「絶対に嫌っ!!」
それから数日後の夜…
桜乃は初めて交換留学の話を祖母より聞かされていた。
「おやおや、珍しく強い自己主張だねぇ」
「絶対に行かない行かない行かな―――――いっ!!」
「はいはい」
ぶんぶんとおさげを振り回しながら、桜乃は祖母の提案に断固反対の意思表示をしたが、案外あっさりと敵方は引っ込んだ。
「分かったよ、お前がそんなに嫌がるなら、強制はしない」
「…ホント?」
「ああ、何故か今になって希望者も出て来ているからね…やはり希望がある人間が行くのが筋だから、お前には一応、念の為に確認したのさ」
「何だ、良かった……」
ほっと胸を撫で下ろす少女に、祖母は何だいと可笑しそうに笑う。
「孫が嫌がることをわざわざやらせるもんかい…ま、もう少し外を知ってほしいというのも正直な願いだけどね…」
「おばあちゃん?」
「お前はずっと小さい頃から引っ込み思案で、家の中で遊ぶ事が多かったからね…最近はテニスを知って、少しは外へ目を向けてくれるようになったが…中学生ではまだ早過ぎると言う人もいるが、もっと自分の希望ややりたい事に貪欲になって、外を知ってほしいというのも正直な願いさ」
「…本当にそう思ってくれてるの?」
「ああ、勿論」
「……」
「どうしたね、桜乃」
急に無言になって俯いた桜乃に、不思議そうに祖母が声を掛ける。
それでも暫くは無言だった孫は、遂に意を決した様に顔を上げた。
「お、おばあちゃん! 私、お願いがあるの。ずっと考えていたお願い…我侭って言われるかもしれないけど、聞いてほしいの!」
冬の訪れも近くなった或る日の立海大附属中学…
「最近、竜崎の姿を見ないな」
「そうだね…」
ぼんやりと窓から空を見上げながら、真田が呟いた言葉に、窓枠に置いた腕に顎を乗せた幸村が応じた。
応じた後に、ふと気付いて笑う。
「ふふ…やっぱり弦一郎も寂しいんだ?」
「べ…別に寂しいという訳ではない! 俺はその…俺達が折角あそこまで育てた人材を、他の処で錆びさせられるのは、我慢ならんだけだ」
「別に、錆びるのは決定事項じゃないだろう?」
「…俺は、ここでのアイツに対する教育には自信があった。何処にも負けない程のな…おそらく蓮二もそうだろうし…お前もその筈だ、精市」
「…幼馴染っていうのは、こんな時は厄介だよね」
お見通しか…と薄く笑う親友に、どうしたものかという表情を浮かべた真田は、少し惑いながらも問い掛けた。
「お前には…お前にも、竜崎からは何の連絡もないのか?」
「うん…少し自惚れていたみたいだ、俺も…」
ふぅ、と微かに吐き出される息に力は無い。
相手の心中を思い、真田は聞くべきではなかったかと少し後悔した。
仁王から例の話を聞いてから、まるでそれが合図だったように桜乃から一切の連絡が無くなってしまったのだ。
今までは、週に一回は彼女はここを訪れ、みんなに混じりながらテニスについて語ったり笑ったり…練習は厳しくても、実りの多い時間だったことは確かだ。
だから、もしあれから彼女が祖母から留学の話を聞いた時に、彼女は自分達を頼ってくれるのではないかと期待していた、心の何処かで…
行くべきなのかそうではないのか…何らかのアドバイスを求めてくれるのではないかと。
しかし、彼女からはそれ以来、訪問どころか電話すらもない。
一人で考えなくてはならないという意志の表れであるのなら、自分達が口を出す訳にもいかない…だから、こちらから連絡を取るという事も憚られた。
人に頼らず自立を…と普段から言っている副部長も、今回ばかりは心の隙間に寂しさを抱えているようだった。
更に問題はそれだけではなかった。
「…竜崎は、俺が思っていた以上にウチの部に馴染んでいたのだな。あれから部員達の成績が、蓮二の思惑より大幅に下回っているらしい…レギュラーはかろうじて維持してはいるが」
コートの脇でちょこまかと動いて練習に励む他校の生徒は、目障りな存在として認識されているのかと思いきや、意外にもみんなには良い意味で受け入れられていたようだ。
その彼女がいきなりいなくなったということで、部の活動全体にも影響が出始めていた。
「…マネージャーにでもしておけば良かったかな。抜けられないように」
「まあ、我が立海の生徒であれば考えないでもなかったが…他校では不可能な話だな。だが、お前の気持ちも分かるぞ、精市」
「ふふ、彼女なら、きっとウチの制服も似合っていたと思うよ? ブレザーを着て、いつもみたいに廊下を小走りで走る姿が目に浮か…」
言いながら教室の外の廊下を指差して目を向ける幸村に倣い、真田もその視線を追った…ところに、
たたたーっ
「……」
「……」
見覚えのある長いおさげの少女が、立海の制服を着て、廊下を小走りで走っている姿が見えて、幸村が口を閉ざし、真田はしぱしぱと数回瞬きをしてからごしごしと目を擦った。
そして、ゆっくりと顔を見合わせる。
最初に声を出したのは、何となく顔色が青くなった幸村だった。
「……妄想を見るようになっちゃ、俺ももうお仕舞いかな……」
「いや、実は俺もさっき……」
どうしよう、病院に行った方がいいだろうか…と本気で悩んでいた二人に、いきなり声が掛けられる。
「あのう…」
「?」
「ん…」
声のする方へと目をやると、他の三年生の同級生達が注目する中で、一人の少女が二人の傍に寄っていた。
幸村はともかくとして、真田は女生徒達からは人気もあるが反面近寄り難いというイメージがあり、何かの用事でもなければ声を掛けられる事はない。
過去、特に何の用もなく話しかけたという勇気ある女性もいたらしいが、無駄な時間を浪費しないようにという彼の注意によって、仄かな恋心は哀れにも砕かれた。
だから、真田に女子が近づくことはとても珍しく、しかも間違いなくこのクラスの人間ではない生徒がいるという事もあって、周囲の生徒達全員の注目を集めていた。
「まさか…」
唖然とする幸村の表情もまた珍しく、隣で瞳を見開く真田の表情も、初めて見るというクラスメートが殆どだっただろう。
「…り、竜崎か!?」
真田の信じられないといった問い掛けに、少女はにこりと笑って頷いた。
「お久し振りです、幸村さん、真田さん」
「え…っ…ど、どうして、その格好…」
まだ状況が掴めていない二人の男に、桜乃は照れながら自分の服装を眺めてみる。
「似合いませんか?」
「い、いや…似合うが…どうして立海の制服をお前が…」
ちゃっかり服装を褒めている真田の言葉に周囲がざわっとざわめく中、桜乃はぺこんと礼をした。
「明日から、立海の生徒になりますからご挨拶に伺いました。今日はおばあちゃんと一緒に来ただけなんですけど」
『はい!?』
今度こそ、二人は大声を上げていた…
「つまり、留学を蹴ったついでに、今まで考えていた立海への転校を竜崎先生に申し出て、反対を押し切って来た、と」
「はい」
職員室での保護者同伴の上での最終確認を終えた桜乃は、それからテニス部部室へと顔を出していた。
時間は丁度昼休み。
幸村達から話を聞いたレギュラー達が参加しない訳が無く、そこには久し振りの桜乃との再会と、いきなり振って湧いた彼女の転校話に大喜びの彼らがいた。
「やったやったやった〜〜!!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて桜乃の転校を喜んでいる丸井の隣では、ジャッカルが心底驚いたという顔をしている。
「聞いた時はまさかと思ったが…その服を見たらもう信じるしかないな、いや、びっくりした!!」
「暫く音沙汰がありませんでしたから、随分心配していたんですよ。でも、今回の事は大歓迎です」
「すみませんでした」
柳生に謝る桜乃に、切原がひらっと手を振る。
「いーっていーって、でも本当によく許したよなぁ、竜崎先生…いくらアンタが反抗したからってさ」
真田に答えていた桜乃は、今度は切原の質問を受けてそれについての詳細を述べた。
「外に出ると言ってもここなら目も届く範囲だし、校風もいいし、スポーツも盛んだってことを主張してみました。でも、それでも渋られたので、ダイエットを兼ねたハンガーストライキを決行しまして…三日で落としました」
「死ぬぞ!?」
(女ってこういう時でもしたたかなんだな…)
ジャッカルが突っ込み、切原が妙なところで頷いている脇で、幸村が首を傾げて眉をひそめた。
「アメリカ行きが嫌なのはまぁ分かるとしても…校風や文武両道を行くなら青学だって同じ条件じゃないか。どうして君は立海に来たの?」
「…えーと、それは…」
ちょっと考えて…
「勿論、長い歴史に裏打ちされた実績と、『智育』、『体育』の完全な両立を目指したカリキュラムに、生徒の自由と自主性を重視した…」
「学長達に言ったような建前は言わないでいいよ?」
「皆さんと一緒にテニスをする為です」
迷わず即答…と言うより、最初のは本当に建前だったらしい。
しかし、レギュラーは彼女の最後の一言に酷く感動した。
じ―――――――――ん!!
「聞いた!? 聞いたジャッカル、今の言葉!!」
「おお聞いたとも!! いいよなぁ! これこそ良い後輩を持った先輩冥利に尽きるってもんだ!!」
「すまんかったッスね、悪い後輩で…けど、よく来てくれたよ、竜崎もさ」
感涙を流すジャッカルにけっと悪態をついた切原も、桜乃の言葉には素直に嬉しさを見せた。
「…本当にその理由で来たの?」
「はい、そうですよ」
再度尋ねた幸村に、桜乃は何の躊躇いもなく頷き、却って真田の方が彼女の下した決定に不安の色を見せた。
「流石に安易ではないか? 確かに切原はまだ二年生だが、俺達はもう三年だ。お前と同じ中学のコートではプレー出来なくなる」
「でも同じ立海なら、会う事は難しくありません。それに私が立海に来たら、皆さんは本当に私にとっての先輩になりますし…後輩が先輩に会いにいくのは、おかしくないでしょう?」
「それは…そうだが…」
正論と言えば正論の桜乃の主張にふむ、と柳も小さく唸る。
「大丈夫です、私、勉強も頑張りますから…! でも、テニスは、皆さんと一緒にしたいんです」
「…そう、なら丁度良い。俺も君に頼みたいことがあったんだ」
「え…?」
「…じゃあ、君にはウチのマネージャーになってもらうよ」
「え!!」
驚いたのは桜乃ばかりではなく、他のレギュラー一同も同じく声を上げた。
「マジ!?」
「いきなりだな、それは…」
全員の驚きの視線を受けながら、幸村は桜乃へ向けた視線を逸らさずに続けた。
「弦一郎が言った通り俺達はもう三年生だ、ここにいる時間は長くない…だから、俺達が残せるものを預かってくれる人が要るんだ。君は今まで俺が見てきて、十分に努力家で、頑張り屋だと思う。俺や弦一郎、蓮二が残すものを、短い期間だけど出来る限りで吸収してくれ。無論、最初からパーフェクトにやってほしいとは言わない。俺達がいる限りは出来るだけフォローする」
「は…はい」
「その代わりと言っては何だけど、君には引き続き、俺達がテニスを教えてあげる。全国的にトップクラスの俺達の指導なら、そんなに悪い取引じゃないと思うよ」
「…分かりました」
いきなりの大任に抜擢されたことで緊張感も露になった桜乃だが、こうなった以上は退かずにやり遂げる覚悟で引き受けた。
「良かった…じゃあ、明日から宜しくね」
「はい、宜しくお願いします!」
そこで一応は解散となり、桜乃は竜崎スミレの待つ職員室へと戻って行ったのだが、他のメンバーはそれからも部室に留まっていた。
「しかし、俺達も驚いたが、この時期によく転校なんてなぁ…」
「しかも一応ココ、私立だろ? 経済的にオッケーだったのか?」
「ま、あんだけ減額したらそんなに負担でもないじゃろ。寮の部屋も個室に当ててやったし」
『………・・』
ずっと無言だった仁王の発言に、全員が今度は口を閉ざす。
彼の今の発言の中に、色々な企みが含まれているような気がする…悪い意味で。
「…仁王、今の発言は……」
「あのお偉いさん方の黒い噂、本当だったんじゃなぁ」
真田の質問を途中で遮るように、仁王は呟く…しかしそれも或る意味一つの答えだ。
とんでもなく、不吉なものであることは確かだが。
「…それは一体…」
「いや別に。ただ、卒業生のOBの方々とか御立派な面々でも、知られたくない過去の話はあるんじゃなぁと思っただけよ」
ざあっと珍しく真田の顔面が青くなり、身体がぐらりとゆらめいた。
青くなる面々を無視して、仁王はちぇっと舌打ちまでしてみせた。
「何じゃ、竜崎が最初から蹴るんなら希望者の根回しは要らんかったな…余計な労力を使ったぜよ」
青学にまで魔の手を伸ばしてやがったか…
「こいつがあの子の先輩になっていいものか、俺は甚だ疑問に思うが…」
「そこは竜崎本人に覚悟してもらうしかないだろう」
真田の呟きに、柳は最早達観したような返事を返し、幸村も柳と同じ意見なのか苦笑するに留まった。
「…でも、これから面白くなりそうだ」
ここへ至る扉を開いたあの子が、これからどんな世界を見るのか…出来れば俺達も見てみたい。
立海の男子テニス部の新たな仲間が一人増えた、記念すべき日であった。
了
前へ
立海if編トップへ
サイトトップヘ