とある日の小さな冒険・2
そして桜乃が幸村達の昼食を一生懸命作成している頃…
「んー、懐かしい匂いじゃ」
ふんふんと形の良い鼻を小さく鳴らしながら、そんな台詞を呟く一人の若者が、真田家の方へと続く道をゆうるりとゆっくり歩いていた。
その若者の隣にもう一人、同年代の男も連れ立って歩いている。
先を行く男は銀の髪に勝るとも劣らぬ猫耳と尻尾を輝かせており、その瞳は笑みを称えながらも鋭く、まるで尖ったナイフが獣人を象った様な印象を抱かせていた。
「ちょっと空け過ぎましたかねぇ…ジャッカル君達が心配しているかもしれません」
数歩後に歩いているのは珍しい紫の彩を誇る髪と耳、尻尾を持つ男で、その表情は偏光眼鏡によって堅牢な鎧の如く隠されていたが、口調は至って物腰柔らかなそれだった。
「どうかのう…俺はどっちかと言うと、あいつらの生存状況の方が不安じゃ」
物凄い勘の良さでそんな事をのたまった相棒に、紫の髪の男…柳生は眼鏡に手をやりつつ苦笑いを浮かべた。
「まさか、私達二人がいない間は食費も少しはましだったでしょう。考えすぎですよ、仁王君」
「そうかのう…」
仁王と呼ばれた若者は、相手にそうやんわりと否定された後も、青空を見上げながら自身の予想を述べる。
「俺にはどーもあいつらが水のみでギリギリまで生きて、飢え死ぬ寸前で真田達の助力を受けて、家の中で行き倒れの悲劇から逃れちょるイメージが沸いちょるんじゃが…」
「誇張が過ぎますよ、仁王君。ジャッカル君達にも失礼です」
そんな失礼なイメージそのままに向こうが暮らしていたのだから、人生というものは分からない。
しかし当然仁王達もそれを確認するには至っていないので、窘められた銀髪の男は肩を竦めて柳生に答えた。
「はいはい、ま、あいつらのことじゃけ、何だかんだと上手くやっとるじゃろ…まだ今の時間じゃと立海じゃな」
「そうですね、我々も明日からはまた通学しないと…」
真面目一辺倒であり紳士の見本とまで呼ばれている柳生が学校を休むとは、と思われるかもしれないが、この世界の獣人としてはこれは普通の行動。
獣の血を引く獣人達は、必ず何らかの形でその獣の本能の影響を受ける。
猫の血を引く者の場合、猫族の集会やら、パトロールや狩の習性に根付いた放浪への衝動などがそれに当たり、その時は学校への通学が免除になるのだ。
但し、獣人であれば誰でもその本能に基づく行為が許されるという訳ではない。
世の学校のレベルは様々だが、立海はかなりの名門校であり、それなりの学力を求められている。
もし立海が指定しているレベルに到達していない場合は、人間であれ獣人であれ即座に留年・退学という厳しい処断が課せられるのだ。
それでも、幸村を初めとする立海の男子テニス部レギュラー達はそんな条件など物ともせずに大いに学生生活を満喫しているのだった。
「たまの遠出は楽しいが、久し振りの街に戻ったら戻ったでわくわくするぜよ…しかし、ちょっと腹が減ってきたの」
「そうですねぇ…もうすぐでお昼ですから、丁度小腹が空く時間ですね」
もうすぐでジャッカル宅に到着する…というところで仁王が空腹を訴え、柳生もそれに同調した後、さして時間が経過していないところで再度仁王がくんと鼻を鳴らした。
「んん…」
「どうしました?」
「…いい匂いがするのう…ほほう」
楽しそうに瞳を揺らしながら仁王が足を止め、見上げた先は無人のジャッカル宅ではなく、その向かいにある真田宅だった…
「えーと…幸村さん達だけじゃなくて桑原さん達の分も入るから、かなり沢山作らないとダメよね、育ち盛りだし…食材はどれだけ使ってもいいって柳さんが仰ってたから、遠慮なく使わせてもらおう。足りなくなるより少しぐらい余っても大丈夫よね」
真田宅の台所では、桜乃がどっさりと冷蔵庫などから取り出した食材を前に真剣そのものの表情で戦闘準備を整えていた。
目の前にあるのは食パン数斤の山に数々の新鮮な生野菜、肉類やハム、チーズなどなど…
彼女の頭の中では、既にメニューは決まっているらしい。
(残念だけど、まだ未熟な私が手の込んだ料理を作っても不安だし、美味しくないものを作ってしまうのも申し訳ないし…ここはシンプルに攻めるべきよね!)
そう考えながら、桜乃はようやく最近持ちなれてきたパン切り包丁を手にすると、目の前のパンの山を薄めに均等に切り始めた。
どうやら、サンドイッチ系のものを作るつもりらしい。
「えーと、パンの耳をとってから…バターを塗るんだっけ?」
不安なところは台所に備え付けの料理の教本を片手に、一つ一つ確かめながら行程をこなしてゆく。
中身の内容も細々と指導が書かれているらしく、確かにそれに則って作っていけば失敗は防げるだろう。
そんなに難易度も高くなく、数も作れ、内容を変えたら種類も豊富であり、桜乃なりに考えた作戦は上策と言えた。
「これならそんなに重くもならないし…こっちにはマスタードを塗って…と、ふむふむ」
「ほー、結構手間が掛かるもんじゃな」
「そうなんですよー…」
「……」
「……え」
熱心に教本を読んでいた桜乃の隣から掛けられた声に、無意識に答えた彼女が数秒後その違和感に気付く。
今日、自分以外のこの家の住人は、例外なく立海へ行っている筈。
それなら必然的に家にいるのは自分一人だけ…なのに、今の声は…?
恐々と、ゆっくりと声の方へと振り返った桜乃の視線の先に、いる筈のない誰かの影が…
「プリッ」
『きゃあ―――――――――――――――っ!!』
相手が誰であるかを確認する前に恐怖が先に立ち、桜乃の悲鳴が家中に響き渡った。
「あああ! すみませんっ!! 違います! 誤解です、桜乃さん!!」
「きゃ……え? 柳生、さん…」
尚も叫ぼうとした桜乃に必死の様子で謝罪してきたのは確かに向かいの家の住人である柳生だったが、最初に相手を驚かしたのは彼ではなく、彼が非力に見えて意外と力強い腕で押さえつけている銀髪の若者の方だったらしい。
「いてて! 痛いぜよ柳生〜」
「お黙りなさい! 貴方という人は、人様の家に入るのに一言も声を掛けないなんて失礼にも程がありますよ! 挙句に不法侵入など!」
真田宅から漂ってくる食欲をそそる香りに興味を覚えた仁王が、柳生が止める間もなく「あ」っという間に中に入り込み、台所まで侵入を果たしたのだった。
猫の血を汲んでいるとは言えその俊敏さは目を見張るものがあるが、そんな彼に長年付き合ってこられた柳生も間抜けではなく、最速の動きで彼の牽制に入っていた。
柳生でなければ、相手の確保もかなり出遅れてしまっていただろう。
「分かった分かった…」
「なに丸井君みたいな事をやってるんですか!!」
ぺちっ!!
言っている傍からそろ〜っと出来上がったばかりのハムサンドに魔手を伸ばそうとしていた仁王のその手に、柳生が手痛い制裁。
聞き様によってはそれもそれで丸井に失礼な言い分であるのだが、その発言はその場では完全にスルーされた。
「いてっ」
「に、仁王さん達……一体どうしたんです…?」
状況をようやく把握し始めた桜乃だったが、どうして彼ら二人がその場に来たのかはまだよく理解していないらしい。
取り敢えず見ず知らずの侵入者ではないということで警戒を解いた少女は、改めて相棒から解放された仁王と、居住まいを正す柳生へと向き直った。
「お久し振りです…そう言えば最近お見かけしていませんでしたけど、お元気そうで…」
「や、そうでもないんよ、帰ったばかりで腹が減っとってな…」
「余計な事は言わなくて結構です。お気遣いなく桜乃さん、ジャッカル君の家に戻れば何かしらあるでしょうから、それを頂いて済ませます」
暗に目の前に並びつつある豪華な食事をねだっていた仁王の台詞をびしっと否定した柳生だったが、そんな二人の発言を聞いた桜乃は、「あれ?」と不思議そうに首を傾げた。
「え…? 桑原さんのお宅、食べ物残ってるんですか?」
「はい…?」
どういう意味でしょう…と訝る紳士に、桜乃は少し前に掛かってきた柳からの電話で教えられた情報を二人の若者達にも提供した。
彼らがぷらっと短い旅に出ている間に、ジャッカル達が想定外のトラブルで困窮状態に陥っている事と、それが元で今の桜乃の昼食作成作戦が展開されていること、作り終わったら立海へのデリバリーが待っていることなどを。
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