『ただいまぁ』

『!!』

 しまった!!
 小人達は一気に慌て出し、その周囲をちょこまかと駆け回りました。
 しまった、しまった!
 つい久し振りに人の本に触れ、時間を忘れて読んでしまった。
 あの声は、あの子のだ。
 この部屋はあの子のだ。
 上がってくる。
 近づいてくる。
 隠れなきゃ。
 戻らなきゃ。
 彼らは急いでベッドの下へと走り出しましたが、そこで柳が珍しく狼狽した様子で振り返りました。
『しまった、俺の記したものがまだ…!』
『でももう時間ないッスから! ほら、あの子もう階段昇って来てるッスよ!!』
『む…仕方ない』
 切原に促されながら柳が已む無く例の穴の奥へと戻って行ってから、それ程間を置かずに部屋のドアが開き、桜乃が帰って来ました。
「…? あれ?」
 足を踏み入れてすぐに、桜乃は部屋の違和感に気付きました。
 そこにある筈のない物が、堂々と鎮座ましましていたのです。
「…これ…」
 本棚に近づき、その傍にあった、広げられたままの百科事典の内の一冊…
 御丁寧にケースから取り出されていたそれは、ほんの少し前まで誰かがそこに寝そべって読んでいたかの様に放置されたままだったのです。
(どういうこと…?)
 おかしいことが多すぎる…この家。
 桜乃は、引っ越して早々に、家の中に潜む何かの秘密の匂いを嗅ぎ取りました。
 おかしいわ、絶対に。
 だって…私覚えているもの。
 このケースに入れたまま、辞典を本棚にしまったのはほんの一時間ぐらい前の話よ?
 それから外に出て散歩して帰って来て…お父さんもお母さんもまだ帰って来ていないのに。
 ううん、二人が帰って来ていたとしても、こんな状態のままにしておく筈がないもの…普段から整理整頓には厳しいんだから。
 じゃあ…じゃあ…この部屋に入って、この本を引き出して、そして、消えてしまったのは一体、誰…?
「…っ」
 得体のしれない何かが家の中にいるかもしれない。
 そんな可能性を感じた桜乃がぶるっと身体を震わせ、気を紛らわすように広げられていた辞典を両手で抱えあげました。
 そのまま閉じて、ケースにしまおうとしたところで、桜乃はその開かれたページのある一か所に目を留めました。
「ん?」
 何かしら、これ…
 見つけたのは、ページの片隅に見えた汚れでした。
 もやもやとした埃の様な黒いものが、明らかに印刷したものとは異なるため、違和感が目を引き留めたのです。
「んん…?」
 顔を近づけてその詳細を見た桜乃は、そのまま辞典を開いたままに机へと移動し、本を置くと、今度は引き出しの中に入れていた虫めがねを取り出しました。
 そしてじーっとその埃の部分を見ていた桜乃が、何かとんでもない物を見つけてしまった様な表情で虫めがねから顔を離すと…

 RRRRR…RRRRR…

「ひゃんっ!!」
 ただの電話のコール音だったのですが、場合が場合だけに桜乃は声を上げて驚きました。
「あ、びっくりしたぁ…誰からだろ」
 今、知ったばかりのある事実に興奮冷めやらぬ状態の桜乃でしたが、鳴っている電話を放置する訳にもいかず、彼女は取り敢えず、電話が置いてあるリビングへと急ぎ、受話器を取り上げました。
 映画だったら、こういう時、電話口の向こうから更にストーリーを進める切っ掛けがもたらされるものですが…
『もしもし?』
「っ! もしかして、お祖母ちゃん?」
『おや、その声は桜乃だね? 久しぶりだね、元気かい?』
「お祖母ちゃん…っ」
 耳に届いてきたのは、懐かしく、優しい祖母の声。
 それまで、知らず張りつめさせていた緊張の糸がぷっつりと切れた様に、桜乃は思わずぽろりと涙を流してしまいました。
 友人たちから離れた寂しさも、あったのかもしれません。
『どうしたんだい? 泣いてるのかい? 桜乃』
「お祖母ちゃん…わからない、わからないの…この家…何か、変なの…」
『ええ?』
「家の中が荒らされてたり…本には変な悪戯書きがあるし…その落書き、凄く小さな字で、虫めがねで見ないと分からないぐらい小さくて、知らない文字で……一体誰がこんな事…」
 自分が突拍子もないことを言っているのは桜乃も理解していましたが、それでもこういう説明をするしかありませんでした。
 どうしよう、こんな変な事言ったら、お祖母ちゃん、私のこと、おかしくなったって思うかな…でも、でも…
 ぐすぐすと鼻を鳴らして受話器を耳に押し当てていた桜乃に、暫く黙って聞いていた向こうの祖母は、やがて意外な言葉を投げかけてきました。
『そりゃあ、小人達の仕業だねぇ桜乃』
「!?…小人?」
『そうだよ、よくおとぎ話であるだろう。あたし達より小さな、不思議な人間達のことさ…きっとそいつらが、お前の家で悪戯を働いているんだね、あいつらは縄張りに入ってくる人間を嫌うからねぇ…』
「ち、ちょっとお祖母ちゃん、私は真面目に…」
『おや、あたしは大真面目だよ。今でこそ見かけなくなっちまったけど、小人ってのは空想の生き物じゃない、実在しているのさ。あたしも小さい頃にちらりと見たことがあるけど、それっきりだったよ』
「そんな…」
 幾ら自分を慰めようとしてくれてるとは言え、もう中学生にもなるのに、そんな夢物語を信じろというのだろうか…とまだ桜乃が疑っている間に、向こうはそうだ、と何かを思い出した様子で彼女に呼びかけました。
『とにかく、悪戯を止めさせないことにはしょうがないねぇ。このままだとこれからも小人達は色々と仕掛けてくるよ』
「お母さん達がネズミ捕りを買いに行ったわ」
『そんなんで効くもんかね、態よく中の食べ物だけ奪われるだけだよ。それにそんな物を置いたら、向こうだって良い気持ちはしないだろう? 自分達の住処に無断で居座られるだけじゃなく、罠まで仕掛けられるなんて』
「……どうするの?」
 まだ小人の存在については半信半疑の桜乃でしたが、祖母の、小人がいるという事実を前提とした様な口調につられ、打開策を尋ねました。
 確かに。
 周囲の家の人達には挨拶は済ませたけれど、もしこの家の中に先に同居人がいるのだとしたら、礼儀は尽くすべきでしょう。
 それが人間であっても、小人であっても。
 もしこちらの非礼で向こうが怒っているのならば、そこは謝っておかなければいけません。
 それに、もし本当にこの世に小人というものが存在するのなら、桜乃は彼らに会ってみたいとも思っていました。
『あたしのお祖母ちゃんのお祖母ちゃんが言っていたというおまじないを教えてあげよう。根気よくやれば、もしかしたら小人達に会えるだろうよ』
 そして桜乃は、電話越しに祖母から小人達に会う為の方法を教えてもらったのです…まるで映画の急展開の様に。





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