見知らぬウサギの獣人がお風呂に入り、汚れを落とし、十分に身体を暖めたところで、彼女は風呂から上がって幸村の服を借りた。
「わぁ…本当におっきい」
 彼女がそんな感想を漏らしながら着替えている間に、幸村達は勿論、覗き等の不届きな真似は考えにも及ばず、真面目に居間で彼女の素性について話していた。
「道端に落ちてた?」
「倒れてたって表現が妥当なんだろうけど…まぁそんな感じ…多分、捨てられたんじゃないかな、あんなに汚れていたし…」
「獣人があの年で捨てられるのは滅多にない事だが…不憫だな」
 ぺた、ぺた、ぺた…
 そうしている内に、廊下を裸足で歩いて来る音が聞こえてきて、二人は彼女が入浴を済ませたのだと知り、そちらへと顔を向けた。
「ああ、上がったか」
「湯加減はどうだ…」
 『どうだった?』と尋ねる声も途中で打ち消され、男達はそこにいた少女に声もなく注目する。
 数十分前には泥まみれだった少女は、今はもう全ての汚れを洗い流し、本来の姿に戻っていた。
 黒の瞳に負けない程に艶やかな黒髪は、今はおさげも解かれてしっとりと湿らせた状態で素直に流されている。
 雨に打たれて体温を奪われ、蒼白だった頬には血の気が戻っていた。
 長い睫毛と大きな瞳はあの出会いの瞬間と同じ様に、またも幸村と、今度は柳にまで衝撃を与えた。
 しかも、やはり服が大きくて手が袖から出ておらず、ズボンの裾もだぶだぶ…なのに、『だらしない』という印象はなく、寧ろ男心に訴える何かが…
「あの…有難うございました…お陰で凄く温まりました」
 ぺこ、と軽くお辞儀をすると同時に、彼女の長く白いウサギ耳もぴこ、とお辞儀をする様に曲がったが、二人は相手には答えず、代わりにひそ、と囁きあった。
『…捨てられた?』
『ごめん、違うと思う』
 こんなに見た目可愛い子を捨てたりする奴なんていないだろう…なら、性格が異常に悪いとか?
 いやしかし、ちゃんと人並みに挨拶は出来ているし…
 どういう事だろうと興味津々になりながらも彼らはまぁ取り敢えず…と彼女に準備していた食事をあてがった。
「お腹すいてるって言ってたから、蓮二に準備してもらったよ。ゆっくり食べて」
「…!!」
 目の前に並ぶ見事な品々に、その子は瞳孔を開いてきらきらと輝く瞳で感動を顕していたが、本当にいいのだろうかと不安げにちらちらと幸村と柳を交互に見遣った。
(ふむ…空腹に任せて飛びついたりもしない…卑しいから捨てられた訳でもなさそうだ)
 柳が冷静に分析している間に、幸村が不安がる少女に優しく笑った。
「大丈夫だよ、蓮二の料理は美味しいから」
 ぺろっ…
「っ!!!!」
 相手の不安を和らげようと、幸村は何気なく相手の額を軽く舐めた。
 人間だったら変態だが、猫の獣人であれば何気なく行う親睦を深める為のスキンシップの一つで、この社会の人間や獣人なら誰でも知っている行為…だった筈なのだが…
 ばびゅんっ!!
「…あれ?」
「……」
 無言で佇む柳の影に、風より速い動きでその少女が逃げ込み、がたがたと震えながら幸村の方をじっと見つめていた。
「…あ、味見? 味見なの? 私、太らせられて、食べられちゃうの…?」
「えええっ!!??」
 何でそうなるの!?と吃驚する幸村に、柳がふーと息を吐きながら言った。
「…捨てられたかどうかは知らないが…少なくともこの娘、恐ろしい程に世間知らずだぞ、精市」
 何者なのか…俺も興味は尽きないところだがな…


 まさか自宅でそんな騒動が巻き起こっているとも知らず、真田は傘を差しながら自宅への道を歩いていた。
 因みに、その隣には切原がいる。
 男同士で相合傘というのは落ち着かないものだが、雨脚が強い今の状態を見たら我侭も言えなかった。
「あーもー、午後から雨だなんて聞いてなかったッス…」
「精市達が教えてくれたからな…しかし、普段から折り畳み傘を入れておくぐらいの準備はしておけ」
「は〜…やっぱ獣人は色々と敏感なんだなー…飼ったら便利そう」
「相手を尊重しない人間には何を飼う資格もないわ、たわけが」
 きっちりとお小言を言った真田はそこで家の前に到着して、一度空を見上げてから後輩に言った。
「もうしばらく雨も続きそうだな…少し雨宿りしていくか、赤也。茶ぐらいは出るぞ」
「そうっすねー…んじゃ、お邪魔します」
 お茶…となると茶菓子も出るだろう、と、何処かの赤髪の獣人の様な事を考えながら、切原は相手の好意に甘える決定をした。
 そして、二人は真田家の玄関の扉を開いて、中へと入った。
 居間に歩いて行くに従い、その部屋からぼそぼそと話し声が聞こえてくる。
『ふぅん、桜乃って言うんだ…で、何処かの学校で飼われてたってこと?』
『はい…バスに乗せられて遠足というものに出掛けて、途中ではぐれてしまって…』
『そうか…だから外の世界の事を何も知らなかったのだな、合点がいった』
「ん? 来客か?」
「何か、女の声っぽいですけど…」
 あの二人には恋人なんかいなかった筈…と不審に思いながら、真田が襖をしゅっと開くと、そこには幸村と柳…そして黒髪の白いウサギ耳を持つ少女がちょこんと座っていた。
 勿論。真田達と彼女は初対面。
「む、誰だ?」
「あ…っ」
 真田の鋭い眼光に射抜かれて、少女がおろっと動揺も露に視線を泳がせつつ腰を浮かす。
 そこに、出て行かなければ…という意志を読み取った幸村が先手を打った。
「大丈夫、彼はこの家の家主の真田弦一郎…人間だよ。でも、君を追い出しに来た訳じゃないから」
「……」
 その場に突っ立って、声を失っている切原の視界の中で、向こうの話はどんどんと進んでいた。
「ちょっと道の途中で拾ったんだ。桜乃って名前で、都内の学校で飼われていたらしいんだけど、二、三週前からはぐれて戻れなくなったらしいんだって。かなり疲労が酷い様子だったから、少し休ませてやろうと思って」
「あの…桜乃と申します…お邪魔してしまって、すみません」
 桜乃がぺこ、とお辞儀をして詫びる…ついでにその耳もぴこ、とお辞儀した。
「何? そうか…それは気の毒な事だ。きっと学校の方も心配しているだろうな」
 厳格ではあるが冷酷ではない真田は、幸村の説明に納得したと頷き、彼の言葉を受けて桜乃もうん、と同じく頷いた。
「は、はい……私、学校に戻らないと…生徒のみんなが探してくれているかもしれませんから…」
「幸い、彼女が着ていた制服の校章から名前が分かりそうだ…よし、これだな」
 手持ちのPCを駆使して柳が目的の学校を探し出し、その住所と電話番号を確認する。
 念の為に桜乃にもその画面を見せると、すぐに合致した学校だと頷いてくれた。
「そこです! 私、そこの園で飼われていました」
 良かった、身元が判明した…後は、彼女を元の場所に戻してやるだけだ…
「ここの家主は弦一郎だから、君から連絡を取ってくれるかな」
「ふむ…構わんが」
 ぴっぽっぱ…と電話のボタンを押して真田が向こうと連絡を取ろうとしている間に、ようやく動き出した切原が、おず…と桜乃へ遠慮がちに話しかけた。
「えと…アンタって、ウサギの獣人…?」
「はい…」
「ふ、ふーん……ずっと学校の中にいたの?」
「はい、沢山の生徒さんがいたんですよー」
「そ、そっか…」
 いつもの勝気な態度とは程遠い、まだるっこしい会話を繰り広げる切原を、幸村がじっと見つめている。
「……」
 その後頭部には、目には見えないが交差点マークがくっきりと浮かんでいただろう。
(…気に入ったんだな、精市)
 そして、そのお気に入りに手を出される事が嫌なんだな…と柳が推測している間に、電話口で話していた真田の口調が、急に焦りを帯びた困惑したものに変わった。
「…え? い、いやしかしですね、そちらの獣人が今、ウチに…それはそちらの都合でしょう! 兎に角…あ」
 最後、少し間抜けな声を出して受話器を呆然と見つめていた真田は、したたかにそれを元の置き場所に叩き付けた。
 どうやら、一方的に通話を切られてしまったらしい。
「たるんどるっ!! 自分の責任ぐらい果たさんか!!」
「どうしたの? 弦一郎」
「……」
 幸村の問い掛けに、真田が沈黙し…ちら、と桜乃の方を見る。
 しかし、結局彼は息を吐きながら、全てを知らせるしかなかった。
「その……もう、その子を…桜乃を引き取る事は難しいそうだ」
「え…」
 聞いた桜乃本人が、小さな声を漏らしたきり、身体を硬直させる。
 引き取る事は難しい…それってつまり…帰って来るなって、こと?
 呆然とする桜乃を気遣っているのだろう、真田は出来るだけ静かに、諭す様に説明を続けた。
「…向こうも彼女がいなくなって随分と探していたらしいが、結局見つからずに終わってしまって、先日、園には新しい動物が入ったらしい…生徒達には桜乃が無事だったという報告はするが、彼女を引き取る事は出来ないと。その…子供達は本当に心配していたのだが、もう…」
「そんな…!!」
 こんなに帰りたがって、頑張っていたのに…!と幸村が憤りながら桜乃を見ると、彼女は俯いて、ぽろりと涙を零していた。
「……間に合わなかった…んですね」
「え…?」
「…私、いつも…どんくさくて……ウサギの癖にとろかったから…もっと早く帰れていたら、良かったけど……そう、ですか…」
 はらはらと泣きながら、桜乃は両手で顔を覆った。
「私、これで本当に……捨てられちゃったんですね…」
 悲哀に呑まれてしまった少女が、涙声で呟く。
 誰に言うでもなかったその声を聞いた時、例外なくその場の男達が胸を打たれた。
「あ、あの…じゃあさ…っ!」
 徐に切原が声を上げた直後…
「ウチの子にする」
 どきっぱり!!と幸村が宣言していた。

(えええ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!)

 桜乃含めて全員が驚愕している中で、幸村は宣言後にくるっと真田へと振り向いた。
「桜乃、飼うよね、弦一郎」
「む…い、いやしかし、いきなりそういう…」
「飼うよね?」
「…っ」
 人間ですら敵わない程の威圧をこれでもかとぶつけられ、真田が声を呑んでいる間に、彼はくるっと桜乃に振り向いて、一転爽やかな優しい笑顔で気遣っていた。
「ここにいなよ桜乃、今日から一緒に暮らそう」
「え、で、でも…私、そんな図々しい真似…」
「か弱い子を一人で放り出すなんて鬼畜な真似、出来る訳ないじゃないか。何処にも行く宛てがないなら、俺達といよう」
 半ば強引に…しかし確かに桜乃にとっては救いの手を幸村が差し伸べている脇で、切原ががーんっ!と少なからずショックを受けていた。
(先越された〜〜〜〜〜〜っ!!)
 本当は自分も『ウチに来たら?』って誘いたかったのに…!!
 犬や猫、何を飼おうかと迷っていた心が、彼女を見た瞬間に吹き飛んでいた。
 可愛い! 彼女を傍に置きたい! 犬でもないし猫でもない、ウサギだけど全然構わない!!
 それが何という感情なのかはまるで分からないけれど!
(元の学校に戻されるよりはここの方が近いから、これからも会える事は会えるんだろうけど…何だってよりによって真田副部長の家に〜〜!!)
 やおら賑やかになっているところに、また玄関から別の声が聞こえてきた。
『うおーい、いるかー? 今朝の差し入れの皿、返しに来たんだが』
『ん? 何か変なニオイがする…』
『…ウサギじゃの』
『どうしたんでしょうね…?』
 向かいの男達が皿を返しにきがてら、遊びに来たらしい。
 それから彼らも桜乃を紹介され、大いに驚き騒いだ。
 そして渦中の桜乃は、自分でもどうなっているのか、どうなるのか分からないまま、真田の家で暮らすことになったのである。
 不幸中の幸いだったのは、元の居場所を追われた事を悲しむ暇も殆ど無く、悲しみに浸る暇もない程に賑やかな家に引き取られたということだろうか……






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