数ヶ月前の立海家…
夕食後の居間には、珍しく兄妹全員の招集が掛けられていた。
「ではこれより、桜乃の進路を検討する為の家族会議を行う。両親は相変わらず不在の為の不参加により、決定権を放棄したものと看做し、事後報告とする」
『異議なーし!』
議長である幸村の宣言に男達が一斉に同意の言葉を述べている向こうでは、議題の中心人物である桜乃が、呑気にぱり、とお煎餅を齧っている。
彼女だけがおやつにありついている訳ではなく、他の男達の前にも専用の湯飲みとお煎餅はスタンバイされているのだ。
「当家の財政面、地理的状況、桜乃の能力及び環境から、俺が提案したいのは立海だ」
(あれー? 精市お兄ちゃんが早速発言してる〜)
こういう議題の場合は、先ずは議長が周りの人に意見を聞いたりしないのかな〜と桜乃がぼーと考えている間に、次男の弦一郎が挙手して発言。
「極めて妥当な判断だと思う。俺もその案に一票」
続いて蓮二が手にしていたノートを捲りつつ、頷いた。
「学力面でも桜乃は今の学校でトップクラス、十分に狙えるだろう。合格率は九十五パーセント以上」
(そりゃあね〜〜、八人の家庭教師が住み込みでいる様なものだもの…特に蓮二お兄ちゃんと比呂士お兄ちゃんは立海でも天才って言われてるぐらいだし、教え方も上手だし…)
ずずーっとお茶を啜りつつそんな事を考えていた桜乃が、ふと隣の赤也と目が合った。
「……」
「……」
そして、ふいっとそれを逸らしつつ考え直す。
(…家庭教師は八人じゃなくて七人かなぁ…で、反面教師が一人…)
「何だよ、今の沈黙」
何か気になるぞ、と赤也が相手を見つめている間に、更に議論は進んでいた。
「距離的にも問題ありませんね。まだ幼い桜乃が何処かの寮に入って一人暮らしをするなどもっての外です」
「世の中、色々と悪いヤツがおるからのう…桜乃は優しいし良い子じゃし、すぐに騙されてしまいそうじゃよ」
天邪鬼な雅治も、今日の議題に限っては他の兄弟達と同じく慎重論に賛同していた。
「桜乃がいなかったら、俺らの食事もどうなるかわかんねーじゃん! 桜乃が立海に行くのには問題ねーし、そしたら俺らも今まで通り美味い食事食えるし、いいじゃんそれで!」
恐ろしく極端な自論を展開したブン太を横目で見つつ、ジャッカルがこそっと遠慮がちに手を挙げて発言する。
「断じてコイツと同じコトを考えた訳じゃあないが、結論を言ったら俺もそれで賛成だな…桜乃はしっかりとしているが、やっぱりまだ幼い女子だ。目の届かない場所にやってしまったらどんな危険があるか分からない。立海は良い学校だし、決して悪い選択じゃないと思うぞ」
「……赤也の意見は?」
「へ、俺?……」
まさか自分にも振られるとは思っていなかったらしい八男が、きょとんとした後で大急ぎで考える。
桜乃が何処か別の学校に行って寮住まいということになれば、必然的にここに残るのは自分達八人の男兄弟のみ。
それは、もし自分が弦一郎に説教を受けたり体罰を与えられても、いつも相手を止めてくれる優しい神の使いがいなくなってしまう事と同義。
そうなると、それこそ自分の毎日が地獄になってしまう訳で…しかも食事もそうだけど、家の掃除とか洗濯とかも完全に当番制になってしまう!
イコール、自分の遊び時間が大幅に減る!!
「り、立海!! 俺も立海がいいッス!!」
自分がちゃんとした生活を送ったら良いという根本的な解決策はまるっと無視で、赤也はぶんぶんと手を振り回して主張し、そんな彼を妹がじとーっと疑いの眼差しで見つめた。
「何? 今の沈黙…」
何となく、かなり失礼な事を思われた気がする…と桜乃が考えていると、赤也の意見を最終的に聞いた精市が頷いた。
「じゃあ反対もないみたいだし、桜乃は立海に入学させるということで」
『異議なし!!』
「よし、解散!」
「……ほえ?」
まだ温かい湯のみを持ちながら、桜乃はきょとーんとした。
(…あれ? 終わり?…私の意見はー?)
これは少なくとも自分についての議題だった筈なんだけど〜…
「えーと…精市お兄ちゃん」
「ん? どうしたの桜乃」
ひょっと遠慮がちに挙手した妹に、精市はきょとんとした顔で応じた。
「あのう…私の意見については…?」
「え…」
彼女の一言に、精市のみではなく他の退席しようとしていた男達も一斉に注目し、その中で精市はがしっと桜乃の肩を抱いて緊迫感も露に迫った。
「桜乃、立海が嫌いなのかい?」
「え…ううん?」
「立海まで遠すぎる?」
「ううん…歩いて行けるし」
「じゃあまさか、お兄ちゃん達と同じ学校に行くのが嫌なの!?」
ずおっ!と一際強く迫られ、その気迫に圧されながら桜乃はぷるぷると首を横に振った。
「い、いえいえ、そういう訳では」
「…特に立海が嫌だという訳じゃないんだね?」
「うん」
「何だ、なら立海でいいんじゃないか」
「……」
そう…なるの…かなぁ…?」
あれ〜?とまだ若干疑問が残っていた桜乃だったが、周囲の兄達は『あー良かった良かった』と全員で納得して自己完結し、次々と席を立っており、最早会議を再開させるような雰囲気ではない。
そして結局、桜乃は兄達の希望通り、立海の入学試験を受け、合格通知を受け取り、今日へと至ったのだった…
(まぁ、お兄ちゃん達が全員立海だったから、他の学校を知る機会なんかなかったからなぁ…あの時嫌って言ったところで、じゃあ何処に行きたいのって訊かれたら多分答えられなかっただろうし…)
立海は全国的に有名な進学校なので、確かにここに入学したらいいだろうって気持ちもあった事は否めない。
(それに、お兄ちゃん達がいるっていうことは確かに心強いもんね。何かあっても色々と助けてもらえるかもしれないし…)
そう自分で納得させてから、桜乃は全員が朝食を食べ終わった後、いそいそとそれらの食器を台所へと戻しつつ手早く片付けると、兄達に手作り弁当を手渡す。
「はい赤也お兄ちゃんお弁当、ハンカチとティッシュ持った?」
「ん、あ、持った」
「ブン太お兄ちゃんのはこっちね。大盛りにしといたよ」
「サンキュー!」
兄達の好みの味や分量もちゃんと考えての桜乃の手作り弁当は、昼休みの男達の何よりの楽しみである。
それらを携えて、彼らは大事に桜乃を守るように円状に彼女を囲むと、いよいよ学校へと向かって行った…
「お早うございます、会長」
「うん、お早う」
「きゃ、お早うございます、先輩」
「ピヨッ」
今日は始業式で入学式ということもあり、朝のテニス部練習は臨時休止。
その為いつもよりは若干遅い時間での登校となり、立海家の兄妹達は普段より多くの一般生徒達と通学路の途中で顔を合わせる事になった。
中学校内でも飛び抜けたイケメン兄弟の一団となれば人目を引くのは当然で、彼らは家を出てから学校に至るまで、何人もの生徒達から声を掛けられた。
そんな兄達の様子を、彼らの中央に守るように据え置かれた桜乃はじ〜っと興味も露に見つめ、感嘆していた。
「凄いね〜〜〜」
「まぁな、精市達は人望も厚いし、今の生徒会への評価も高いから…」
ジャッカルの説明に重なる形で、桜乃の別のアプローチからの発言。
「話し掛けた人達の八割以上が女の人達だよ…やっぱりお兄ちゃん達って格好いいからモテモテなんだねー」
『…………』
妹の何気ない賛辞に、しかし兄達は一斉に沈黙し…先ずは弦一郎が唇を開いた。
「ご、誤解だぞ桜乃!」
「ほえ?」
続いて、比呂士も眼鏡に手をやりつつきっぱりと断る。
「お兄ちゃん達は、決してやましい事をしている訳ではありませんよ」
「ふえ?」
そしてとどめに精市が念押し。
「俺達にとって、一番大事なのは桜乃なんだからね?」
「??? うん、分かっているよ…?」
自分がどれだけ兄達に大事にされているかという事は十分に理解している桜乃は、何故彼らがそこまで必死になっているのか全く分かっていない様子だったが、その陰で赤也だけが微妙な表情を浮かべて視線を横に逸らしていた。
(何つーか…恋人に、浮気の疑惑を必死に解こうとしている野郎みたいだ…)
少なくとも、実の妹に釈明する様な台詞じゃあないよなぁ…まぁ気持ちは分かるから突っ込まないけどさ…
そんなこんなで無事に学校に到着した桜乃は、一度兄達と別れ、それから教室に行ってからすぐに講堂に移動して入学式へと参加した。
親族が座る椅子は、桜乃の親の処は空席だったが、先輩として八人の兄達がしっかりと見守ってくれていると思うと少しも寂しくはない。
そうしている内に校長の訓辞も終わり、生徒会長である精市が壇上へと上がった。
(あ、精市お兄ちゃんだぁ)
いつも見ているけど、こうして生徒会長として見ると、もっと格好良く見えるなぁ…
うっとりと見蕩れていると、精市の滑らかな言葉がマイクを通じて全校生徒へと届けられてきた。
『皆さん、ご入学おめでとうございます。生徒会長の立海精市です。自分達立海大附属中学の生徒は、新入生である皆さんを心から歓迎致します』
そんな彼のスピーチの合間に、こそ、と桜乃の近くの女子生徒が内緒話を交わしていた。
『立海って…もしかしてここの学校の関係者?』
『うん、あの人の一族が経営しているんだって…』
『わーすごーい…ここって凄い名門校じゃない。その一族で生徒会長って、どんな生活なのか想像出来ない』
(確かにねぇ…)
でも、普通の人間の生活なのになぁ…と考えているところに兄のスピーチの言葉が重なる。
『皆さんも、立海に入学してからは勉学のみに留まらず、スポーツや恋など様々な分野に興味を持ち、自信の内面を成熟させていってほしいと思います…』
(恋かぁ…)
ほう…と桜乃は溜息をついた。
初めての学び舎に来てずっと興奮しっぱなしだったけど、これから色々と学んでいかないと…
そしてその中で、出来たら身体も動かしてみたいし、私みたいな平凡な子でも素敵な恋が出来たらいいなぁ…理想の人っていうのはまだ思いつかないけど…夢の学生生活だよね…
『……但し』
(…ん?)
何だろう…今のお兄ちゃんの言葉、何となく半オクターブ低かった…と桜乃が現実に戻って壇上を見ると、相変わらず端正な容姿の生徒会長が、マイクを握って全校生徒をぐるりと見回していた。
その瞳の色が…遠巻きながら、冷えている様に感じられる。
『…今年、自分の妹も無事に立海に入学しましたが、彼女に関してだけは、付き合う前に自分達八人の兄と勝負願います』
(ええええええ!!!!!)
何それーっ!!と思ったのは桜乃だけではなく、新入生含めた全校生徒がざわついたが、精市は全く構わずに続けた。
『他の女性とのお付き合いは、こちらは一切関知せず個人の責任に委ねますが、妹に関してだけは八人を倒せた男性のみに、彼女と付き合う権利を許します…自分達としましても、頼りになる『弟分』が出来るのは非常に楽しみであり、喜びでもありますので…皆さん』
瞬間、ぎらっと精市のみではなく他の兄達の眼光が鋭く厳しいものになった。
『どうぞご遠慮なく…』
(こえええええええええ〜〜〜〜っ!!!!!)
『…以上です』
教師達も含め、全員を凍らせた後で精市は微笑んだまま壇上から降りていった。
(…あああ…さよなら、私の夢の学生生活…)
あんな堂々と『挑戦者、求む!!』みたいな宣伝をされて、乗ってくるような物好きがいる訳がない…しかも八人全員だなんて…一人だけでも相手が逃げ出しそうな強者なのに。
くっすん、と陰で涙を呑みながら、桜乃は当面、恋愛運には縁がないだろう事を悟っていた。
(や、やっぱり違う学校に行くべきだったかなぁ…あ、でもどうせ一人は付いて来たかも…お兄ちゃん達だったらやりかねない…)
意地悪ではなく、心底自分の事を大事に思ってくれているからこそ、という事が分かっているだけに恨む事も出来ない。
非常によく出来た娘は、己の不幸の理由を誰に求めることも出来なかった。
そして、そんな或る意味衝撃的な入学式を経て、いよいよ桜乃の中学生生活が始まったのである……
了
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