切原卿の城での異変の少し前…
 あの哀れな娘は、全ての事象の鍵となる杖を必死に持ちながら、尚も走って魔女の城の外へと向かっていました。
 息は切れ、胸は苦しくなりましたが、ここで速さを落としてしまえば全てが終わりかと思うと、休む事は出来ません。
(魔女はもう私がいないコトには気付いてるよね…こっちも急いで城の外に出ないと…! 外にさえ出たら、何処かに身を隠せる場所はある筈だわ)
 そして彼女が全力疾走で走っていると、やがてその視線の先から嫌な匂いが漂ってきました。
 生臭い…獣の匂いです。
「あ…」
 忘れていた訳ではありませんが、やはり目の当たりにすると再び心に恐怖というものが生まれてきました。
 見えてきたのは異形の怪物。
 三頭の鎖に繋がれた番犬でした。
 大きな身体に大きな頭を三つも持ち、開くごとに雄叫びを上げているその真っ赤な口達は、桜乃の身体などボロ布の様にあっさりと千切って飲み込んでしまうに違いありません。
 そして獣達は桜乃の匂いを嗅ぎ付け、姿を認めた途端、そうしてやろうとばかりに彼女に目を剥き、勢い良く飛びかかろうとしました。
 幸い彼らの首につけられていた首輪がそれを阻み、がしゃん!とけたたましい音を立てるも、桜乃に牙を突き立てるには至りませんでした。
 それでも諦めることなく怪物は何度も何度も桜乃へと首を伸ばし、唸り声を上げ、首輪とそれを繋いでいた杭を大いに軋ませます。
 桜乃は彼らにある程度近づいたところで久し振りに足を止めました。
 それ以上前に進むと、鎖をつけたままでも相手の牙と爪の餌食になってしまいます。
 しかし城の外へと逃げ出すには、どうしても彼女はこの獣達の脅威を退けなければなりません。
『こっちへ来い、小娘!! 久し振りの俺達の食事だ、せめて痛くないように一気に食ってやる!!』
『いいや、食うのは俺だ!』
『いや、俺だ!!』
 三頭が互いに主張を始めたところで、桜乃はごそりとポケットを探りました。
 もう一つ、あの魔導師から受け取った切り札が残っていたのです。
 彼女がその切り札…卸したての生肉を取り出すと、その匂いに気付いた怪物達がぴたりと声を止め、耳障りな程に鼻を鳴らしました。
『おお! 何と美味そうな…!』
『人の肉より余程芳しい!!』
『小娘! 貴様そこに何を持っている!』
 桜乃本人よりその手にしている肉へと彼らの興味が移ったところで、桜乃はえいっと怪物たちに向かってその生肉を放りました。
 この程度の大きさの肉がどれだけの時間稼ぎになるか…と思っていた桜乃でしたが…
「あ…あらら?」
 彼女の目の前で、獣達へと放られたその肉が見る見る内に巨大化し、彼らの目の前に落ちた時には、その巨体と等しくなっていたのです。
 これもまた、予め仁王が仕掛けていたものだったのでしょうか?
 大きくなってもその瑞々しさと香りは損なわれることもなく、怪物たちを一瞬にして夢中にさせました。
『餌だ!!』
『こんなに大量の肉を喰えるのはどれだけ振りだ!?』
『ええい、娘に構っている暇はない!!』
 血に飢えた獣達はあっさりと番犬としての任を放棄し、本能のままに食欲を満たす行為へと没頭し始めました。
 がつがつがつと肉を喰らう音を恐々と聞きながら、桜乃がゆっくりゆっくりと彼らの食事の邪魔をしないように横を通り抜けましたが、彼らはもう彼女には一瞥もくれません。
『えい、食事の邪魔だ小娘! お前如き、とっとと何処へなと行ってしまえ』
 只一度だけ、一頭の怪物が横目で彼女を見ながら、ぞんざいに彼女を追い払いましたが、勿論桜乃にそれを拒否する意志はありません。
「は、はいっ!」
 彼らに『言われた』通り、少女は食事の邪魔をすることなく、小走りで番犬達の前を抜け、そして無事に先の道へと出たのでした。
 さぁ! 後はひたすらに先に進み、城の外へと出るだけ!
(急がなきゃ! 急がなきゃ!!)
 もうすぐで外に出る事が出来る!
 でも、外に出たらどうしよう、何処に逃げたらいいんだろう…?
 まだ己の身の安全は保証された訳ではありませんでしたが、今は絶望する時ではないと、その賢い娘は走り続けました。


 あの固く堅牢な門を抜けた魔女は、いよいよ桜乃の命運もこれまでだと信じ、怪物たちのいる道へと向かっていました。
 これまで彼女を見逃してきたのは、所謂、動くことなど出来ない施設の一部。
 しかし最後に待つのは、獲物に飢えた獣達なのです。
 どんなに舌で丸め込もうとしたところで、彼らの食欲が、目の前の獲物を見逃すはずがないと、そう思っていた魔女は、そこで杖も回収できるだろうと踏んでいました。
「はぁやれやれ…! これまでは運が良かっただろうけど、あの娘ももう終わりだね。今頃は骨も残らずに無駄な努力をしたことをあの世で後悔しているだろうよ。全く面倒くさい、あの杖さえ持ち逃げされてなけりゃあ、わざわざ出向くこともなかっただろうに」
 そして彼女があの怪物たちの繋がれた場所に来た時、魔女は我が目を疑いました。
 そこには確かに桜乃の姿はありませんでした。
 あったのは、数年ぶりか数百年振りかにようやく望むがままに食欲を満たした怪物が、心地良さそうに身体を伏せて眠りに入っている姿でした。
 腹が満たされると眠くなる、そんな当たり前の幸せを満喫していた彼らを前に、魔女は飛び上がらんばかりに驚きました。
 これまでは空腹の余りに眠る姿など見せてこなかった彼らが、ごうごうと寝息をたてて寝入っていたのですから。
 しかも、彼らの周辺には桜乃が手にしていた杖も見当たりません。
 城から逃げるには、確かにこの道を通らなければならない筈…ということは…
「この役立たずども!! この城から逃げ出そうとした小娘をまんまと取り逃がした上に居眠りとは、番犬が聞いて呆れるよっ!!」
 魔女が大いに叱責し、そのついでに彼らの右脚を思い切り蹴飛ばすと、ようやく右の頭の怪物が目をとろんと開いて、無駄な物を見るように相手を見下ろしました。
『そうは言うが、番犬も、恩義があるのなら主人に従うさ』
 そして左側の首も…
『けど、アンタは俺達を鎖に繋いだっきり、ただの一度も餌をくれたこともなかった。俺達は、番どころか俺達が行き抜く為に、ここを通り抜けようとした人間達で食い繋いでいたのさ』
 そして最後に中央の首が…
『あの小娘は、俺達が満足するに足る肉を与えて、空腹の地獄から救ってくれた。主人であるアンタが俺達には苦痛以外の何も与えなかったのに、泥棒である筈の彼女は俺達から何も奪わず苦しめず、逆に施しをくれたとは皮肉なもんだな』
 そして彼らは、それ以上は付き合っていられないとばかりに再び目を閉じ、頭を下げて、再び居眠りを始めてしまったのです。
「ええい、どいつも役立たずばかりだね、本当に!!」
 地団太を踏んだ魔女は、その番犬達を忌々しそうに睨みつけましたが、いつまでもそこで留まっている場合でもありませんでした。
 結局、三つの関門を抜け出してしまった小娘は、今もあの杖を持って逃走を続けているのです。
 勿論魔女は、そのままあっさりと杖を諦める訳にはいきません。
「おのれ、こうなったら直々にこの手で引き裂いてやる!! 逃げおおせると思ったら大違いだよ小娘! 魔法も何も使えないお前など、すぐに探し出して地獄に落としてやる!!」
 魔女の怒りは凄まじく、彼女のそれに誘われてきたかの様に頭上に暗雲が生じ、ぱりぱりと雷の鳴く音が聞こえてきます。
 そう、丁度あの日、皇子達を襲った時の様に…
 そして遂に本気になった魔女は、雷や雲を従えて、桜乃の追跡を始めたのです…





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