八人の小人・2
翌日
いつもの時間に桜乃が起きだした時、ちょっとした騒ぎがキッチンに起きていました。
『まぁ、なんてことかしら!』
少し興奮気味の母親の声が階下から聞こえてきます。
「?」
何事かと思いながら桜乃はパジャマ姿のままで下へと降り、キッチンへと入っていきました。
今日までは、まだ近くの学校に通うこともなく、桜乃も暇を持て余した状態なのです。
しかし明日からは、早速両親も仕事を再開し、桜乃本人も新しい学校へと通う事になっていました。
「どうしたの?」
「見て頂戴、キッチンがこんなに荒らされてしまってるのよ! 塩や胡椒も床の上にこんなに!」
「ええっ? もしかして泥棒が!?」
驚いた桜乃の言葉に、母親はため息をつきながら首を横に振りました。
「それはないみたい。お財布も無事だし、そもそも家のドアも窓も開けられた跡はないし…きっと家の何処かにネズミでもいるんだわ。もしかしたら、その所為でここの値段も安かったのかもしれない…ああもう、綺麗で住み心地のいい所だと思っていたのに、こんな落とし穴があるなんて! 早速仕掛けを買ってこないと」
ハッスルしている母親が、その計画を夫へと相談する為かいそいそとキッチンから出て行った後で、桜乃は改めてぐるりと首を巡らせて中の様子を眺めました。
酷い…と言う程ではありませんが、およそ整頓された場所とは呼びがたい光景。
キッチンテーブルに置かれていたのであろう小麦粉の袋は引き倒され、中から白い小麦粉がテーブルや床の上にまで散乱しています。
同じく塩や胡椒も思い切りよく周囲にぶちまけられた状態で、しかもサラダスプーンやフォークなど、食器の幾つかもあちらこちらへと放置されていました。
夜の闇の中、悪戯なネズミが新たな入居者に対してささやかな歓迎を行ったかの様な光景に、少女もはぁ〜と驚きに息を吐きだしました…が、その息が不意に止まります。
(…ん?)
ふと、彼女はテーブルの上に横倒しになっていた塩や胡椒を入れていた小瓶へと手を伸ばし、それを取り上げると、しげしげと眺めました。
上の蓋は完全に開けられており、今はガラスの口がぱっかりと見えています。
蓋は気密性を保つために、ネジ式になっていました。
(…あれ?)
これは、力を入れて捻らないと開かない作りになっている筈…
ネズミが夜中に騒いで走り回ったぐらいで、こんなに簡単に開く筈がない、せいぜい『瓶そのもの』が転がっている程度で済む筈なのに…?
思わず少女の脳裏に、両前脚で器用に瓶の蓋を抱えて捻っているネズミの姿が浮かびましたが、あり得ない事と分かっていたので、すぐにそのイメージは振り払われました。
「…引っ越してる間に緩んでいたのかな…」
それもちょっと無理がある予想でしたが、それ以外にはどうしても説明がつきません。
(ゆ、幽霊ってことはないよね…いきなり引っ越して早々、こんなに自己主張が強い幽霊の話なんて聞いたことはないし…)
それが一番怖い…と思っていると、遠くから母親の声が聞こえてきました。
『桜乃、ちょっとお母さん達買い物に出てくるからお留守番お願いね!』
「! はぁい」
どうやら、母親はハッスルしたままその勢いでネズミの駆逐グッズを購入しに出かける様です。
別に予定もなかった少女は断ることもなく返事を返し、そのまま両親を送りだしたのでした。
「…」
一人になると、広い家の中はしんと静まり返り、物音ひとつありません。
ここにネズミがいるだなんて、嘘の様…実際にまだ見た訳ではないけれど。
(ネズミも迷惑な話よね。いきなり人間がここに住み始めちゃったんだから)
何となくネズミ達の方へと感情移入してしまった桜乃でしたが、いつまでもそんな事を思案している訳にもいきません。
彼女は一人でやや遅めの朝食を取り、そして部屋で着替えを済ませると、そのままそこに留まって整理を始めました。
あらかたの物はもう新しい場所へと移してしまっていましたが、まだ幾つか残されていたダンボール箱の中身を片づけようとしたのです。
内の一つの蓋を開くと、目に鮮やかな赤い表紙の、実に豪華な装丁の書籍が姿を現しました。
どうやら百科事典の様です。
(…こないだお祖母ちゃんが入学祝いに買ってくれたものなんだよね…元気にしてるかな、お祖母ちゃん)
少し離れた場所に住んでいる祖母を思い出しながら、桜乃はやや重いそれらの本を一冊ずつ取り出しては、本棚の中へと収めていきます。
時にはそれらを開いて中身を読み耽り、また作業を再開する…そんな事を繰り返し繰り返し行い、ようやく全ての書籍を本棚へと収納出来た時には、もうかなりの時間が過ぎていました。
「…あ、いけない、もうこんな時間」
ほぼ全ての作業を終えた後、桜乃は壁掛け時計を振り仰いで時間を確認すると、立ちあがって部屋を出て行きました。
(ちょっと近くを散歩してみようかな…学校までの道程も確認しておかなきゃいけないし)
あまり家から離れないなら、外に出てもいいよね?
そんな事を考えながら桜乃が部屋を出て、そしてしっかりと鍵を閉めて外出した後…
『行ったか?』
『行ったな』
小さな囁き…ベッドの下から。
昨夜の様に闇の中ではなく、今度は白昼堂々とその声が聞こえ、そしてまたベッドの下からわらわらとあの小人達が飛び出して来たのです。
『…おお』
今度は、一番最初に声を上げたのは、あの細目の小人でした。
彼は、桜乃の手によって綺麗に整頓され、中を書籍で満たされた本棚を見上げると、感嘆の声を漏らし、そこから動けなくなってしまいました。
『これは素晴らしい。新しい知識の源だ、人の情報を得るのにも欠かせない…これだけあれば、どんなに有意義な時間を過ごせるか』
『…また参謀のビョーキが始まったッスね』
『貴方の怠け癖よりはましでしょう、切原君』
赤也という名の小人にそう返してから、柳生もまた細目の男に並んで本棚の前へと立ちました。
『結構な整頓具合です。綺麗好きな人間は嫌いではありませんね、私は』
『柳はそれでもいいかもしれないけどさぁ、俺はマンガっていう奴の方が好きだなー』
『ああ、あの絵が沢山並んでいる本の事だろう? 実を言うと俺もそうだなー』
ジャッカルがブン太に同感だと頷いている間に、柳は早々に本棚の方へと更に近づき、それを眺めていた銀髪の若者も苦笑しながら追いつつジャッカル達に声を掛けました。
「ジャッカル、丸井、手を貸さんか。参謀は新しい知識をご所望のようじゃぞ」
そして、柳は彼らの力を借りて、辞典の一冊を棚から引き出しました。
そして、本に被せられていた頑丈なケースから目的のものを引きずり出すと、早速一ページ目から捲り出し、読み始めました。
彼の読むスピードはかなりの速さでしたが、何しろ彼らの体と本の大きさがアンバランス過ぎます。
読み終わってからページを捲るのも人が指先でやるように簡単にはいきません。
ページの上と下をそれぞれ小人が支え、タイミングを合わせて捲ってゆくのです。
仲間達が捲った傍から、柳は開かれた本の上を駆け回り、足元に綴られた文字達を愛おしそうに眺め、それらが示す様々な知識を吸い込んでいきました。
一字、一句も逃さない様に、瞳に、脳に、刻み込んで。
彼ほどの能力には至りませんでしたが、他の仲間たちもそれぞれのペースで本を読んでいきます。
『これは初めて見る知識だね、俺達が最後にこういう本を読んだのはいつだったろう? 人は本当に忙しない生き物だね』
『そうだな…昔は俺達と共に生きていたのに、あいつらだけが急ぎ足で歴史を刻んでいった。もう俺達の事を覚えている、信じている奴等もいないだろう』
『彼らの忙しなさに、身を隠した私達ですからね…昔はそれでも上手くいっていた』
彼らは彼らの世界で
我等は我等の世界で
仲が良いとは言えなかったが、余計な干渉をせず、生きてきた。
その均衡も、ここに来て崩れつつある。
『でも、ここは俺達の暮らしている場所ッスからね。向こうにどいてもらわないと…ねぇ柳参謀』
『………』
『…ダメだね、蓮二はもう完全に本の虫状態だよ』
よく見ると、柳は手にしたペンで絨毯の様にだだっ広いページの隅に何やら難しい数式を書き記し、思案に耽っています。
切原の呼びかけさえも聞こえていない様子の仲間に、幸村がくすくすと笑みを零したところで、また別の音が部屋に届いてきました。
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