立海おとぎ話 第八節
「馬車…! 丸井さんとジャッカルさんは…!?」
やっとの思いで何とか城の敷地内から抜け出した桜乃は、或る程度離れた場所まで走り、そこでようやく少しの間だけ足を止め、周囲を見回しました。
城からは既に離れている筈の丸井とジャッカルを探す為ですが、流石にすぐに見つかるような場所にはいる筈もありません。
しかし、あの時…仁王から策を授けられた後に、何も考えずに魔女の許を訪れる程に三人は愚鈍ではありませんでした。
桜乃を城へと置いた後、予め、どの方角へ馬車を向かわせるかということぐらいは決めていたのです。
「……あ、轍の後」
しかも、賢い娘はすぐに彼らの名残を見つけ、そちらへと目を遣ります。
馬車が残した轍の後はくっきりと地面に刻まれ、間違いなく彼らの向かった先を指し示していました。
「まだ走らないといけないかな…でも、早くしないと…」
時間の感覚は恐怖と不安と疲労でとっくにおかしくなっています。
自分が城から逃げ出してどれだけの時間が経過したのか…魔女は何処まで迫っているのか…もしかしたらもうすぐそこまで…?
魔導師の助力も使い果たした今、もしこの場に彼女が現れたら、今度こそ自分は成す術もなく殺されてしまう…
ずう…ん…
「!?」
不意に聞こえてきた地鳴りの様な音に桜乃が振り返ります。
そこで彼女が見たものは…
「…ああ…」
闇が命を得て、獲物を求めるように…
城の上空から不吉な闇を孕んだ雲が物凄い勢いで湧き上がってきたのです。
それはまるで、巨大な地獄の釜の蓋が開き、悪鬼達が一斉に空へと解放された終末像にも似た光景でした。
そして同時に聞こえてきたのは地面の底からか、或いは空からか轟く不吉な唸り声の様な音。
実は、これからほんの少し後には、近くの領主である切原卿達がその異変を確認することになるのですが、何も知らない民が見たら神の怒りかと思うでしょう。
しかしこの場にいる少女は少なくともそれらがそんな有り難いものではなく、魔女の心が顕現したものと十分に分かっていました。
それを引き起こした原因が他ならぬ自身であることも。
(神様…!)
これから自分がしなければならないことは、この杖を抱えたまま、仲間である丸井達の許へと向かうこと。
彼らが立ち去った時の方向は覚えています。
来た時はあの魔導師の宅へと寄り道をしたが、ほぼ一本道…何処かの小さな領土を持つ領主様の土地を抜けて来たのです。
地面にもくっきりと轍の後が残っていました…自分が乗ってきたあの馬車の残した名残。
それを辿ればいつかは彼らに会える、きっと彼らも自分を待ってくれていると思っていても、桜乃はすぐには足を踏み出す事が出来ませんでした。
ほんの少しだけ足が竦んでしまっていたことも理由の一つでしたが、本当は、今更ながらに恐くなってしまったのです。
(どうしよう…本当に、本当に私が行ってもいいんだろうか…私と合流してしまったら、丸井さんとジャッカルさんまで危険に…)
分かっていた筈なのに、魔女の力の片鱗を見せ付けられてしまうと、人を巻き添えにしてしまうことが恐ろしくなってしまいます。
逃げる途中でも思っていましたが、馬車と合流出来ても、そこから何処に逃げたらいいのか…城へ向かう様にと仁王には言われていましたが、そうなるとこの天変地異をも思わせる程の実力を持つ魔女を、自分が悪戯に城へと招くことになるのです。
ここは、轍の後を追いかけるより別のやり方が…と、一種無謀とも言える考えが桜乃の脳裏を過ぎりましたが、そんな彼女を現実に引き戻す声が聞こえました。
「本当に優しい子なんじゃのー、幸村が惚れたのも道理じゃ」
「!?」
まるで心の中を見透かしているようなおどけた声。
もうここまで追っ手が!?
思わず焦り、そちらへと振り向いた桜乃の瞳に先ず飛び込んできたのは、輝く銀の彩でした。
仁王です。
そこにほんの一秒前にはいなかった筈の若者が、まるで何時間も彼女を待っていたかの様に佇んでいたのでした。
「に、におう…様?」
「向こうの仕込みが終わってから少しは時間があると思うちょったが…なかなかの素早さじゃの、お前さん。まぁ間に合った様じゃし…成果も上々ってところか」
そんな彼が見つめる先は、桜乃の手にしていた例の杖です。
蛇蝎の如き輝きを秘めた瞳でそれを確認した若者は、ゆらりと身体をゆらめかせながら桜乃へと近づき…ふと空を見上げました。
「ようやったのう」
「え?」
「あれだけ怒らせたら十分よ。慎重な魔女も今は怒りで我を忘れちょるけ、あっさり外に出てくれるじゃろ。ネズミ捕りの仕掛けも何とか間に合った、後は…」
言いながら、仁王は桜乃へと近づき、先ずは…
「!?」
桜乃が手にしていた杖に触れると、それを跡形もなく消してしまいました。
驚いた桜乃に何かを説明することもなく、彼の白い手が今度は彼女の肩へと触れます。
「お前さんもついでに送ってやるぜよ。あっちも随分待ちくたびれとるようじゃ、早く城に戻りんしゃい…ここは今からちょーっと煩くなるようじゃけぇの」
「え…」
不思議そうに振り返った桜乃は…仁王に触れられたその次の瞬間には、その場から消えてしまっていました。
ほんの少し前の杖と同様に…
「さて…?」
そして、仁王は笑ったまま軽く後ろを振り向き、ほぼ同時に恐ろしい程に怒りに震えたしわがれた声を聞きました。
「ふざけた事をしてくれたね、この小僧が!!」
瞬間
ばすっと鈍い音が響き、仁王の腹部から真っ赤な鮮血が飛び散りました。
まるで赤い大輪の花が咲いた様に…
「…―――――」
ゆっくりと、糸が切れた操り人形がそうであるように…
声もなく、銀の髪の魔導師はその顔に笑みを浮かべたまま、己の血で彩られた身体をゆっくりとゆらめかせながら地面へと倒れました。
人の命の、これもあっけない幕切れの一つの形なのでしょうか。
倒れた身体は微動だにせず、そのまま惜しげもなく血を流し続け、地面を潤していきます。
先程まで輝いていた彼の瞳も、今はただ、虚ろに空を映すだけでした。
「ふん、大した実力もないのに出しゃばるからだよ。銀髪だからてっきりこの国で噂されている魔導師かと思ったが、見込み違いだったようだね。どの道まともに一撃を受ける程度のノロマじゃあ、自分が死んだ事にも気付かなかったろうさ」
自分の掌から出した衝撃で、問答無用で仁王の腹部を吹き飛ばした魔女は、地面に倒れて動かなくなった若者の遺骸を見下ろしながらせせら笑うと、ぐるりと周囲を見渡して小さく鼻を鳴らします。
「必ず見つけ出すからね小娘…お前の匂いがまだ近くにあることは分かってるんだ!」
目の前の血塗れの骸には最早興味もなく、魔女はその場にそれを放置したまま空を飛び、桜乃の匂いのする方へと向かっていきました。
「落ち着けよ、丸井」
「落ち着けっていう方が無理じゃん! ああもう、大丈夫かなおさげちゃん…なぁ、やっぱ魔女の城に戻ってみねぇ?」
一方、城から離れた場所まで一時引き上げ、ひたすらに桜乃の帰還を待ち望んでいた若者達二人もまた、形は違えども『戦い』の中にいました。
元から好戦的な一面も持ち合わせ、いざという時には多少の腕の心得もあった彼らにとっては、暴れることもなくひたすら『待つ』という行為の方が余程辛い戦いだったのかもしれません。
特に内一人、赤い髪の若者は、道の脇の茂みの中に馬車を隠してからも、何度も様子を覗きに行っては戻って来るという行為を繰り返していました。
しかし、何度見に行っても、あの少女と思しき人物は陰も形も見当たりません。
何度も何度も飽きる事を知らない様に繰り返していたのですが、遂にそんな彼にも限界が訪れたらしく、嗜めた相棒に逆に強く敵地へ戻る事を持ちかけたのです。
対して馬の疲労や空腹の具合を確認するなどしていたジャッカルは、そんな相手の提案を首を横に振って却下しました。
「そんな事して万一こっちの作戦がバレたらそれこそ桜乃がヤバいだろうが。大丈夫、俺達の戻る道は予めあいつとも話していたし、幸い地面に轍の後も残っててあいつを導いてくれる。今の俺達は待つしかねぇんだよ」
「…」
自分を諌めてくるジャッカルの腕が、彼の言葉に反して小刻みに震えている様を見て、丸井も一旦その口を閉ざすと、相手の隣にどかりと座り込みました。
不安を感じているのは同じ…あの娘を何より心配しているのも同じ…彼も自分と同じ『前線』で戦っているのです。
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