立海一家の愉快な生活・午前編
とある土地に、立海という姓を持つ一家がいた。
元々その地域の大地主であり広大な土地を持っていた一族だったが、現家長が異国で油田を掘り当てて一気に資産が膨れ上がり、紛うことなき資産家となってからは、彼は妻と共に様々な場所を旅している。
この夫婦には九人の子供がいたが、彼らは親達とは活動を共にせず日本で慎ましく暮らしていた。
親と仲が悪い訳ではなく、彼らがまだ学生であり、気軽に動ける立場ではなかったという理由が主たるところだった。
その子供達の殆どは、先祖が開校した、姓と同じ名の立海大附属中学に通っており、そして本日、一番下の子供も無事に同校に入学する栄えある日を迎えていた…
「お早う」
「おはよー、弦一郎お兄ちゃん! いつも早いね」
「朝の鍛錬を怠ると、調子が狂うのでな」
その日も、一番乗りで居間に来たのは次男である弦一郎だった。
家宅に併設されている道場で朝の四時から習慣となっている鍛錬を済ませ、水風呂を浴び、さっぱりとした制服姿で現れたその若者は、兄妹一の厳格な容貌と長身が相まって父親に見られることもしばしばだ。
実際はまだ中学三年生なのだが、下手な年上の人間より余程達観した人生観を持っているが故にすぐに信じてはもらえないコトも多い、少々気の毒な男である。
「今日のお味噌汁は、お兄ちゃんが大好きななめこ入りです!」
「それは楽しみだ」
そんな厳格な男に全く恐れる様子もなく、お盆を片手に無邪気に話す少女は、九人兄妹の中で唯一の女性であり末っ子の桜乃である。
弦一郎とは二歳違いの中学一年生…因みに、一年生になるのは始業式である今日からだ。
長いおさげをゆらゆらと揺らしつつてきぱきと、家事をこなす姿は、既に年季の入った主婦のそれを思わせるが、それは長年、家を留守にしている母親代わりに、兄達の面倒を見てきたキャリアが培ったものだろう。
今も、台所から居間に食事を運んでいたらしいが、ほぼすべてのおかずはもう卓上のそれぞれの席前に綺麗に並べられていた。
「もうご飯も炊けてるし、すぐに準備するね」
そんな事を話していると、少し離れた仏間から『ちーん』と鈴(りん)の音が聞こえてきて、それから少しして居間に新たに家族が集合する。
「お早う、二人とも」
「おう、相変わらず早いなー」
そこに来たのは色白の華奢な若者と、色黒の肌で、頭部を綺麗に剃りこんだ同年代の男。
「お早う、精市お兄ちゃん、ジャッカルお兄ちゃん」
「む、お早う」
精市は、見た目からは信じられないかもしれないが立海家の長男である。
柔らかなウェーブの髪と色白の肌、見栄えの良い顔立ちと優しい性格は校内でも特に女子に人気らしいが、本人は全く気にしている様子もない。
そこがまた硬派な性格を浮き立たせ、好感度を高めているという。
現実には、立海の中学校の生徒会長を務め、且つテニス部の部長も兼任しているという超やり手であるその若者は、家にいない両親に代わり家長代理としてもしっかり弟達と妹の面倒まで見ているので、それどころではないのかもしれないが。
尤も、嫌々やっている訳でもなく、特に桜乃の世話については率先して、喜んでやっているところがあるので、本人自身は幸せなのだろう。
ジャッカルはその名が示す通り、半分は異国人の血を引いているがもう半分は他の兄妹と同じ血を引いている立海家の六男。
兄妹間では下の方だが、精神年齢的には結構上である。
それはおそらく、何かとトラブルを起こしがちな弟達が下に二人控えており、幼少時よりその世話に追われまくって人生の何たるかを早くも悟ってしまったという不幸があったからだろう。
それでも普段はそんな弟達を含め、全員と極めて友好な兄妹関係を築けている。
たまに人生に疲れた時には妹の桜乃に愚痴を聞いてもらったりと、彼もまた彼女に精神的に助けてもらっている処は多く、それだけ桜乃の事は大事にしていた。
桜乃達二人が挨拶すると、向こうもうんと頷き、ちらっと自分達が歩いてきた廊下の向こうを眺めた。
「雅治達も洗面所で準備しているからもうすぐ来るよ…赤也の姿は無かったけどね」
精市と呼ばれた若者が苦笑しながらの言葉に、桜乃はやっぱりと言いつつ渋い顔。
「んもー、また昨日遅くまでゲームやってたのかなー」
「だろうな、きっと」
ジャッカルが妹の予想に同意を示し、彼女はやれやれーと台所に戻るべく踵を返す。
「しょうがないなぁ…じゃあここは一つ、王道のフライパンとお玉の共同目覚まし作戦で…」
「いや」
桜乃の意見に、異を唱えたのは弦一郎だった。
先程までなかった青筋が、今はこめかみに二本ばかり浮かんでいる。
「奴のことなら俺に任せておけ。桜乃は朝餉の準備で忙しいのだからな、起こすぐらいなら俺一人で十分だ」
「でも…」
「ここは弦一郎に任せなよ桜乃。あの子の世話は弦一郎が一番手馴れてるんだから」
渋る妹に優しく精市が言っていると、また仏間から鈴の音が聞こえ、細目の若者がこちらに加わってきた。
「精市の言う通りだ、桜乃。今日はお前にとって大切な記念日だ、下らない事で登校前の時間を無駄に費やす事はない。それにフライパンなどを使っても、奴が起きるのには数分を要する」
「蓮二お兄ちゃん」
桜乃が新たに現れた家族を呼ぶ傍ら、精市が微笑みながら相手に尋ねた。
「君がこの時間なんて珍しいね、蓮二」
「うむ、今日の予定を確認していたからな。しかし、まだ時間的にはかなりゆとりがあるから問題はない」
「そうだね、役員の俺達が遅刻だなんて洒落にならないし」
精市と同じく、生徒会の副会長を務めているのは、三男である蓮二。
この九人兄妹の中で最も多くの知識と知恵を誇り、常日頃からそれを自分と兄妹達の為に役立てている。
テニス部内でも『参謀』と呼ばれる程に知略、謀略に富み、過去のデータに裏打ちされた緻密な作戦で挙げた勝利は数知れず。
その徹底したスタイルは周囲から畏怖される時もあるのだが、そんな彼も妹の桜乃の前では優しいお兄ちゃんだった。
「役員であろうとなかろうと、遅刻すること自体がたるんどる証拠だ! 何度言っても進歩のない…全く」
厳しい口調でそんな事を言いながら、弦一郎はのしのしと肩をいからせながら廊下の向こう…各人の個室が並んでいる方へと向かっていった。
勿論、用事があるのは今頃惰眠を貪っているだろう、赤也と呼ばれた弟の部屋だけだ。
「…ま、赤也も流石に弦一郎相手ならすぐに起きるだろうさ…お前が行ったら怪我するかもしれないからなぁ、やめとけ」
「うう、分かりましたぁ…」
じゃあ、朝ご飯の準備を…と桜乃が全員分のご飯をよそおい、卓に並べたところで、弦一郎達二人を除いた兄妹が揃った。
「おう、今日も美味そうじゃのう」
「雅治兄さん、襟元を直して下さい…相変わらず無頓着なんですから」
「ワザと崩しとるんよ、相変わらず比呂士はカタイのう」
「わーい! 朝メシー!!」
新たに現れた三人も、何やかやと言いながらそれぞれの席に着いて目の前の食事に注目していた。
雅治と呼ばれたのは立海家の四男で、頭髪は銀の彩に染められている。
一家の中では最も曲者と看做されており、人を欺き騙すことが得意という危険人物だ。
学校内でも対等に彼の相手が出来る教師は一人としておらず、上手く彼を御することが出来るのは、長男である精市と、双子の片割れである比呂士、そして偏食家である若者に美味しい食事を提供してくれて、詐欺師と呼ばれている彼でも心から信じてくれる妹の桜乃ぐらいだった。
対して、雅治と一卵性双生児であるという五男の比呂士は、兄とは全く正反対の性格で非常に勤勉実直、生徒会では書記の役に就いている。
偏光眼鏡の所為でその容貌が明かされた試しは殆どないのだが、雅治と一卵性であるということから、彼と同じくかなりのイケメンである事は想像に難くないだろう。
兄の『詐欺師』に対して弟は『紳士』と呼ばれているが、彼らがたまにこっそりと入れ替わったりしている事を、周囲の生徒も教師も誰も知らない。
『何故そんな真似を』という質問に対しては、必要に応じて、と二人は語ってはいるものの、その目的は全く不明であり、彼らの変装を見破れる稀有な存在である桜乃もそこまでは分からないのだった。
そして彼らの傍で、食事を待ちきれないと箸で食器をちゃかちゃかと叩いている赤毛の髪の若者は、七男のブン太。
精市達と同じ年齢なのだが、その性格は彼らよりは無邪気で子供っぽく、明るいムードメーカーだ。
いつも元気一杯でお菓子や食べる事が大好き、彼の好物のグリーンアップルガムはポケットの中の最重要アイテムであり、これまで切れた試しがないという。
お菓子を食べるだけではなく作る事も大好きで、そういう面では妹と趣味が合っている。
しかし、普段は桜乃が頼めば何でも作ってくれるので、彼はその分お菓子と同じ様に好きなテニスに集中し、専ら食べる専門なのだった。
「ほらブン太、箸でお茶碗叩かない、行儀悪いよ…ええと、後はあの二人…」
『とっとと起きんか赤也―――――――――――っ!!』
『ひ―――――っ!! 弦兄ぃカンベンッ!』
ブン太を嗜めていた精市の言葉が終わらない内に、ば――――んっ!!という何かが弾けるような音と共に、遠くから物凄い怒声と怯える悲鳴が聞こえてきたが、他の男達は聊かもたじろがなかった。
只、桜乃一人だけが、おろおろと廊下の方へと心配そうに視線を何度も向けている。
弦一郎の赤也に対する仕置きは幼少時からのものであり、立海家にとっても近隣の民家にとっても日々の恒例行事なのだ。
資産家になったお陰で立海家の家屋は非常に大きく、敷地も広くなったのだが、それでも弦一郎の怒声は遠くの家にまで聞こえる程だった。
体罰も少なからずあるのだが、毎回聞こえる兄の説教が反論出来ない程に理に適っており、体罰そのものもねちねちと長引くものではなく、びしっ!と一発で済まされる事が殆どだったので、これまで警察や児童相談所に通告された事はない。
それどころか近隣の人々は、子供を叱る時に『あんまり言うコト聞かないと、立海のお兄ちゃんの処で叱ってもらうよ!!』とまで言っているのだった。
確かに子供側にとってみれば、恐ろしい罰である。
「ああああ…赤也お兄ちゃん…」
「自業自得じゃ、ほっときんしゃい桜乃」
「赤也も懲りませんね…しかし、先程の音は何でしょうか」
「ふむ…おそらく畳返しの音だな…弦一郎が最近覚えてきて、一度試してみたいと言っていた」
うろたえる妹にあっさりと雅治が忠告している隣では、比呂士の言葉に蓮二が淡々と答えていた。
「何処で覚えてくんだよい、そんな技…」
おっかね〜、とブン太が眉を顰めながら言っていると、ようやく居間に弦一郎に首根っこを掴まれた状態で一人の若者が姿を現した。
くせっ毛で目がきょろりと大きなその若者は、他の男達と比べたら明らかに幼い顔立ちである。
かろうじて制服に着替えてはいたが、弦一郎の強襲を受けたばかりの彼は明らかに朝から既に疲弊している状態だった。
「だ、大丈夫? 赤也お兄ちゃん…」
「これが大丈夫に見えたら大したもんだよ…」
「自分の所為だろうが!!」
怒鳴ってから、赤也の席に彼を有無を言わさず座らせると、弦一郎も悠々と自分の席へと戻った。
「ふふ…赤也も今日から二年生になるんだから、ちゃんとしないとダメだよ。桜乃の先輩でお兄ちゃんなんだから」
「すんませーん…」
しょげている様に見えるが、立ち直りが異常に早いのもこの若者の性格である。
どれだけ応えているか…あまり期待は出来ないが、取り敢えず精市は朝食へと意識を戻した。
「じゃ、全員揃ったから有難く食事を頂こうか…頂きます」
『いただきまーす!!』
長男の言葉に倣い、全員も挨拶を済ませて朝食に取り掛かった。
食べ盛りの年頃の若者八人が揃えば、それだけで朝から食卓は大騒ぎである。
「だーっ! 俺の分のおかずを取るなブン太―っ!!」
「ジャッカルが残すのが悪い!!」
「食事開始一分足らずだぞ! まだ!!」
「ジャッカルお兄ちゃん、おかわりあるから大丈夫だよ」
「すまない、桜乃、ご飯を…」
「はいはい」
賑やかな弟達の様子を見て、今日も変わりなしと判断した精市は、安心したように微笑んで言った。
「みんなが元気なのはいい事だね。桜乃も無事に今日から立海の生徒だし、色々と楽しみだ」
「そうだな…まぁ桜乃は勉学を怠ることもしないし、能力の面では安心していた。小さい頃はとても虚弱だったが、幸い今は普通の生活を送れる様にもなっているしな」
続いての蓮二の言葉に、桜乃は彼におかわりのご飯を手渡しながら苦笑する。
「あー…だって…毎日毎日、業務用のお釜と鍋を洗って片付けてたら、体力もつくもん。ウチも大所帯だからやたら広いし、掃除するのもいい運動だよー」
『ほんっとうに感謝してます』
この家の影の実力者に、男達は深々と頭を下げて感謝する。
桜乃がいなかったら、この立海家はとっくの昔に滅亡の憂き目に遭っていたかもしれない…主に食事の面で。
「桜乃は本当にいい子に育ってくれたよ…両親も(ここに)いないのにグレたりもせず、俺達の分までしっかりと家事を引き受けてくれて…」
ほろり…と感動の涙を拭く精市の傍では、逆にやさぐれた様子の雅治達が横に視線を逸らして思い切り愚痴っていた。
「寧ろ、娘の入学式にも帰ってこん両親の方がグレとるんじゃないかと疑問を呈したいのう…」
「俺らの食事を準備するのがおっくうで、おふくろ、オヤジと一緒に世界回ってるって話も…」
兄妹の絆は安泰だが、親子の絆はヤバイことになるかもしれないと、慌てて桜乃が間に割って入った。
「ししし、しょーがないよう、お父さん達忙しいもん! 別に今困っている訳でもないし、式もお兄ちゃん達が八人もいてくれたら、全然寂しくないよ?」
「兄貴冥利に尽きるなぁ…」
ぐすっとジャッカルが涙声で呟いたが、それは彼だけの想いではなかっただろう。
「…そうですね、両親がいないからこそ私達は兄妹で協力し合い、助け合っていかなければ。特に桜乃は今日から立海の新入生になる訳ですから、慣れない事もある分、私達の責任は重大です」
「比呂士の言う通りだな」
うむ、と頷き、弦一郎が桜乃に顔を向けて穏やかな口調で言った。
「学年が異なれば多少校舎も離れてはいるが、何か困ったことがあれば遠慮なく伝えに来るのだぞ、桜乃。同じ校内なら俺達も対処し易い。お前が立海に入学することになったのは幸運だった」
「はい」
こくんと頷きながらも、桜乃はでも…と心の中で考える。
(私が立海に入学するのは、もう前もって決められていたよーなー…)
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