「……」
「あ、あの……また作って来ましょうか?」
 わなわなと震えて悪戯っ子達を睨みつけた真田に桜乃が必死にフォローに走ったが、残念ながら彼の怒りは抑える事は出来なかった。

「飲んだらさっさとコートに出んかーっ!!」

 一喝。
 ぽいぽいと外に放り出された丸井達を苦笑しながら他のメンバーが眺めている中、唯一優しい桜乃だけが本気で彼らを心配していた。
「お、おかわりぐらいはいいかと…」
「それを認めたら、奴らは部活の間中、おかわりを繰り返すだけだ」
 真田の台詞も凄いが、それに対して誰も反論しないのも凄い…
「えーと…」
 リアクションに困っている桜乃に、くすくすと笑いながら幸村がぽんぽんと頭を叩いた。
「大丈夫、彼らは打たれ強いから…さて、美味しいお茶も頂いたし、俺達もそろそろ行かなきゃね」
「そうじゃの」
「行きましょうか」
「ごちそうさん、竜崎」
「お前も、見学するならいつもより身体を暖めておくことだ」
「ではな、良い物を有難う」
「は、はい…」
 全員が出て行った後は、賑やかだった空間が、しん…と静まり返った。
 今しがたまでみんながそこにいたのだという事実を示す、飲み終わったカップの数々が、却って静かな空間の中で物悲しさを訴える。
(…喜んでもらえて良かったなぁ)
 一人になった桜乃は、それからすぐに外に向かっても良かったのだが、その前にどうしても部屋が汚れているのは許せない性分なのか、瓶を共同の冷蔵庫へと片付け、コップを全て洗って所定の棚へと片付けてから、そこでようやく彼らに続いて外へと向かったのであった。


 桜乃の心配りの効果は、意外にも早く認められていた。
「ええと…身体の軸を保ってブレないように…と…」
 バックハンドの練習をしていた時、桜乃の脇をすいっと仁王が通り過ぎ…止まった。
「おう、竜崎…バックハンドか?」
「あ、はい…最近やっと実践で使う事が出来るようになったんですけど、まだ上手くいかないです、ちょっと力のある球を打ったら、逆に弾かれて…」
「ふむ…威力のある球を打ちたいんなら、肩をしっかり入れることじゃよ。それと、身体で打つことを意識して、手打ちにならんようになー」
「肩ですか…」
「それと、踏み込みもしっかりな、遠慮してもええことはないぜよ」
「あはは、そうですね…」
 相手のアドバイスに耳を傾けつつ、不意に顔を上げて彼の顔を見た桜乃は、きょとんとした表情で首を傾げた。
「…仁王さん、いつもより汗が多いですね」
「ああ…やっぱりそう見えるか?」
 自覚はあったらしく、仁王はすんなりと相手の言葉に頷いて、頬を伝う汗を拭った。
「いつもよりきつめのトレーニングなんですか?」
「いや、強度としてはそうでもない筈じゃ。それに俺自身も過度に動いとる自覚もない…はは、お前さんの柚子茶の所為かもしれんの」
「まさか…」
 笑う桜乃に対し、仁王はしかし、そうか?と真面目に返す。
「多少は効能があったのかもしれんよ? 現に俺以外のレギュラー達も、いつもより良い感じに動けとる。血行が良くなって、寒冷の影響を受けにくくなっとるのかもしれん」
「お役に立ったのなら嬉しいですけど…」
 それでも一杯のお茶でそこまでなるのだろうか…?
「しかしあれは美味かった。後で真田に頼んで、もう一杯分けてもらおうかの」
 にっと笑って悠々と歩いて行く仁王に一礼を返した桜乃の傍を、今度は切原が通りかかった。
「お、竜崎」
「切原さん、あの…あれから大丈夫でしたか?」
 あれから外に放り出された後は、思い切り真田にしごかれていた様な…あまり詳しく語ると気の毒だから止めておこう。
 気遣う桜乃に、しかし切原はあっけらかんと答えた。
「ああ、全然平気…ってか、あのさ、あのお茶、マジで柚子と蜂蜜だけなの?」
「は?…そうですけど…?」
「へえ…結構効くモンなんだな〜」
 桜乃の答えにやたらと感心して頷く相手に、逆に彼女の方が疑問を抱く。
「何がですか?」
「いや、寒くねぇの、全然」
「え…?」
「ま、動いてるってのもあるけど、いつもより全然あったかくて調子いいんだよ。やっぱあれか? 柚子茶のお陰?」
「どうでしょう…でも、仁王さんも同じ事を言っていましたよ?」
「へぇ! やっぱそっか。こりゃ後で、また真田副部長に御馳走してもらわねーとな」
 結局、そこに行き着くのか…
「懲りませんね…」
「なーに、部員の体調管理ってことにすれば、副部長も許してくれるって!」
「呑気なんですから…でも、皆さんが元気でいて下さるなら、それが一番ですけどね」
 あはは、と笑い合って切原とも別れ、桜乃が再び一人でバックハンドの練習を始めていた一方では…
「…何だか身体が火照るね」
「うむ…不快な程度ではないが…少し戸惑うな」
 そんなに動いていないのにも関わらず、いつもより身体が熱を持っている感覚は、仁王や切原だけでなくレギュラー全員の一致した見解だったらしい。
 困惑気味に笑う参謀に、部長も同じ様に笑った。
「効果覿面だね、ジンジャーティーみたいなものかな?」
「柚子を多めに使っていると竜崎は言っていた。その分、成分が効いているのだろうな」
「ふぅん…」
 結局、その後、部活動が終わった後でも、真田は他の仲間達のおねだり攻勢に勝てず、再び柚子茶を全員に振舞っていた。
 うまうま〜とお茶を啜っているみんなを眺めつつ、真田は仕方ないとマジックペンを取り、瓶にきゅきゅきゅ…と何かを書き込んでいった。
『立海テニス部共用』
「…真田さん?」
「すまんな竜崎…しかし、効果を認めた以上は俺だけで使うというのも勿体無い。これは有難く、部の全員で頂こう」
 無論、桜乃に否やのあろう筈もなく、寧ろ嬉しくなってにこにこと笑顔を浮かべた。
「嬉しいです! 少しでもお役に立てて良かった!」
「そ、そうか? そこまで喜ばれるとは思わなかったが…」
「遠慮なく飲んで下さいね」
「うむ…」
 桜乃に頷いた真田は、しかし向こうで既に数杯目のおかわりに手をつけているレギュラー達に視線を遣り、少女もそれに倣った。
「……」
「……」
 暫し無言になった副部長が、渋い顔で目を伏せる。
「…少しは、遠慮というものを知るべきだとも思うが…」
「はぁ…」
 苦渋の相手の一言に、桜乃も苦笑いで頷いた。


 桜乃の柚子茶は好評を博し、部員の間で評判となった。
 如何に大き目の瓶とは言え、それはすぐに完売御礼となったのだが、実はこれだけでは話は終わらなかった。
 それから程なく、真田から桜乃に、また作ってほしいと要請があったのだ。
 どうやら、彼が柚子を送ってくれた親戚筋に簡単な経過と共に礼状を送ったところ、また新たに大量の柚子が家に送られて来たらしい。
 丁度柚子茶も切れた事と、やはり消費に困ったというのが本音だろうが、彼の要望に桜乃は二つ返事で応じ、また新たに大量の柚子の蜂蜜漬けを製作して複数の瓶に詰め、立海に届けたのである。
 予想以上の効果を認めたのは、それから暫くして、関東圏で冬季の風物詩、インフルエンザが流行を始めた頃だった。
「え? 学級閉鎖?」
「うん…何だか今年は凄い猛威を振るっているらしくて、もう少しで学校閉鎖にもなる勢いなんだ。青学はどう?」
「ウチも結構閉鎖してるんですよ。今年は嫌な当たり年ですね」
 立海男子テニス部部室内で、桜乃は幸村とそんな会話を交わしていた。
 二人の前には、最早お約束になっている様に柚子茶が煎れられている。
 互いの学校の、インフルエンザの弊害について話していたところで、桜乃はあれっと思いついた。
「え、じゃあ、あの…テニス部も本来は休部している筈なんじゃ…部員の方々でもお休みしている人、いるでしょう?」
「いや、それが、ね…」
 にこ…と笑う幸村の隣で、参謀が淡々と答えた。
「ウチの部に限って言えば、これまでインフルエンザを含めた風邪の発症者は一桁だ。学校閉鎖になって全活動を自粛されてはどうしようも無いが、今のところは問題なく練習を行えている」
「うわ…流石は立海の皆さん、体調管理も完璧ですね」
「…偶然かどうかは分からないが」
「?」
 そこで言葉を継いだ柳は、実に奇妙だという表情を浮かべた。
「お前から柚子茶を貰った者が例外なく感染症の魔手から逃れられている。かなり有意なデータだ」
「ぐ…偶然じゃないですか?」
「でも確かに、アレ飲んでから家の家族も凄い調子良いって言うしなぁ…」
 傍からのジャッカルの一言も、柳の仮説を支持する。
「え? 家族…って」
「いや、あれからお前が新しく作ってくれたヤツなんだけど、みんなそれぞれ小瓶に詰めて、自宅に持ち帰ったりもしてたんだよ」
「勿論、俺もやりました」
「ええ!?」
 楽しそうに手を上げて笑う幸村の反応だと、おそらく自宅でも好評だったのだろう。
「マーマレード代わりにしてもいけましたよ」
「ウチは、帰ったらもう空の瓶が転がっとったよ。美味いのも考えもんじゃ」
「やっぱ俺達もいつもの冬より全然元気だし、アレのお陰じゃねぇのかぃ?」
「ええ? だって、本当に普通の柚子茶なんですけど…」
 そんな万能薬みたいな効能があるとは、常識的には思えない、という桜乃の意見には、柳も特に反対はしなかった。
「薬…という考え方ではなく、予防の効果が大きかったと考えるべきだろうな。確かに俺達は普段から健康面には気を配っているが、そこでも生じうる小さな綻びをカバーしてくれたと思えば合点もいく話だ」
「はぁ…」
 言われてみればそういう風に取れなくもないが、作った本人としては、聞いていてむず痒い。
「美味いからさ、結構習慣になったってのも良かったんじゃね? うがいを習慣にするのって難しいけど、美味いものだと自然に手が伸びるし」
「いやしんぼの勝利ですか…」
「勝てばいいんだよ、勝てば」
 悪魔の様な思考を露にした切原だったが、すぐに背後からの副部長の一喝で戒められる。
「そういう言い方をやめんか!! 堂々と戦って打ち勝ってこその立海だろうが!!」
「おわぁ!」
 反射的に背筋を反らして、元のやんちゃ小僧の顔に戻った切原に桜乃が笑い、真田は済まなそうに代わりに彼女に詫びた。
「全く…いつまでも成長の無い…脅かして済まんな、竜崎」
「いいえ、切原さんがそういう気はないというのは分かっていますから……そう言えば、真田さんも功労者じゃないですか」
「む?」
「また頂いた柚子もとても良いものでしたよ? 私が作ったからというより、柚子の質が良かったんじゃないですか?」
「う…いや、それは…」
 自分が手がけたものであればすぐに遠慮も出来たのだろうが、親戚筋からの貰い物である以上すぐに否定する事も憚られ、律儀な副部長は言葉を濁した。
 その向こうで、桜乃の率直な一言を聞いた部員達が、確かに…とその意見に同調していた。
「確かに、よくよく考えたら、あの真田の親戚筋だよな…」
「何か、とんでもない肥料使ってんじゃないのかぃ?」
「タウリン五万ぐらい仕込んでそうじゃの…」
「無農薬で育てた場合、植物が逆に農薬並の有害成分を蓄えることがあると聞きますが…」
 聞けば聞く程に無礼な発言である。
「…お前ら一体俺にどんなイメージを持っとるんだ」
 最早、怒りを通り越してその表情には困惑の色が浮かんでいる。
 無論、誰も答える筈もなく、それを見越した幸村がふふふと笑った。
「そうだね、弦一郎の御親戚にも感謝しないとね…で、礼状はまた送るの?」
「いや…今度は電話で済ませた…ついでに、もう柚子は在庫があるからと断っておいた」
 余程、大量に送られたのだろう、真田の顔が辟易していると語っていた。
「賢明だね…でも多分、来年も同じ攻撃がきっと来るよ」
「う…」
 幸村の言葉にかなり高い可能性を感じて、真田は言葉に詰まり、その彼の代わりに幸村は桜乃に振り返って言った。
「という訳で、来年も宜しく、竜崎さん」
「はい? 柚子茶ですか?」
「そう、弦一郎の親戚付き合いと君の腕があれば、来季の冬も立海テニス部は安泰みたいだからね」
「ってかさぁ、おさげちゃん、柚子茶屋さんになれば?」
 きらきらとした瞳を向ける丸井…信じられないが、本気の様だ。
「うーん…夏場は暇かもしれませんね」
「じゃあ、海の家とか屋台とか…」
「も、もう少し生活基盤がしっかりした職業の方がいいです…」
 あはは…と強張った笑みを浮かべながらも、桜乃は幸村の頼みそのものには頷いた。
「いいですよー、じゃあ、次の冬までに腕を磨いておきますね」
「楽しみにしているよ」
 そんな和やかな時が流れていた立海男子テニス部の今年の冬は、それからも結局、殆ど感染者という犠牲者が出ることなく、無事に暖かな春を迎えたという。

 次の冬、桜乃が手がけた柚子茶が再び彼らを支えたかということは、また別の話……






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