そこは大通りとはまるで別の、光が差さない、正に裏通り。
 人の通りも殆どない道へと無理やり誘導された獣人達は、自分達に何事が起こっているのか理解さえ出来ず、混乱の最中にあったのだが、それはすぐに『恐怖』によって収められる事となる。
「がっ…!!」
 突然だった。
 一人の獣人の口を無理やりこじ開ける様に、誰かの両手が彼の口腔内に突っ込まれる。
 右手は、上顎を引き上げる様に上に。
 左手は、下顎を引き下ろす様に下に。
「あ、ああアあぁ…っ!!」
 口の両端の皮膚が裂かれる程に力を込めて来る。
 恐怖にパニックになりかけた獣人が、声を上げてその両手の持ち主を見たところで、その顔色が一層蒼くなった。
「俺の可愛い家族をぎったぎたにしようなんてほざく、悪い口はこの口かい…?」
 見据えて来る瞳が、爛々と殺気で輝いている。
 雪の様にましろの獣耳もぴんと固く尖り、高揚した感情を如実に表している。
 しかし、そんな激しい怒りの中にありながら、彼は…幸村精市は相変わらず美しい表情を称え、口元には薄い笑みすら浮かべていた。
 激しく怒っている筈なのに、表情はこんなにも穏やかで優しく美しい…だからこそ恐ろしい。
 きっと彼は、どんな残酷な事ですら、こうして笑ってやってしまうに違いない。
 そんな男だからこそ、この街に住まう獣人達は彼を畏怖しリーダーと認めているのだ。
「…精市?」
 いつの間にかもう一人の連れの方は、幸村と一緒にいた真田に首根っこを掴まれ宙に吊るされていたが、向こうもこの二人の姿を見た時点で、抗う気力は悉く抜けてしまった様子でひたすら怯えている。
 幸村のみでなく、同居しているこの男もかなりの手練れであり、自分達が何人何十人になったところで敵いやしない。
 言うなれば、自分達は今、二人の死神に鎌を向けられた状態に等しいのだ。
「大丈夫、俺は落ち着いているよ」
 幸村の怒りを危惧した親友の呼び掛けに、彼は穏やかな口調でそう返したが、相変わらず突っ込んだ手の力は緩めてはいない。
「……あと少し力を入れたら、口裂け男だね」
「〜〜!!!!」
 静かな言葉の奥に本気を感じた獣人が、目尻に涙を浮かべながら恐怖に慄く。
「口が裂けたら痛いよねぇ?」
 こくこくと激しく首を縦に振る男に、幸村はゆっくりと静かに念を押した。
「…もし今度、あの子に何かしようとしたら、口が裂けるくらいじゃ済まないからね。言っておくけど助ける訳じゃないよ、他の仲間達にも伝えておく様に君に伝言頼んだだけ…命握られてること、くれぐれも忘れない事だね」
「……!!」
 再び何度も首を縦に振って了解の意を示した後、ようやく獣人は幸村の手から解放された。
 同じく真田も連れの方を解放する。
 二人の死神が僅かに見せた情に縋る事が出来た者達は、兎に角そこから逃げる事しかなかった…しかし、一番正しい選択だ。
「…あーあ、手がばっちっちになっちゃった。桜乃に会う前に洗っておかなきゃ」
 少なからず獣人の唾液で汚れてしまった両手を、幸村がぴらぴらと振りながら愚痴る向こうで、真田がはぁと溜息をつく。
「杞憂と思っていたが、来て正解だったか…しかし、仁王達も一緒だったとは」
「帰って来てたんだね。まぁ、二人がついてくれてたら無事に学校まで行けると思うけど…あの二人が発端だったと思うとちょっとなぁ」
「奴らが好んで招いた災いでもないし不可抗力だろう。とやかく責めるのも、筋違いだぞ」
「まぁね」
 親友の諌めに笑いながら応えると、幸村はうーんと腰を伸ばしつつ言った。
「ま、これで街の奴らに釘を刺す事も出来たし良しとしようか。また改めて、集会の時にでも桜乃をお披露目しよう…さぁ戻ろうか。彼らが学校に着く前にね」



 立海正門前
「あーっ! 幸村さーん! 真田さんもーっ!」
「やぁ、桜乃」
「来たか、三人とも」
 大通りでの一部始終を知らない桜乃は、立海の正門に先回りして待っていた幸村達の姿を見て、駆け足で彼らへと駆け寄って行った。
 その後ろを、仁王と柳生がのんびり歩いて追いかける。
「あの、お弁当…お待たせしましたぁ!」
「ふふ、いいよ、そんなに慌てなくて…おつかい、どうも有難う」
 バスケットを差し出してきた桜乃に優しく笑い、幸村がなでなでと彼女の頭を優しく撫でで労う。
「えへへ…」
 嬉しそうに笑う桜乃を微笑ましそうに眺めてから、真田は後ろに追いついて来た仁王達二人にも声を掛けた。
「二人も、気を掛けてくれて礼を言う」
「なーに、物はついでじゃ。俺らもご相伴に預かりたかったしのう」
「レディーに力を貸すのは当然の事です」
 そんな彼らの会話を聞いていた桜乃が、ぴこ、と長い兎耳を揺らして不思議そうに尋ねた。
「あら? 真田さん、お二人がお帰りだった事、ご存じだったんですか?」
「む? いや、まぁ…」
 余りに自然に、帰って来たばかりの筈の仁王達と会話を交わした相手に多少の不自然さを感じたらしい少女だったが、そこは幸村が上手く取り成した。
「仁王達の自由奔放な行動は今に始まった事じゃないからね…慣れたらどうってコトないよ」
「まぁ…そんなものなんですか?」
「うん、そんなもの」
 それより、柳達が待っているから行こう、と桜乃を校内へと促した幸村が、振り返りざまに仁王達二人に目配せし、された二人も意味深に小さく笑った。
『…やはり、あの時に感じた気配はお二人のものだったんですね』
『妙な邪魔が入ったから確かめられんかったが…けどまぁ、努力は認めてもらえたようじゃな』
 秘密は秘密として、心の内に納めておく事にした幸村は、それから隣を歩く桜乃に改めて視線を向けた。
「よく頑張ったね…怖くはなかったかい?」
「ちょっと緊張はしましたけど、仁王さん達が手伝って下さいましたから……それに、私も少しでも皆さんのお役に立ちたかったですから」
「え?」
「…私、皆さんに引き取って頂いて、ずっと大事にされてきて…でも、何もお返し出来る事がなくて凄く申し訳ないと思っていたんです。だから、今日柳さんにお願い事をされた時、びっくりもしましたけど凄く嬉しかったんです、やっとお役に立てる!って…」
「………」
 そこまで言ったところで、笑顔だった桜乃の表情が少しだけ不安を含んだそれに変わり、彼女は視線を足元に落としながら小さく続けた。
「…私は…これからも、皆さんの傍にいていいんでしょうか…?」
「桜乃…」
 生まれてからずっと飼われてきた存在が、或る日、あっさりと野に打ち捨てられた。
 帰る所も、寄る辺もない、一人で生きて行く力もない。
 今はこうして優しい人達に拾われて、恙無く暮らしているけれど。
 また、いつか自分は捨てられるのかもしれない。
 何の役にも立たない自分は、その時もきっとその事実を受け入れるしかない、だって、何も出来ないのだから…役立たずなのだから。
「……」
 絶望的な世界に追い込まれた記憶は、やはりそう簡単に拭えるものではないのか。
 この小さな娘はまだ、捨てられるという恐怖の陰に怯えているのだ。
「…何を今更…当たり前だろう?」
 少女に付き纏う陰を追い払う様に、幸村は呆れた口調でそう言いながら、ぽこんと軽く桜乃の頭を拳骨で叩いた。
「!」
「君はどうか知らないけどね…もう俺達は君がいなかった時の生活なんか思い出せないよ。君はね、ウチにいるのが当たり前なんだ、だって家族なんだもの」
「…家族」
「そう、家族は損得で得るものじゃないだろう? 家族はね、そこにいるだけで十分なんだよ。君はもう俺達の家族なんだから役立つとかどうとか考えるだけ損だよ。さぁ、おいで」
 もう二度と、君が孤独に怯える必要はないんだよ…
 そう言い聞かせる様に、行動で語る様に、幸村はしっかりと桜乃の手を握り締め、一緒に歩いて行った。

 そしてその日、桜乃は家族と、ご近所さんと、そしてちょっと年上の友人達と、輪を作って楽しい昼食を頂いたのだった……


 後日、真田家にて…
「先日、お前は自分が役に立っているとかいないとか、そんな不安を精市に述べたそうだな。彼の主張する、お前が俺達の家族だという意見には全くもって賛成だ。それについては俺も異論を挟む余地はない」
 柳が、台所で桜乃を前にしてしっかりと改まって訓辞を述べている。
「だがしかし、家族だからとてごく潰しを養う道理はうちにはない。働かざる者食うべからず! 下らん心配をする前に、これからも一般人としての最低限の教養はみっちり仕込んでやるから覚悟する様に。先ず今日は、だしの取り方からだ」
「はい!!」
 殆ど軍隊張りの柳の指導っぷりに、台所の入口からその様子を眺めていた真田が眉を顰める。
「…少々、方向性がおかしくないか?」
「あれも蓮二の優しさだよ」
 同じく覗き込んでいた幸村がふふ、と笑う。
「役立たずじゃないと言って聞かせても、暫くは不安は残るだろうからね…なら、その不安を忘れる程に何かに打ち込んでしまえばいい。家事でも何でも、自分に出来る事が広がれば、桜乃も自信がつくだろうし、ウチにいる事が『当たり前』になってくるだろう?」
「ふむ…」
 それも一理ある…と納得した真田は、柳に熱心に指導を受けている桜乃の姿を見て、穏やかな表情で頷いた。
「蓮二ならば間違いはなかろう……彼女も女子だし性格も申し分ない。家事と礼法を修めれば、何処かの良家に嫁に行けるかもしれんな」
「嫁にはやらない」
「……」
 もしかして、お前も結構、家族としての覚悟がまだ足らないのではないか…?
 そう思っても口には出せない、真田家の主人だった……





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