立海おとぎ話 第七節


「ZZZ…」
 一方…
 あの皇帝への年貢奉納の旅を終えてから、切原卿は特に領地内では何の問題も抱えることもなく、相変わらず平和な日々を満喫していました。
 元々、根っから勤勉という性格ではありませんでしたが、領主の自分が怠けたら領民達の生活が崩壊するという自覚はあり、また、それを良しと出来る程に悪人でもなかった彼だったので、最低限の領主としての執務は自主的に行っていたのです。
 しかし、権力に媚びへつらう様な小賢しさは欠片も持ち合わせてはいなかった為、足繁く城に通い、皇族にゴマをする様な面倒事は一度も行うことはなかったので、彼は今、城で起こっている異常事態については知りもしなかったのでした。
 専ら現在は、昨日の久し振りの狐狩りの疲れの余韻に浸りながら、ただひたすらに睡眠中…
 他の領主の中には、無駄な散財をしたり獣ではなく女の尻を追いかける者もたまにはいる中で、この男が訳の分からない出世欲や色欲などを持っていなかったのは領民にとってはやはり幸運だったと言えるでしょう。
 そんな、或る意味よく出来た領主である切原卿が、ベッドの中で何度目かの寝返りを打とうとした時でした。
 どかっ!!
「のわぁっ!!!!」
 突然、身を預けていたベッドが激しく揺れ、切原卿はそれに翻弄されるようにごろごろとベッド上を転がり…
 べちゃっ!
と、絨毯の上に仰向けに放り出されてしまいました。
「ってーっ!!」
 幾ら絨毯の上だったとは言え、相応の高さから真っ逆さまに落ちた時の衝撃はそれなりのもので、お蔭で彼は一気に目を覚ましました…が…
「……」
 彼はすぐにその場の異変に気付きました。
 誰かいる。
 眠るから人払いをしていた筈の自分の寝室に、何者かが立っていたのです。
 その人物は、自分が眠っていた時からそこにいたのでしょうか、床に仰向けに倒れてしまった自分を真下に見下ろす形で、ごく近距離にいたのでした。
 そしてその人物の顔を見て、己の記憶と符号させた瞬間、切原卿は既に痛みで覚めていた頭が更に冷えていくのを感じました。
「〜〜!! おっ…おはよう、ございます…」
 物凄く不自然且つ場違いな挨拶だったかもしれませんが、おそらく彼にそれに気付く心のゆとりなどなかったでしょう。
 脳内と同じく身体も硬直させてしまったその切原卿を見下ろしながら、侵入者は…『真田皇帝』は、不意にすぅと軽く息を吸い込みました。
 そして…

「たるんどるっ!!」

「ひいぃぃぃっ!! すんませんすんませんっ!! よく分からないけど取り敢えずすんませんっ!!」

 幾度となく聞かされてきた叱責の言葉は、既に切原卿の骨の髄まで恐怖を染み込ませてしまっているのか、理由を考えるより先に彼はひたすらに謝り倒しました。
 どうして城にいる筈の皇帝がこんな場所に立っているのか…何の用があって自分とこうして向き合っているのか…当然の疑問が彼の頭の中にようやく浮かんできた時には、既に二人が顔を合わせてから十秒以上の時間が流れていました。
「………あり?」
 その疑問に卿がきょとんとしたところで、相手の真田皇帝は彼を見下ろしたままびしりと指を指し、命じます。
「立て…時間がない」
「は?」
「戦だ」
「は!?」
 何の説明も脈絡もないまま、異常に物騒な単語を耳にした切原卿は思わず自分がまだ夢の中にあるのかと疑いましたが、それはすぐに否と知りました。
「うわわわっ!!」
 呆然としていた己の胸倉をがしりと掴まれ、ぐいいと足が宙に浮く形で吊り下げられては、夢だなどと寝惚けたコトを言える筈もなかったのです。
「敵が来るぞ。もうすぐ、もうすぐだ。貴様の領土を土足で荒らす輩が。夢と笑うか? 幻と疑うか? なれば吾は、貴様の名を我が城の高台に永久に刻んでやろう…敵と戦うどころか見合う事すら恐れた、惰弱で愚かな領主としてな!」
「っ!!」
 冷えた台詞は、その若き領主のプライドを煽るには十二分な力を備えていました。
「ちょっ…誰も戦わないなんて言ってないでしょ!? ちょっとびっくりしただけですって」
 掴まれていた胸元を自分で振り解き、床へと再び降り立った卿は、喉に手を当てながら改めて皇帝を見上げました。
「…で? 敵って誰なんスか? 隣の国の奴が百人隊長でも連れて攻めてきましたか?」
「いいや? 相手は…一人だ」
「一人ぃ!?」
 素っ頓狂な声を上げた相手に対し、その皇帝は酷く…酷く残酷な笑みを浮かべました。
 まるで、いつもの厳格ながらも優しさも備えていた彼に、悪魔がとり付いたかの如く。
「喜べ赤也。狐よりも余程楽しい相手だぞ。何しろ向かって来るのは、あの悪名高き魔女なのだからな…」
「魔女!?」
 詳しく説明を受けなくても、それだけでもう切原卿は全てを察しました。
 ただ一人の敵の為に、どうして『戦』などという物騒な言葉を用いなければならないのかを…
「マジで!? 本当にアイツが来るんスか!?」
「信じられないのなら己が目で確かめろ」
 真田皇帝はそれだけ言うと、その部屋から出て行くべく踵を返し、ドアを勢い良く開け放ちました。
「さぁ、戦装束に着替えろ。城の援軍は期待するな、どの道間に合わぬのだ。貴様の働きが国の命運を左右することになる」
「は、はい!!」
 次々と令を飛ばす相手に頷いて数歩を踏み出したところで、はた、と切原卿はその歩みを緩めました。
 あれ…?
 ちょっと待て…ちょっと待てよ…何か色々とおかしくないか?
 さっきも気付きかけてたけど、この人の勢いに乗せられて考えるゆとりなんかなかったけど…よく考えたらおかしなことだらけだ。
「もうすぐ貴様の領土に向かい、一台の荷馬車を駆る者達が来る。奴らが合図だ。その者達を見つけたらすぐに出撃し、彼らの辿った道を再び辿るように行け」
「…」
 相手の話は一応聞きながら、しかし一方で卿は一度自身の中で生まれた疑惑について考え続けていました。
 そもそも、どうしてこんな場所にこの人が…皇帝がいるのだろう。
 しかも、供の者を誰一人として連れている様子もなく。
 あの常に冷静で慎重な大臣や、自分の仕事に忠実な騎士団長が、こんな皇帝の行動を許すだろうか…一緒についてきているのならともかく。
 そもそもこんな情報なら伝令の一人に任せたらいい筈だ、別に今、ここや城が襲われている状態ではないのだから。
 何故、彼でなければならないのか…『皇帝』でなければならないのか…?
 いや、そもそも、この人物は本当に皇帝なのか?
「…?」
 見定めようと切原卿が改めて相手の外見をまじまじと見詰めましたが、自分がこれまで見てきた相手と、寸分違わぬ姿です。
 何処にも、彼が皇帝ではないという証拠は見当たりません。
(っかしーなー…声も声色とか使っている様には聞こえないし…って事はやっぱ本物?)
 それにしてもこのシチュエーション…あまりにもいびつと言うか不自然過ぎるのだが。
 もし切原卿が、数日前、城に魔女が来襲し、皇帝と皇子を動けぬ身にしてしまった事実を知っていたのなら、ここまで迷う必要も無く、即座に偽物であると断じたでしょう。
 しかしこの事件に際しては、柳大臣その人が、国の不要な混乱を極力避ける為に、まだ各地の領主達にも事実を伝えていなかった為、切原卿も真実を知りませんでした。
 そんな彼がまだ心の奥で、目の前の男に三割ほどの疑惑を持っていたところで、その場所に一人の衛兵が酷く慌てた様子で駆け込んできました。
 本来ならば卿が眠っているという事実は知っている筈、にも関わらずここに来たということは、余程の大事が起こったものと考えられます。
 何しろ切原卿の寝起きの悪さは部下の間でも有名でしたから、悪戯に起こそうという輩は一人もいないのです。
「き、切原卿! 先程、境界の監視人から至急の伝書鳩が……こ、皇帝陛下!?」
 寝ていると思っていた主人が既に起きているばかりか、隣に立つやんごとなき立場の者の姿に、衛兵は飛びずさらんばかりに驚き、思わずその場に両膝をつきました。
「しっ、失礼致しました!! 皇帝陛下がいらっしゃっているとは知らず…!!」
「構わぬ。申せ」
 腕を組み、威風堂々とした姿で答えた真田皇帝は、やはりどう見ても切原卿の記憶にある彼その人でした。
(…俺もそう毎日続けて会う人じゃないけど…けど何だろう、何かが引っ掛かる感じがするんだよなぁ、言葉じゃ言えないけど…)
 うーむと唸っている切原卿の前で、その衛兵は皇帝の許しを受け、膝をついたまま伝令すべき事実を伝えました。
「申し上げます! 境界線に迫る一台の荷馬車が確認されました!」
「…!」
 荷馬車…真田皇帝が先程言った言葉の通りだ…
 単に荷馬車が過ぎるだけで伝書鳩が飛ばされることなど有り得ない筈だとは、勿論卿も分かりきっています。
 きっと他にも伝えられるべきことがあるのだろうことも、この時点で推測出来ていましたが、それより何よりその情報を最初にもたらしたのが、翼を持つ鳩ではなく隣の皇帝その人だったという事実に、切原卿は改めて驚かされていました。
 この人は一体…何処からその情報を得ているというのか…城の優秀な僕か、それとも…
 悩む直属の主人に、衛兵は彼の脳内の整理を待つことなく畳み掛けるように言葉を繋ぎます。
「旅芸人などとは思えぬ物凄い速さで領土内に向かって来ております! そして…その彼方より急速に空に暗雲が…まるで天変地異を思わせるが如き異様な光景が!」
「!!」
 ぎょっとしている卿の背後で、佇んでいた皇帝が誰に知られることもなくひそりと呟きました。
『…意外と早かったか…』
「…え?」
 その声は真田皇帝のものではありませんでしたが、卿にはそれは聞こえず、改めて相手が命じた時には、声は皇帝のものに戻ってしまっていました。
「いよいよ時間がないぞ赤也。すぐに出撃し、魔女の侵攻を食い止めよ!」
「は、ぁ…」
 まだ疑問が全て解決した訳ではなく、今ひとつ気持ちが向かっていない様子の切原卿に対し、真田皇帝がついでの様に言葉を付け足しました。
「相応の働きが見られたら、貴様の我が城への参内の義務を解いてやる」
「いやもう大船に乗ったつもりでいて下さいって、ええそりゃもう!!」
 この瞬間、皇帝の台詞を聞いた時点で、切原卿の頭の中から全ての疑念は放逐されてしまいました。
「いやったー! これで参内する度に毎回怒鳴り声や拳骨に怯える生活から解放されるーっ!!」
「心の声がダダ漏れだぞ」
 嬉しさのあまりか内心で留めておくべき歓喜の叫びを大いに外に漏らしながら、卿は大急ぎで別室へと走っていきました。
 おそらくは戦装束に着替える為でしょう。
「きっ、切原卿っ!! 皇帝の面前で…!!」
 寧ろその場にいた衛兵が真っ青になり相手の非礼を嗜めようとしましたが、当事者の皇帝本人は至って無反応でした。
「よい、よい。あのまま行かせよ。望む働きをするのなら構わぬ…他の兵士や馬達の準備は?」
「い、今すぐに動けるように手配致します!」
「うむ」
 尊大に頷き、その衛兵が去ったところで…真田皇帝の唇がふと歪みました。
 明らかに彼本人の顔でありながら、『彼ではない誰か』の笑みを彷彿とさせ、その真田皇帝の姿をした誰かは、小さく小さく呟いたのです。
「噂以上に単純な奴じゃのう…まぁ助かる……しかし、馬車が見えても暫くは猶予はあるかと思ったが…あの娘、予想以上に手際がいい」
 そして、彼は…皇帝の姿を借りた魔導師仁王は、更に笑みを深めました。
「では、そろそろ俺も行くか」



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