柚子茶でほっこり
『これ、どうしたんですか? 真田さん』
『家の親戚筋から送られてきたものなんだが、とても消費出来そうにないのでな。ここに持って来て、みんなにも分けようと思ったのだ。ああ、そうだ、お前も良ければ持って行ってくれ』
立海の男子テニス部部室で、そんな会話が交わされた約一週間後のこと…
「お邪魔します」
「あ、竜崎じゃんか。よく来たな」
「こんにちは、切原さん」
この日も、青学の一年生竜崎桜乃は、すっかり通い慣れた立海の男子テニス部を訪れていた。
青学と立海は、男子テニス部に関しては中学テニス界の一、二を争うほどのライバルである。
無論、ライバルと言ってもコート上の話であり、日常生活の上ではみんな良き友人関係を保っているのだが、地理的にも距離があり、お互いに練習に打ち込む時間が多い為、あまり深い交流は持てていないというのが現状である。
桜乃も、本来であれば立海という学校には縁が無い生徒であったのだが、或る夏の日に立海の男子テニス部レギュラーに助けられた事が切っ掛けで、奇妙な縁を持つことになった。
それでも、普通ならその時だけの話で終わる筈だったのだが、桜乃が彼らと同じくテニスを嗜んでいた事と、彼女が事の他、立海のメンバーに気に入られた事が、それからも度々彼らを引き合わせる事になったのだ。
時間があると桜乃は放課後電車に揺られて立海に赴き、彼らの練習を見学したり、指導を受けたり、結構充実したテニス生活を送っている。
生来の性格と一年生で一番年下という立場もあったのだろうが、テニスに熱心で、謙虚で素直な態度は部員達からも好意的に受け入れられ、桜乃は立海ですっかり可愛がられる存在となっていた。
今日も、訪れた先のテニス部部室にいた二年生エースから歓迎の言葉を受け、早速中へと招かれた桜乃は、他のレギュラー達にも失礼の無いように挨拶をしていた。
「こんにちは、皆さん。今日も見学に来ました、お邪魔にならないようにしますから、どうぞ宜しくお願いします」
ぺこんとお辞儀をした彼女に、先ず最初に答えたのは部長の幸村だった。
「こんにちは、竜崎さん。寒い中よく来たね。風邪を引かない様に、少しここであったまっておいで」
かつて病に伏していた心優しい男は、わざわざ訪れて来た少女にねぎらいの言葉をかけ、その身体を気遣ってくれた。
彼が言う様に、すっかり世間は冬の様相を呈しているが、部室の中は空調設備が整っているのでとても暖かい。
特に、今さっきまで寒い外を歩いてきた桜乃にとっては非常に魅力的な楽園だった。
無論、見学の際には外に出なくてはならないのだが、桜乃は今だけ相手の言葉に甘えることにした。
「…じゃあ、少しだけ甘えていいですか?」
「勿論。今日は特に寒いからね…部活を始めたら俺達はすぐにでも暖まるとは思うんだけど、君は練習内容も限られるし、体調がおかしかったらすぐに言うんだよ」
「はい…あ」
話している間に何かを思い出したように声を上げると、桜乃は部室の中で軽いストレッチを行っていた真田に向き直った。
「そうでした、真田さん…」
「ん?」
いつもの様に、祖父から貰ったという帽子を深く被って部活の再開に備えていた男は、少女から声を掛けられてそちらへと向き直る。
強面でいつもストイックに鍛錬に打ち込んでいる男だが、性根は非常に優しく、ただ、普段はそれを表現する事が苦手なのだという事は、もう桜乃も理解している。
だから、彼の鋭い視線に射抜かれても、彼女は全く動じない。
そして、理解されていると知っているのか定かではないが、真田もまた、桜乃と対峙する時には、いつもより僅かに表情が柔らかくなる…通常の人間が見ても気付かない程度の変化ではあるが。
「何だ?」
「この間はとてもいい頂き物を、有難うございました」
良い笑顔で一礼する少女に一瞬怪訝そうな顔をした真田だが、すぐに相手の言わんとした事を理解し、苦笑いを浮かべる。
「む?…ああ、あれか。貰える事自体は有り難いが、なかなか消費に困る物だっただろう?」
「そんな事はないですよ。で、お返しを持ってきたんですが…」
「え?」
そう言いながら、桜乃が自分の手提げ鞄から取り出したのは、結構大き目の透明のガラス瓶…
その中には黄金色の何かがみっちりと詰まっていた。
「それは…?」
「何だい、何だい!! 食い物っ!?」
真田の質問が終わらない内に、早速食べ物関係の匂いを嗅ぎ付けた丸井が割り込んできた。
その彼の行動に、他のレギュラー達も桜乃達へと注目する。
「柚子茶ですよ、丸井さん。正確には柚子の蜂蜜漬けですね」
「柚子? ああ、この間真田が持ってきとったのう」
「確か、御親戚から頂いた無農薬栽培の物と記憶していますが…」
仁王と柳生の言葉に誤りは一つもなく、真田は二人に頷いた。
「薬味としては使えるものだが、流石にあれだけあるとな…丁度、彼女も来ていたので、幾つかを分けたのだが…」
「俺の家では絞り汁で焼き魚を頂いた…凄く良い香りで食も進んだよ。有難う、弦一郎」
思い出した幸村が、嬉しそうにそう言って改めて真田に礼を言った後、桜乃の手にした瓶を見つめた。
「綺麗な黄金色だね」
「作るのは簡単なんですよ。作って一週間ぐらい寝かせたら飲み頃なんで、持ってきたんです。どうぞ、真田さん」
「む? いいのか?」
「勿論です」
受け取った副部長は、笑顔で答える桜乃に戸惑いながらも礼を言うと、じっと瓶の中を見つめた。
「…ふむ…俺は柚子茶というものは飲んだ事がないのだが…」
「とても美味しいですよ、甘くて」
「甘い!?」
少女の一言にぴきーんと丸井が反応して、じと〜っと真田の瓶を見つめ、その脇では柳が桜乃に対して簡単な説明を行っていた。
「柚子と言うのは、クエン酸、酒石酸、リンゴ酸などの有機酸類が多く含まれるので疲労回復、肩凝り、筋肉痛予防の他、胃痛解消、肝機能保護作用がある。香りの素である精油成分は血行促進や新陳代謝促進を助け、中でも柚子特有のノミリンは殺菌作用の働きがあり、風邪も治ってしまうそうだ」
「…うわぁ、流石、柳さん…私も知りませんでした。単純に、甘くて美味しいし、飲むと身体がほこほこあったかくなるから、冬になるとよく飲んでたんですけど…」
「女性の身体は冷えには弱いからな…確かに、旬でもあるし冬には好ましい飲み物かもしれない」
成る程…と桜乃が柳に頷いている隣で、暫く瓶を抱えていた真田が提案した。
「折角だ、みんな、ここで飲むか?」
「え…?」
「さんせ―――――いっ!!!」
作ってきた本人である桜乃が反応するより早く、丸井が手を上げて賛同する。
ずっと狙っている素振りを見せていたのだから、或る意味、納得のいく反応だったが。
「精市、いいだろうか?」
「飲み物を飲むぐらいの時間はいいんじゃないかな、確かに、折角彼女が手作りで持って来てくれたものだし…でもいいのかい、弦一郎? 君が貰ったものじゃないか」
「結構量はありそうだ…それに」
言いつつ、やれやれと視線を先に向けると、その先では早速賑やかにコップとポットのお湯を準備している切原や丸井達の姿があった。
「…お預けの状態では、ロクにテニスに集中出来んだろうからな…」
「殆ど飼育員の気分だね」
怒りとやるせなさで肩を震わせる副部長に、部長も正直な感想を述べるに留まった。
本気を出せばテニスの能力はずば抜けているのに、どうしてこう他の部分では普通にすら振舞えないのだろう…
「飼育員って…ちょっと言い過ぎですよ」
幸村の発言に桜乃は笑って丸井達を擁護したが、そこにジャッカルが渋い顔で割り込んだ。
「お前は奴らに甘過ぎるんだ、竜崎…俺なんか、部活中に菓子ばかり食ってるアイツらを注意しては、毎回ヒドイ目に遭ってる」
「ジャッカルは切原の目付けでもあるから」
「…ヒドイ目って…?」
笑う幸村の隣で不安げな顔をした桜乃に対し、ジャッカルは心底疲れた表情を浮かべつつ左腕を掲げてみせた。
掲げられた腕には、くっきりと歯形の跡…おそらくここ数日中に付けられたものだろう。
「下手に菓子を取り上げようとすると…噛むんだ」
「犬だよね」
幸村の発言は、更に容赦がなくなっている。
「…お疲れ様です」
「お前も気をつけろよ、ヤバイと思ったら食べ物を囮にしてすぐに逃げるんだぞ」
すると、ジャッカルの忠告を耳にした、元凶である丸井が速攻で声を上げた。
「おさげちゃんを噛むワケねーだろいっ!! てか、俺そんなに悪さしねーもん…ジャッカル以外は」
「俺だけかよっ!!」
ジャッカルが突っ込んでいるのを他所に、切原は入れる柚子の量について真剣そのものだった。
「竜崎―、どんだけ入れたらいいんだ? これ」
「大体はスプーンに一杯掬って丁度良いくらいです…あとはもうお好みですね」
「ふーん」
何だかんだと言いつつ、桜乃が二人を手伝い始めたのを切っ掛けに、他の部員達もわらわらと集まって、それぞれの柚子茶が入ったコップを手に取った。
部室の中にはしっかりと個人用のコップが準備されており、最近は桜乃の分もお仲間に加えられていた。
すっかり、準部員である。
「うわ…何かすっげぇいい香りがする〜」
部屋中に漂う香りに丸井が嬉しそうな声を出し、他の部員達もすぐにコップに口を付けようとはせず、暫し香りを楽しみ始めた。
「ええのう、何か、落ち着く香りじゃ」
「柚子特有の清涼感がありますね」
「確かに…色も鮮やかで香りも良いと、食欲を刺激されるな」
柳達がそう話している間に、やはり最初に茶に口を付けたのは丸井だった。
「うめ〜〜〜〜〜!! あったまる〜〜〜〜!」
歓声を上げる彼の隣では、ジャッカルが驚いた顔をしてしげしげとコップの中身を眺めている。
「へぇ…酸味と甘味が凄く合うな…使っているのは柚子と…?」
「蜂蜜だけですよ」
桜乃の答えに、また驚く。
「それだけなのか? 蜂蜜を使っている割には、甘味もくどくないし…」
「あー、ちょっと柚子の量を多めにしてみたんですよ。だからかな」
「へぇ〜」
「あれだな、蜂蜜レモンに似てっけど、俺、コッチの方が好きかも。皮も食えるし」
「これが美味しいんですよね。無農薬の醍醐味です」
ぐいぐいとコップの中身を胃袋に流し込んでいる切原は、既に二杯目を目論んでいるらしい。
その傍では、至って行儀良く茶を飲んでいる幸村がジャッカル同様に感心していた。
「味がとてもまろやかだから飲みやすいんだね…風邪の時にも良さそうだ」
「うむ、こういう風味は嫌いではないな」
真田も頷き、微笑んで桜乃に礼を述べた。
「すまんな、竜崎。却って俺の方が得をしたようだ」
「そんな…結構お手軽に作れるものですよ。喜んで頂けて何よりです」
「う、うむ…」
その二人がほのぼのと話している向こうでは…
「おかわりおかわり」
「持って帰られる前に飲み切っちまおう」
と、悪巧みをしている輩が再び柚子茶の瓶とポットに特攻をかけていた。
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