黄金の扉


「あれ、桜乃。どうしたの?」
 或る日の青学、放課後になると竜崎桜乃は大急ぎで廊下へと飛び出していた。
「うん、ちょっと職員室まで」
 答えを返しながらも、彼女の足は速度を緩めない。
「誰かに呼ばれてるの?」
「お客様が来るの!」

「わざわざ呼びたててすまないねぇ」
「いいえ、俺達にとっても必要な手続きですから。それに、今回はこちらから伺う順番でしたし」
「身体は大丈夫かい?」
「はい、お陰さまで」
 職員室の中、男子テニス部顧問の竜崎スミレの前に立つ若者は、この学校とは明らかに違う制服を身につけており、いかにも外部からの来訪者という会話を交わしていた。
 緩やかなウェーブが掛かった髪を肩近くまで伸ばしており、その美麗な顔は一見女性とも見紛うばかりだが、意志の強い眼光と、鍛えられた男性しか持ち得ないしなやかな筋肉が、明らかに彼が男性であるという事を知らしめている。
 男性にはやや不適な表現かもしれないが、彼の美しさには他の教師や職員室を訪れていた生徒達も目を留める程であった。
 その内の一人の女生徒が『あ…幸村さんだわ』と小声で呟いた。
 そう。
 彼は立海大附属中学の男子テニス部部長を務める、幸村精市。
 今日はその部長の役目である青学との練習試合の予定を立てる為に、ここを訪れていたのだ。
 大まかな予定は電話口でも立てられるが、今後の互いの学校の都合なども含めて長い目での計画の立案は、やはり面を合わせてやるのが一番だ。
 幸い、二つの学校は共に関東圏内。
 多少の時間をかければ、会うことそのものはそれ程に難しくはないのだ。
「私はてっきり、副部長の彼が来ると思っていたよ」
 にこっと笑いながらそう言う相手に、幸村もふふっと優しい笑みを返した。
「本当は弦一郎が来るつもりだったんですけど、俺が来たいと言ったんです。たまには違う場所にも気分転換に行きたいって。それに……」
「幸村さん!?」
「!」
 話している途中で呼びかけられ、一度言葉を切った彼がそちらへと振り向くと・・
「やぁ、竜崎さん」
「お久し振りです!」
 嬉しそうな顔で、とととーっとこちらに走ってくるおさげの少女に、幸村もまた向き直りつつ微笑む。
「こら桜乃! 廊下は走るな、職員室では騒ぐな、全く何度言ったら分かるんじゃ」
「ご、ごめんなさい、おばあちゃん」
「学校では竜崎先生と呼ばんか!」
「うああ、ごめんなさい〜」
 幸村の前であっても、祖母の指導は全く容赦がない。
 自分も何度も言われていることなのに、全く進歩がない。
 どちらに非があるかと言うと、やはり自分なので桜乃は何も言い返せずにひたすらに謝った。
「お、お騒がせしました〜…」
「ふふ、いいよ竜崎さん。そんなに急いでどうしたの? 竜崎先生に用かな?」
「い、いいえ、あの…今日、幸村さんが来るって聞いたのでつい…あのう、また今度立海に見学に行ってもいいですか?」
 叱られた現場を見られてしまい、恥ずかしさで赤くなった少女が、それでも顔を真っ直ぐに上げてこちらに尋ねてきた。
「こりゃ桜乃、あまり我侭を言うもんじゃ…」
 孫の要望に対したしなめようとした祖母だったが、尋ねられた幸村当人は何でもないという様ににこにこと笑いながら頷いてくれた。
「俺達の方は別にいつでも構わないよ。みんなも最近は竜崎さんが来てくれるのを本当に楽しみにしているからね。少しでも俺達の指導が役に立っているといいんだけど…」
「凄く役に立ってます!」
 こくこくと頷く桜乃に、そう、と嬉しそうに言う幸村の後ろで、祖母が桜乃を見つめており、それからちらっと幸村へと視線を向けた。
「…」
 何かを考えているような表情を浮かべた彼女は、しかしすぐにそれを笑顔で覆い隠してしまった。
「さぁ桜乃、私達はまだ話し合いが残っているから、ちょっと席を外しておくれ。いくらお前でも、何でも教えられる訳じゃないからね」
「あ…はぁい」
「ごめんね、竜崎さん。また立海においでよ」
「はい」
 幸村がばいばいと手を振り、桜乃はお辞儀でそれに答えると、静かに職員室から退室していった。
 流石に怒られたばかりでまた走る訳にはいかないと自重したらしい。
「…いつもウチの孫が世話になってるね」
「いいえ、俺達も楽しいですよ」
「…ちょっと、あの子について聞きたいんだけど、いいかねぇ?」
「はい? 竜崎さんの事ですか?」
「ああ、見ていて、まだまだ頼りないし力不足の面が多いと思うんだが…私が彼女の祖母だということは考えなくていい。幸村、正直なところ、あの子はどうだい?」
「そうですね」
 贔屓目でなくとも、幸村の厳しい目で見ても桜乃の成長は確かに目覚しい。
 ちょっとおっちょこちょいなところはあるが、それは本人の努力でどうとでもカバー出来ることだ。
 素質などについては元々持って生まれたものであるが、それは本人の負うべき責任ではない、無論、彼らの親でも同じだ。
 もしどうしても責任を負わせたいということであれば、神にでも異を唱えるしかないだろう。
「…天才と呼べる類には入らないかもしれませんが、竜崎さんは非常に努力家で、これは大きな才能だと思います。中学生からテニスを始めたばかりでまだ初心者でもありますが、成長の速さは目を見張るものがありますね」
「ふぅん…幸村にそこまで言わせるとは、私の孫ながらなかなかじゃないか。じゃあ、大丈夫かね」
「え?」
 不意に聞こえた相手の言葉に、幸村が眉をひそめる。
 大丈夫、というのはどういう意味だろう?
 疑問の表情を向けた彼に、桜乃の祖母は孫にとって小さくない提案を上げた。
「ウチはアメリカに姉妹校があるんだが、今回向こうから交換留学の話が来たんだよ。向こうもテニスの教育には熱心でね…三年生は受験などもあるし二年生は部そのものを牽引していく主力で、家庭の事情などから希望者もいなかった。そういう事で、今年は一年の男女一人ずつを選別候補として考えておるんだが、最近それなりの成績を上げているあの子にも、十分に資格はあるだろう」
「っ!!」
 嘘…
 ざ…と幸村の顔色が青ざめて、視線が宙を彷徨った。
 俺の一言が…何か、とんでもない事態のスイッチを押してしまった気がする…!
 普段は人の進路や人生については自論を挟むことは決してなかった男が、初めて今回はそれに抗った。
「え…? まさか竜崎さんがプロを意識して…」
「いやいや、あくまでも文武両道の実践の話だよ。あの子がプロになれるとは思ってないし、本人もそうだろう。向こうの学校もそこまでの有名校じゃないし、あくまで部活動の範囲の話だ。しかしそれでも、向こうに行けば色々と刺激は受けるだろう」
「…そ、うですか…ま、まだここで限界を感じる程には伸びきっていないと思いますが。期間は、数ヶ月とか?」
「いや、一年ということになる。しかし、もし向こうの生活に馴染んで技能も発達したら、青学に戻るのではなく、また別の進路も開かれる可能性もある。まぁ、孫を手放すのは私としても不安だし寂しいが、寧ろ引っ込み思案の子を変えるには、旅をさせるのもいいかと思ってね…生徒の管理にも定評のある学校のようだし、それについてはあまり心配してないよ。無論、まだ決定事項じゃないし、他の希望者も募っていくけど…取り敢えず、まだあの子にもこの件については話さないでくれるかい」
「……分かりました」
 一年…!?
 しかも、それで必ず戻ってくる保証もないなんて…
 外見では冷静を装いながら、幸村はただ一言、そつのない答えを返すのみに留まり、それからは青学との練習試合の打ち合わせを行った。
 そしてそれが終わったら、来た時よりも少しばかり肩を落としたような姿で、すぐに立海へと戻ってしまった。
(そうだな…彼女の為を思うのならそれがいいのかもしれない…世界の広さを見るのも経験だ)
 それも正しい選択である筈…なのに、何故こんなに胸が痛む?
 桜乃の成長を思うのなら、喜んでやるべきなのに。
(声を聞こうと思えば今の時代、世界中に電話だって掛けられるし、今生の別れと言う訳でもない…けど俺の…俺達の…彼女との繋がりはテニスでしかない…)
 立海に来てくれているのだって、テニスの見学や指導を目的としたものだし…そもそも彼女は厳密に言うと自分達にとっては後輩ですらないのだ。
 他校の生徒の進路に、口を挟める訳がない。
(…竜崎さんは…行きたいと言うのかな)
 初めて、電車の外の景色を覚えていない帰路だった…


「おう、お帰り、幸村」
「ああ、仁王か…みんなはもう練習?」
「とっくにの。お前さんがおらんから、真田の奴が却って頑張っとるよ」
「そう…」
「……」
 部室の中で交わした会話で、幸村は早速仁王に鋭い指摘を受けた。
「何じゃ、折角青学に行って来たのに冴えん顔じゃの。お目当ての竜崎はおらんかったか?」
「竜崎さん?…いや、いたよ?」
 思案していた人物の名前を出されて、幸村が微かに動揺し、それもまた仁王の観察眼に見抜かれてしまう。
(…珍しいのう。俺にこんなにあっさり尻尾を掴ませるとは…こりゃ余程の事があったな)
 いつもなら、自分でも気付けない程にポーカーフェイスが上手い男が、こんなに動揺しているとは、どんな問題だろう…と詐欺師が興味を持つのは当然の事だった。
「……」
「…幸村、何があった?」
「…別に何も無かったけど」
「そういう顔して何もないって事はなかろうが。隠し事をするんは部長としてどうかと思うがのう」
 痛いところを突かれて、幸村は暫しの間沈黙し、やがて仕方ないと首を振った。
「…ここだけの話にしておいてくれるかい?」
「…随分と重い話みたいじゃな」
 息を大きく吸い込んで構える銀髪の男に、部長はため息を吐き出しつつ言った。
「もしかしたら、もう竜崎さんはここには来られないかもしれない…交換留学の話があるんだって、まだ確定じゃないけど」
「!?」
「祖母である竜崎先生は、何となく乗り気みたいだ。彼女って結構おばあちゃんっ子だから、あの人に勧められたら受けてしまうかもね」
「ほう…そりゃあまた、あの小さな子に随分と大きな話が来たもんよ…」
「大きなステップになることを思えば、俺達は喜んであげないといけないんだけどね…やっぱり何となく寂しいだろう?」
 駄目な先輩だな、と自嘲気味に微笑むと、幸村はそんな切ない気持ちを振り切るように、仁王に軽く手を振った。
「駄目だね、気持ちを切り替えていかないと。じゃあ、俺もすぐに着替えてコートに行くから、仁王は先に行っててよ」
「おう…」
 仁王が部室から出て行き、幸村も自分の言葉に従って着替えを手早く済ませてコートに向かう。
 あの銀髪の詐欺師には見抜かれてしまったが、流石に他の部員には気付かせる訳にもいかないと、気を引き締めてコートに向かった部長だったのだが……
「幸村〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「あ、ブン太? 練習のメニューは何処まで…」
 全速力でこちらに駆けて来る三年生のレギュラーに、幸村が練習の進行具合を問いかけようとすると…

「おさげちゃん、いなくなるってホント!!??」

 思い切り良く先制された。
「……」
 気付かせまいと心に決めた決意が、早速粉々に打ち砕かれて心の奥の海溝に沈んでいく…
 立ち尽くす幸村の周りに、他のレギュラーもぞろぞろと集まってきて、
「聞いたぞ精市、竜崎の話は本当なのか?」
「困ったことだ。俺の作成した練習メニューの予定が無駄になる」
「そんな事より、来なくなるってのが大問題だぞ!?」
「彼女がこの国からいなくなるというのは、想像も出来ませんね…そうなると会うことすら難しくなります」
「幸村部長! 何で止めなかったッスか!? ただの交換留学なら別の奴にでも行かせりゃいいんスよ!!」
「……」
 最早、誤魔化すことも取り繕うことも無駄なレベルにまで話は筒抜けになっているらしい。
 幸村は無言で、こちらに背を向けて口笛を吹いている銀髪の裏切り者の肩をむんずと掴んだ。
「に・お・う…ここだけの話にしてくれって言ったよねぇ、俺…」
「問われはしたが、『はい』とは言っとらん。それに立海(ここ)だけの話なら、別にええじゃろ」
「……」
 内心『こんちくしょう』と思ったものの、この人物に口争いを挑むのは骨折り損だということもよく知っている。
 それにもし勝ったとしても、他のレギュラーの頭の中から、桜乃の留学話の記憶が消え去る訳でもない。
「……全く…」
 疲れた表情で相手から手を離した幸村に、丸井が元気良く反対の声を上げた。
「阻止だぃ阻止っ!! 絶対反対!! おさげちゃんが他のトコ行くなんてやだ!!」
「ブン太、無理言うものじゃないよ。彼女には彼女の生き方があるんだ」
「やだったらやだ!! ちゃんと面倒見るしさ、その話は取り消せって〜〜!」
「犬や猫じゃないんだから…」
「うう〜〜〜」
 どうしようもない事とは分かっていながらも、どうしても納得は出来ないのか、丸井は憤懣やるかたなしという表情も露だった。
「しかし一年とは…長いな」
 ふぅと息を吐き出しながら呟く真田も、何となくいつもの覇気がない。
「別にプロになる訳ではないのだろう? わざわざアメリカにまで行くのは何かメリットがあってのことか?」
「いや、別に…元々は向こうの学校からその話が舞い込んできたらしい。で、希望者が上級生にいなかったから、一年生も候補に入ったらしくて…」
 柳の客観的な質問に、幸村は自分が知っている範囲内での情報を与え、それに対して後輩が異議を唱えた。
「話そのものが無くなるって選択肢は無いんスね…そこまでいったら殆ど強制収容じゃないッスか?」
「そこはまぁ、大人の世界の話じゃからのう」
 切原は元気なくはぁ〜っと息を吐くばかりであり、ぼそっと不満を漏らす。
「潰れねぇかなその話…いっそウチに来ればいいのにさ」
「そりゃあ無茶ってもんだろう…確かにアメリカに行くよりは距離も近いし利点もあるが…青学から離れる理由ってのが今度は無いぞ」
 同じ日本な訳だし…というジャッカルに、へいへいと言いながらも後輩はむすっとしたままだ。
「有名進学校という点ではウチも利点は大いにありますけれどね…大学まで或る程度の学力さえ保てたらエスカレーター式で行けるというのも強みです。他の大学に行きたいという希望が特になければの話ですが」
「…何で赤也が合格出来たんじゃ」
「そこは立海の七不思議ということで」
「アンタら何気に失礼ッスよ」
 むかっと交差点マークを浮かべて後輩が指摘したが、相手のダブルスペアは全く聞いていない。
「しかし、現実になったらちょっとマズイのう…」
「どうかしましたか? 仁王君」
「いや…折角、可愛くて弄り甲斐のある子が来たんじゃ。もっと遊んでやろうと思っとったが…」
「要らん世話だと言うでしょうね、アチラは」
 それからもぶーぶーと何気に賑やかだったレギュラーを、幸村がぱんぱんと手を叩いて注目させ、再び練習へと向かわせた。
「はい、おしゃべりはそのぐらいにしよう。心配なのは確かだけど、俺達まで浮ついていたんじゃ彼女に合わせる顔もないだろう。練習、練習」



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