言われるままに、桜乃がもぞっと袖を通して幸村のジャージを着込み、前のチャックを閉める。
「どう…ですか?」

『……』

 桜乃の不安げな問い掛けに答える者はいない。
 全員、ただひたすらに今の彼女の姿を凝視しているばかりだった。
 線が細いとは言え、幸村は桜乃より年上で男子であり、当然その体格差は著しいものがある。
 襟周りは余り、袖はたっぷりと彼女の手すらも隠してしまっている。
 そのだぶだぶのジャージを幼い少女が来ている姿は、男にとっては垂涎モノとも言えるだろう。
 しかも、猫耳と猫尻尾付き…ご馳走様。
「えっ…ダメですか? 似合いません?」
「いや……似合う似合わない以前の問題としてですね…」
「…殆ど犯罪じゃろ、こんなツボ突きまくりのコスプレ…なぁ、真田」
「今の俺には何も聞くな―――――――っ!!」
 もう一押しで錯乱するところまで精神的に追い詰められた副部長は、ぶんぶんぶんと首を激しく振って必死に桜乃から視線を逸らしている。
 純情な若者には、流石に刺激が強すぎた様だ。
「…ハロウィーンって、そういう主旨のイベントだったっけ?」
 悩む幸村に、丸井はぐっと親指を出して言い切った。
「お菓子が貰えたら結果オーライッ!」
(色仕掛けとは卑怯な…しかし確かに効率的ではあるな)
 柳はあくまでも客観的な分析に徹した。
「…てーかさ、こんな子回らせたら今度ウチのテニス部の入部希望者、すげぇ勢いで増えるんじゃないッスか…その、別の理由で」
「道理だな…」
 切原が呟く脇で、ジャッカルがうんうんと激しく頷いたが、相棒の発案者本人は全く気にする素振りもなく、桜乃の肩をぽんぽんと叩いている。
「ってワケで宜しく〜! 大丈夫、俺の傍にいて猫娘っぽく『トリックオアトリート(お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ)!』って言えばいいだけだから簡単簡単!」
「いえ…この恥ずかしさを消すのは結構難しいです…でも、猫娘っぽくって、どうやって?」
「ん〜、ほら、手を猫の手っぽく握ってさ、顔の傍に持っていって…悪戯好きの猫っぽく笑って…ほれ、やってみ?」
「え、えーと…トリックオアトリート?」
 試しに言われた通り実行した桜乃の仕草は非常に可愛いものだったが、やった相手が悪かった。
「…ほう」
「え…?」
 彼女の前にいたのは、よりにもよって銀髪の詐欺師だった。
 桜乃にそう言われた男は、にやっと少し意地悪な笑みを浮かべると、彼女の方へとずいっと寄り、両手をわきわきと動かした。
「トリック(悪戯)で俺に挑むとはいい度胸じゃのう、竜崎…じゃあ、お前さんにはどんな悪戯をしてやろうか…? 可愛い声で泣かせるのもたまにはええかもしれんな…」
「きゃ〜〜〜〜〜〜っ!!」
「仁王、からかい過ぎだよ」
 悪戯するどころか怯えまくってしまった桜乃を優しく庇うと、幸村は丸井へと向き直った。
「じゃあ、ブン太…連れて行くのはいいけど、今の仁王みたいな輩からはしっかり守ってあげるんだよ」
「さりげない嫌味をアリガトウ」
 丁度いい演習になったじゃろうが、と笑う仁王は全く懲りていない様子だが、元々桜乃をいじめるのも本気ではなかったのか、すぐにポケットから手持ちのキャンディーを取り出して彼女に与えた。
 今日のイベントの準備として、他の部の代表にあげる分はみんなが持参している様だ。
「じゃ、さっきの意地悪はこれで勘弁なー。たっぷり稼いで帰って来んしゃい、楽しみにしとるよ」
「わぁー! 有難うございます、行って来ます!」
 仁王からのプレゼントで気を取り直し、桜乃は丸井に連れられて部室から出て行った。

『………』

 桜乃が去った後、暫く男達は無言になった。
 いつもと変わらない部室の風景…しかし、何となく違和感を覚えるのは、数秒前までのここの世界があまりにインパクトが強すぎた所為か。
「…ブン太に着せた方がまだ良かったって後悔してるんじゃない? 弦一郎」
「……」
 無言と言うことは図星の様だ。
「どうなりますかね…成果の方は」
「……俺だったら、持ってる分のお菓子全部、貢いじまうかも…」
 柳生の呟きに青い顔で切原が答えると、ジャッカルがしみじみと付け加えた。
「男としては或る意味正しいけど人としては失格だよなぁ…」


 そんな男達の心配を他所に、丸井は桜乃の手を引き、シーツオバケの格好で校内をくまなく練り歩いた。
 正直、自分のシーツ姿についてはあまり人目を引くものではないという自覚はある。
 ありきたりだからだ。
 しかし、桜乃については違う。
 尻尾や耳というアイテムだけなら他の女子もやっているかもしれないが、桜乃の髪を解いた時の雰囲気は、おさげの時とは一変する。
 派手…というよりも華があるのだ。
「あの…何だか目立ってませんか?」
「気のせい気のせい、それよりもお菓子落とすなよぃ?」
 なるべくその事実から目を逸らさせながら、丸井は確実に主に男子の所属する部から大量のお菓子をせしめていた。
 無論、部長の幸村から言われた通り、下手に桜乃に言い寄ろうとした男子からは即座に彼女をガードする役目もきっちりこなす。
「ほらほら、写メってんじゃねーって、そこ!」
「丸井―、誰だよこの子、めっちゃ可愛いじゃんか!」
「へっへー、ウチの自慢の箱入り娘だよーい! 写メしたいんなら、さー貢いだ貢いだっ」
「ちょ、ちょっと丸井さん? 悪ノリしすぎですよ」
「いーんだって、男ってそういう生き物なんだから」
(…この人の男性観って一体…)
 そんな二人がぐるりと校内を巡って部室に戻った時には、手提げの籠を使っても尚、両手で抱えても間に合わない程の大量の戦利品が二人の腕を占領していた。

「お帰り」
「ただいまっ!! すっげーだろ、間違いなく一位はウチで決まりだぜ〜!?」
「た、ただいま帰りました〜〜」
 嬉々としてお菓子を抱えた丸井の後に続いた桜乃は、喜びよりも少し疲れの方が大きい様子だ。
「竜崎さんに無理させたんじゃないのかい? ブン太」
「あ、いえ…違います。やっぱり恥ずかしくて、私が勝手に気疲れしただけですから…改めて思いましたけど立海って、全部回ると広いんですね」
「そりゃな、大学までの一貫校だし、施設も結構全国的にも大きい方だからなぁ…まぁ取り敢えずはお疲れさん、ほれ」
 相棒に振り回されただろう少女の疲れを気遣い、ジャッカルがジュースの入ったコップを桜乃の前のテーブルに置く。
 テニス部にも他の部が回って来たのだろうが、今はもうその姿も無く、ここにはいつもと同じくレギュラーの面々が集まっていた。
「わ、有難うございます」
「そう言えば、肝心の俺達がまだお菓子あげてなかったね」
 思い出した様に言うと、幸村が桜乃にポケットから小さなチョコやクッキーの小袋を差し出した。
「はい」
「わぁ、美味しそう…あ、でもちょっと今は手が塞がってますから…」
 お菓子を抱えたままの桜乃が、テーブルにそれを置こうかどうしようかと迷っていると、相手はにこっと笑って一個のチョコを包装紙から取り出した。
「大丈夫、食べさせてあげるから口を開けて?」
「は、はぁ…すみません。じゃあ…あーん」
 少し照れながらも、嬉しそうに幸村に向かって軽く口を開いた桜乃の姿に、辺りのレギュラーがざわっとざわめく。
『うわー、可愛い』
『幸村もやるのう…』
『確実に狙ってましたよね…』
『次、俺もやろうかなー』
 狙っていたのかどうかは不明だが、幸村は桜乃の愛らしいおねだりに満足して、くすくすと笑いながら口の中にチョコをそっと差し入れてやった。
「はい、どうぞ?」
「わぁい」
 あむあむとチョコを食べている少女に、また次々に男達が餌付けをしようと集まる光景を見て、参謀がうーむと顎に手をやりつつ思案した。
「……本当にそういう店があったら、竜崎は指名度一位は確実だな」
「たるんどるっ!! ここは中学のテニス部であって、断じていかがわしい店ではない!! 来年度は、男子テニス部に限っては女子の例外は認めず不参加にするように申し伝えるぞ、俺は!」
 先程から目の前に広がる異様な世界に呑まれまいと、真田は必死の抵抗を試みていたが、部長の幸村は別に大した事でもないという様に余裕の素振りを見せて相手の肩をぽんっと叩いた。
「まぁまぁ…今年は別にいいんじゃないか? 折角だから弦一郎も竜崎さんにご褒美あげておいでよ。彼女もある意味巻き込まれた側の人間だけど、精一杯頑張って来たんだろうから」
「う……」
 その格好はどうであれ、確かに幸村の言葉にも一理ある。
 結局、部長に背中を押される形で副部長も桜乃に餌付けを行い、何も知らない彼女からお礼まで言われてしまった。
「有難うございますー」
「…元はと言えば、俺の責任だからな…」
 そう言いつつも、おねだりする桜乃の姿は真田から見てもまんざらではない様子である。
 しかしそれでも何となく腑に落ちないところがあるらしく、彼の愁眉は晴れなかった。
 当初、丸井にダメ出しをした時には、まさかこんな事になるとは思ってもみなかったのに…
 こんなに苦悩する羽目になるのなら、本当に最初から丸井にあの格好をさせていたら良かった…!!
 そんな男の苦悩は全く知らずに、桜乃はのほほんとした顔で手に抱えていたお菓子をテーブルに乗せている。
「ビミョーな表情じゃのう、副部長殿は」
「しかし、来年は同じ手は使えないようですよ? どうするんです、丸井君」
「んー…じゃあやっぱ俺が着けて回るかー」
 柳生の問い掛けに、早速貰ったお菓子を開けながら頬張っている丸井がぞんざいに返した。
(何でそこまで身体を張る必要があるんだろう…)
 後輩の切原は心からそう思ったが、聞くのも何となく恐くて黙っている。
「…しかし、こういうのは何だが、こんなに似合っているなら少し勿体無い気もするのう」
 詐欺師は桜乃の今の姿は結構気に入ったらしく、彼女の頭をなでなでと撫でながらそんな事まで言い出した。
「仁王…そういうふざけた事を言うな」
「…写真で撮ったら売れんかの。裏で流せば結構な部費の収入源になるやもしれん」

『オイオイオイオイッ!!!!』

 危険極まりないアイデアを口にした男に、他の男達が間髪入れずに突っ込んだ。
 それは最早、ハロウィーンの理念からは銀河の彼方並みに隔たりがあるだろう!!
「仁王っ!! 貴様、何を…」
 物凄い勢いで相手を叱責する副部長の隣で、部長がにこりと笑って付け加えた。
「脱ぐのはダメだよ」
「精市〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
「まぁそれは冗談だけど…幾ら何でも竜崎さんをそんな売り物みたいに扱うワケないだろう。俺達の可愛い妹分なんだし」
「それもそうじゃの」
(へー…撮るのはダメだったんだ。写メってた奴ら、結構いたけど…てか、お菓子三割増しで黙認してたけど)
 日和見な丸井は心の中で思っていたが、口に出すと何をされるか分からないので黙っておいた。
 後日もし誰かにばれたとしても、自分の知らないトコロで撮られたと言えば、まぁ大丈夫だろう。
「…あ、そうでした。これ、お返ししないと」
 思い出した桜乃が羽織っていた幸村のジャージを脱いで彼に手渡し、相手はそれを受け取ると再び元の様に肩へと掛けた。
「うん、有難う」
『…どーもさっきから、違う意味の光景に見えちゃうんだよな〜〜』
 でも言えない…『ご主人様』に自分の身体で暖めた服を手渡す猫娘みたいだなんて……
『俺もさっきから違う自分が目覚めてしまいそうで恐いッス…』
 ジャッカルや切原がそんな会話をこそこそと交わしている間に、桜乃はようやく猫耳と猫尻尾を取って、元の姿へと戻った。
「ふぅ…やっぱり元の格好が一番落ち着きます」
「髪は編まないの?」
「うーん、もう今日は見学だけで終わりそうですから、そのままにします」
 それでも結構、他の男子の目は引くだろうな…耳や尻尾がなくても、十分に。
「そう? でも見ている俺達がちょっと気になるから…やっぱり編んでくれる?」
「あ、そうですか? じゃあそうしますー」
 あっさりと幸村の頼みを聞き入れて、早速三つ編みに戻している少女の脇で、柳と真田がこっそりと頭を突き合わせていた。
『俺達だけは知っている……他の男が寄り付かない様に、おさげでいつもの様にカモフラージュさせるつもりだ』
『分かってしまう辺りが、非常に空しいがな』
 それを止めないのは、当然自分達も桜乃を守るのに異論がないからだが。
「ちぇっ、じゃあ来年はおさげちゃんのハロウィーン姿は無しかぁ…お菓子抜きにしてもちょっと残念」
 可愛かったのになーっと不満を漏らしていた丸井の隣で、ぼそっと切原が呟いた。
「…外に出さなきゃいいだけの話じゃないッスか?」
「……」
 あまりに単純且つ短絡的な解決策だったが、これ以上の名案もあるまい。
 つまり、桜乃にそういう仮装をさせても、外に出さずにテニス部内で楽しめばいいだけの話なのだ。
「成る程、その手がありましたか」
「それなら遠慮は要らんのう」
「お前、変なトコロで頭いいな〜! それ貰った! おさげちゃん、次のハロウィーンも必ず来いよな!」
「はい?」
 残念ながら彼らの密談が全く聞こえなかった桜乃は、早くも来年の眼福材料にほぼ内定が決まってしまった様だ。
「赤也、お前後で俺の所に来い」
「えっ!?」
 最早、他の部員達の暴走は止められないと悟った真田は、感じ始めた頭痛にこめかみを押さえながら、原因となった後輩に怒りをぶつけた。
 絶好の土壌に、思い切り良くトラブルの種を振り撒きおって…!!
「ふふ…来年のハロウィーンも面白そうだね。その日は俺もここに来ようかな」
「…お前は人生楽しそうでいいな、精市」
「弦一郎が自分で難しくしているだけだよ。みんなが楽しいならそれでいいんじゃない? 犯罪犯しているワケでもないし」
「…犯罪を犯している訳ではないのに、この罪悪感は何だろうな…」
 向こうで楽しそうに部員達と談笑している桜乃を見ていると、何となく哀れな気持ちが湧きあがってくる。
 いや、彼らが心底彼女を可愛がっているのはよく知っているのだが…それでも、何かが違っているような…
「…ふぅ」
 結局、来年も同じ様な騒ぎが繰り返されるのだろうな…
 そして多分、そこには自分もいるのだろう。
 しかしそんなバカ騒ぎも心から嫌と言えない己を認めてもおり、副部長は仕方ないと部長に向けて苦笑いを浮かべていた……






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