桜乃の恋人決定戦


 その日も天は高く、心地よい風が吹いていた。
 和やかな秋の風景の中、立海大附属中学のテニスコートでは、いつもと同じ様に多くの部員達が体力と技術を高めるために切磋琢磨している。
「そろそろ休憩を入れようか」
「そうだな…時間的にも適したタイミングだ」
 部長の幸村の提案に、参謀である柳が快く頷いた。
 長くトレーニングを行っていても、どうしても集中力というものは散漫になるし、身体に乳酸も蓄積してくる。
 一度気分をリフレッシュさせつつ小休止を入れ、身体の調整も行う方が効率がいいのだ。
「では、各自休憩を取れ! 水分も忘れずに補給するように」
 副部長が指示を出し、部員達はそれまで行っていたトレーニングを中断し、軽い運動を始めた。
 彼らが無駄なくメニューを消費していることをしっかりと確認した後、柳が幸村に声を掛ける。
「精市、この間に次の練習試合の組み合わせについて一度検討を行いたいのだが…」
「ああ、二週間後のだね。そうだね、みんなの意見も聞きたいし…じゃあ、レギュラーは部室に集合してもらおうか。決められなかった場合は練習後でも後日でも再度打ち合わせということで」
「うむ」
 てきぱきとした幸村達の指示の許で、早速レギュラー達が部室へと召集をかけられたところで、先頭に立って部室に向かっていた幸村が、おや、と軽く瞳を見開いた。
「…竜崎さん?」
「あ…皆さん、こんにちは」
 部室の入り口の所で、彼らは見知った顔に会った。
 竜崎桜乃…青学の一年生女子だが、或る縁で立海のテニス部員である自分達とも交流が深い女性だ。
 学校は異なるが、時々ここを訪れ、幸村達からテニスについて教示を受けている少女は、彼らからはまるで妹のように可愛がられており、彼女もまた男達に非常によく懐いている。
 普段なら、部長である幸村の許に来て見学などを申し出る彼女が、今日は何故か部室の前で大人しく佇んでいた様子を見て、幸村以外のレギュラー達も一様に不思議そうな顔をした。
「こんな所でどうしたの? 見学に来たのなら、遠慮せずに来てくれたらいいのに」
 微笑む部長に、少女は少し赤くなりながら断った。
「あ、いえ…今さっき来たばかりなんです。皆さん、休憩に入ったみたいだったから…それにちょっと、テニス以外の事で相談があって、コートじゃ不謹慎かと思って…」
「?」
 何だろう…と幸村が後ろのメンバー達と視線を合わせたが、誰もが自分と同じ様な表情だ。
「テニス以外で…? で、俺達に相談?」
 丸井がぷーっとガム風船を膨らませながら言われた言葉を反芻し、それに続けて柳生が尋ねた。
「私達でないといけない理由があるのでしょうか? 例えば、青学の誰かとか…」
「あー…それも考えはしたんですけど…ちょっと…」
「…解せんのう」
 いつも朗らかで元気な少女が、やけに困った表情を浮かべては首を傾げる仕草を繰り返していると、詐欺師でなくとも訝りたくなるものである。
「うーん…じゃあ、部室の中で聞こうかな」
 ここでこうしていても埒が明かないと判断し、彼らは取り敢えず少女を部室の中へと招いた。
「では、先ずは俺が全員の意見や要望をまとめる。みんな、次回の練習試合で何か希望があれば言ってくれ」
「えーっと、俺はやっぱシングルスでやってみたいッス」
「俺はどちらでも構わんよ。ダブルスの場合は…やっぱりやり易いんは柳生かの」
「俺はシングルスにも興味あるな…ここ最近で鍛えた俺の身体能力がどこまでシングルスで活かせるか、試したいところだ」
 柳が進行役を引き受け、次々と上がる意見をまとめている間に、少しだけ時間が空いた幸村が改めて桜乃へと向き直った。
「…で、相談って何だい?」
「はい、あの…今度の日曜に時間が空いていらっしゃる方がいたら、その方に一つお願いが…」
「日曜、か…まぁ、その週は部活も休みだから、それぞれ個人の予定次第だね。俺達の内の一人でいいのかい?」
「はぁ…一人じゃないと駄目というか…」
「ふぅん?…で、何をしたらいいの?」
「え、えと…物凄くあつかましいお願いなんですが…」
「? うん」
 相変わらず向こうでは、他のレギュラー達がわいわいと賑やかに意見を交し合っている。
 興味深そうに聞き入る幸村の前で、桜乃がぼそっと小声で申し出た。
「その日に、私の恋人になってもらえないかと思って…」

『…………』

 ばさっと柳がノートを取り落とし、かたーんっと真田が鉛筆を床へと落とした。
 あれ程に賑やかだった部室の中は一気に無音の世界へと変貌を遂げる。
 今、何て言った…?
 全員が目を皿のようにして桜乃に注目する中で、かろうじて幸村が戸惑いの色を含ませた声で尋ね返した。
「ご…ごめん、ちょっと状況が把握出来ないんだけど…恋人?」
「はい…一日だけでいいんですけど…お暇な方がいらっしゃれば」

(何事ーっ!?)

 あまりに唐突な少女の申し出に、全員が反応に困って硬直している中、はた、と気付いた彼女がわたわたと両手を振り回す。
「あ、あ、あのっ! 本当の恋人ってことじゃなくて、あくまで振りということでっ! 決して御迷惑はおかけしませんから〜〜!」
「待って待って…落ち着いて話してくれる?」
 慌てる少女を優しく手で制し、幸村が落ち着くように促したが、内心落ち着きたいのは自分もだった。
 何の理由があってか知らないが…物凄い相談事だ。
 確かにこんな申し出をコートでされていたら、どういう事態になっていたことか…
「な、何でその…恋人なんて…?」
 たじろぎながらも興味津々といった様子で尋ねたのは、二年の切原だった。
 いや、彼だけではなく、他の男達もいつの間にか桜乃と幸村の周りへと移動し、聞き耳を立てまくっている。
「はい…実は今日、クラスで…」


 その日の青学の昼休み
 桜乃がいつもの様に、親友の朋香達と一緒に雑談に興じていたところ、そこに、別の女子のグループが話しかけてきた。
 クラスは違うが、時々一緒に話したりする子達だ。
「ねぇねぇ、今度の日曜に、みんなでカラオケに行かない? 付き合ってるコもいたら一緒に〜」
 その提案に最初に乗ったのは、桜乃ではなく親友の朋香だった。
「きゃ〜、いいねそれ! 私、リョーマ様誘っちゃう〜〜〜!!」
 相変わらずリョーマ一筋の親友の発言に苦笑する桜乃だったが、向こうのグループの一人が、それを聞いて笑いながら撥ね付けた。
「ヤダー、あんなのは付き合ってるなんて言わないじゃない。朋香もそうやって無駄な追っかけしていても、いつまでたっても恋人なんて出来ないわよ?」
 むか
 別に音としては聞こえなかったが、確かに桜乃はこの時、朋香の心の中で大きな不快感が生まれた音を聞いた。
「そんな事ないわよ!! リョーマ様は今はテニスに夢中だけど、いつかきっと振り向いてくれるもん!! 別に追っかけしていてもいなくても、恋人ぐらい作れるんだから!! 馬鹿にしないでよね!」
 もし朋香がそこで一歩でも引いていたら大事にはならなかったのだろうが、彼女の挑むような物言いに、向こうのグループもむっとした様だ。
 特に気の強そうな女子が一人、前に出て腕を組む。
「どうかしら? あなたはそう言うけど、実際男子テニス部に近いっていう女子は、誰も恋人なんていないみたいじゃない? 追っかけるだけで恋人なんて笑わせないでよ」
 更に朋香の怒りはヒートアップする。
「ちょーっと聞き捨てならないわね! 私はリョーマ様一筋なの!! でも恋人いる子もちゃーんといるもんっ!!」
 ぐいっ!!
「…え?」
 朋香が腕を引っ張ってきたのは…桜乃だった。
「え…朋ちゃん?」
「彼女はいるわよ、恋人! テニス部の応援をやって、そして恋もちゃーんと両立してんだから!!」
(ちょっと〜〜〜〜!?)
 あわわわ、と内心パニックに陥った桜乃を他所に、向こうのグループの女性達がふふんと鼻で笑った。
「へぇ…地味で大人しい竜崎さんが、そんな器用な真似出来るとも思えないけど? こういっちゃなんだけど、それこそ有り得ない話じゃない? まぁいいわ、そこまで言うなら見せてもらおうじゃない。次の日曜日、カラオケに彼氏を連れてきてよ、竜崎さん」
「え…えっ! 私…は…」
「いーわよ!! 絶対に連れていくから、しっかり拝みなさいっ!!」
 最後まで朋香に主導権を握られたまま、桜乃はただ青くなって固まっているしかなかった…


「…そういう訳です」

『……』

 はぁ…とため息をつく桜乃を見て、全員がまた沈黙…
「ひっでぇなぁ」
「まるで女丸井だな」
 非難する丸井の隣で、ジャッカルが心底気の毒そうに言う…何となく違和感を覚える台詞だが。
「…朋ちゃん?」
 不思議そうに呼び名を繰り返す幸村に、仁王が補足の説明をした。
「ああ、青学の一年ルーキーの熱烈なファンじゃ。殆ど青学応援団の名物と化しとる、やたら賑やかな娘での。一度見たら忘れたくても忘れられん」
「…楽しみだね。でも、それは確かに横暴じゃないのかな…君は何も言わなかったの?」
「い、言いました! でも…」
「でも?」
 真田の促しに、桜乃はかっくりと首を項垂れ、ぐすんと鼻を鳴らした。
「『桜乃は青学だけじゃなくて立海にも顔を出しているんだから、そこの誰かを適当に言いくるめて連れてきたら良い』って…どうせ違う学校だから、その場さえ凌げたら何とかなるって…」

(覚えてやがれ、朋ちゃんっ!!!)

 自分達をそういう事情で使おうたぁいい度胸だ!と全員が例外なく思う中、幸村がう〜んと首を傾げる。
「…でも、それは正直に言った方がいいと思うけど」
「私もそうしたいんですけど…もし連れてこなかったら、その日のカラオケ店の代金、全部私が払う事に…」
「アンタ、その朋ちゃんって奴の友達やめたら?」
 何で喧嘩を売った当人が安全地帯にいて、無関係の桜乃が地雷原に放り込まれなきゃならないんだよ、と意見する二年生に、他の先輩達もうんうんと一様に頷き、同意を示した。
「でも、朋ちゃんも悪気がある訳じゃないですから…」
「それは尚更危険ではないのか…」
 悪気があるのならともかく、何も考えずに災厄を撒き散らす方が、周囲の人間にとっては迷惑極まりない、と柳が思い切り顔をしかめた。
「…えーと」
「まあ、それは彼女の責任じゃないからね」
 困る竜崎を笑いながら庇い、幸村は軽く息をついた。
「…はぁ、これじゃあ、この問題を先に片付けないと、みんなも練習試合の検討なんて出来そうにもないな…しょうがない」
 少女の相手は自分が適当に考えておくから、検討を続けて…なんて言っても、誰も納得などしないだろう…
「じゃあ取り敢えず、今度の日曜日が暇で、一日恋人を引き受けてもいいって人は…」

『はいっ!!』

 全員、挙手…
 それはそれで、或る意味、情無い話なのだが……
「…ほんっとうに暇なんだろうね…約束、すっぽかそうと思ってない?」
 疑いの視線で見つめる部長に、部員達が尚も手を上げたまま主張する。
「すっぽかしはしないが、キャンセルする」
「右に同じ」
「大した用事でもありませんし」
「約束は破る為にあるんだぜぃ!」
 何となく引っかかる主張もあったが、引き下がる人間が一人もいないことはよく分かった。
「…分かったよ、俺も含めてみんなでアミダで決めよう。竜崎さん、誰が相手になっても恨みっこなしってことで」
「は、はい…」
 それからみんなの前で、幸村の手によってアミダクジが作成され、順番に一人ずつ選んでいった。



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