっ…す、すんません…!」
 割って入ってきた幸村に、向こうのグループの一人が肩に手を掛ける。
「おい、何勝手してんだ!」
「黙ってて、邪魔」
 置かれた手をぱしっと邪険に払いのけると、幸村は尚も切原に説教する。
「言いたい事はまだある。そんな大層な怪我を負ってきて、どんな強者と喧嘩してきたんだろうと思っていたら、何だい? こんなに細いチンピラ崩れみたいな奴らにやられたの? 仮にも立海の地獄の特訓こなしているんなら、もっと上手くやれるだろう」
 びしっと、そのチンピラ崩れを指差した幸村に、後方で見ていたレギュラーがぶっと吹き出す。
 言われた人間にしてみたら、この上も無い屈辱だろうが…
「だ、だって、女の人庇ってたし…!」
「それにしてもね、動きが悪過ぎる」
「おい、お前!!」
 完全に舐められた相手が、今度こそぐいっと幸村の胸倉を掴んで自分へと向き直らせた…が…
「うるさいね、いちいち」
「!!」
 笑みさえ浮かべ、優しい口調で言われたにも関わらず、ぞくっと寒気を覚えてしまった男が手の力を緩める…と、その隙をついて、幸村はぱしっと相手の腕を払い、手首を掴み、あっという間にねじり上げてしまった。
「いでででででっ!!」
「…簡単じゃないか。やっぱり心に隙があったみたいだね、切原」
「…反省してます」
「ならいいんだよ」
 グループが怯んでいる間に、幸村は腕をねじり上げた男をそのままえいっと放ると、切原の正面に立って言い切った。
「じゃあ、今から部活に戻ってもらう。緩んだ気を引き締めないといけないから、今日はいつものメニューより量を増やすからね」
「え…」
「君はまだ立海のレギュラーだよ、みんな、同意してくれた」
「……・」
 切原を連れて行こうとした幸村の前に、三度、男が立ち塞がった。
「や、やるじゃねぇか、女みたいな面しやがって! けど、今度はそうはいかねぇからな!」
「……」
 この時、レギュラー一同、『来たっ! NGワード!!』と思っていたが、口には出さなかった。
 そして言われた当人は、暫く笑顔を浮かべたまま相手を見つめていたが……
「…うん、やっぱりもういいかな…可愛い後輩をいじめてくれた以上、俺達も許す気なんてこれっぽっちも無かったし…」
と、宣戦布告ともとれる発言をした。
「へぇ、何してくれんだよ、たかがその程度の人数で」
「楽しい鬼ごっこかな…因みにね」
 ふふっと更に深く笑って、幸村は広場の周囲を滑らかな手の動きで指し示した。
「鬼はサービスしておいた、せいぜい楽しんでよ」
「!?」
 はっとグループの男達が見回してみると…いつの間にか、広場の周囲にはパトカーが止まり、警察官達が向かってくるところだった。
 更に、警察らしからぬ、壮年の男性達も車に乗り付けて来ている…あれはおそらくグループの男達が所属している学校の教師達だ。
 その大人達を引率して連れて来ていたのは、銀髪の若者だった。
「あそこです、女子供を襲った大悪人達なんで、早く捕まえて下さい!」
 詐欺師に指を指された男達は、先程までの威勢は何処へやら、泡を食って逃げ出したが、皆、レギュラー達に足を引っ掛けられたり、投げ飛ばされたり、何らかの妨害を受け、次々と捕まっていった。
 まさに、鬼ごっこ、だ。
「ふふ…結構粘るね」
「そりゃあなぁ…たっぷり絞られるだろうし…」
「事によっちゃあ犯罪で逮捕〜ってな…金品も奪ってたんだろぃ? トーゼンじゃねぇ?」
「どの道、ロクな結果にはなりませんよ」
「この隙に悪さ出来んよう、手や足の一本や二本、折ってやりゃあええんよ」
「これで人生、大きく下向いたな…同情などしないが」
「ふん! 思い知ったか!」
「……」
 てんやわんやと大騒ぎになっている周囲を見回して、切原は、傍の真田を見上げた。
「…真田副部長……」
「赤也…理由は分かった。お前には立海テニス部を去る理由は無い……しかし、何故言ってくれなかったのだ。俺達はそんなに信用がないのか?」
「ち、違うッス!! それはその…あの女性から、昨日のこと、絶対言わないでくれって…騒ぎに割って入ったのは確かに俺の方だったし…それで…」
「俺達は、その女性が職員室に来てから事実を知ったのだ…何があった?」
「え!? あの人が来たんスか!?」
「ああ、だからもう、下手に義理立てする必要は無い」
「……えーと」
 ぽり…と頭を掻いて、切原は何故か赤くなり、しどろもどろになりつつ説明した。
「そ、それは彼女が、えーと…彼氏とそこで……か、駆け落ちの相談してて…ばれちゃダメって事で泣きつかれちゃったんで…」
「……」

『そいつぁ確かに言えねーや』

 レギュラー全員が、心で激しく納得した。
「とんだ災難だったな…それは」
「で、何でお前が照れる」
「でも、何で学校に来たんだろ…駆け落ち成功したのかな」
「いや、親の許しが下りたとか」
「いやいや、逆に喧嘩して別れたってのも…」
「人の恋路を詮索しない」
 部員達の邪推をぴしりと禁じると、幸村は警察が殆どの仕事を終わらせた事を確認して、ひょいひょいと広場の外を指す仕草をした。
「じゃ、行こうか。時間が勿体無いからね」
 皆を連れて学校へ戻ろうとした幸村に、へへ〜っと笑いながら丸井が近寄った。
「何だぃ、結局幸村も、退部届で何かしら難癖つけて切原引き留めたかったんじゃんか〜〜」
 あんなに冷たい事言っておいて、結局甘いんだからなーっと言われた部長は、無言で、すっと例の退部届を取り出した。
 騒動が起こっている間に、また拾い上げておいたのだ。
「……見る?」
 幸村が一言だけ言って丸井に手渡したそれを、三年の他のレギュラー達が輪になって覗き込む。

『…………』

 暫くの沈黙の後…
「いや、幸村が正しい」
「こりゃ〜確かに受け取れねぇよぃ」
「全く、日本語として認識出来ないのですが…」
「悪魔の契約書か何かかの、これ…」
「どれだけ読書に勤しんでこなかったかが、如実に分かる良い例だな」
と、全員が一斉に幸村を支持した。
「アンタら、後輩の一世一代の決心を…」
 ひでぇ…と一歩引いたところで彼らを見ていたその後輩だったが…
「…はっ」
 背後に、おぞましい程に覚えのある殺気を感じて、顔面が青くなる。
 それは予想通り…
「何だ赤也…あの死にかけたミミズで象ったような図形は…」
 後輩の書いた書面を見て、怒り心頭の真田だった。
「げっ…真田副部長〜っ!?」
 怯える切原の危機を他所に、他の部員達はのんびりと我関せずで先を歩いている。
「じゃあ、切原の指導はやっぱりこれからも真田に任せるか」
「じゃな」
「あいつなら間違いないだろうし」
「私達では最早、手に負えませんからね」
 無論、真田も他の部員に切原の教育を任せるつもりは全く無かった。
 やはりコイツは、これから立海にいる限り、この俺が責任をもって鍛え上げてやらねば!

「赤也〜〜〜〜っ!! 貴様はこれから読書と書道も特訓だ――――――!!!」

 青空の下、気合の入った副部長の怒声が、今日もまた変わらず響き渡った……






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