或る乙女の転校初日


 桜乃はその日、人生で二回目となる中学校への入学日を迎えた。
 最初の中学校は青学…そして今日は、立海へ初めて生徒として登校する日である。
 本来なら感慨深い日であるのだが、桜乃にとってはそんなにのんびりしたものではない。
「行ってきます!!」
 元気よく飛び出していくのは、今まで通りの自宅。
 実はまだ寮への引越しが行われていないため、暫くは自宅からの通学となるのだ。
 しかも、立海に入学する前に、彼女は大きな約束をした。
 約束した相手は立海の男子テニス部部長の幸村精市…その約束とは彼女がテニス部のマネージャーとなることだった。
 立海のテニス部は日本の中学テニス界でもトップクラスの実力で、非常に厳しいことでも有名である。
 無論、放課後のみでなく、朝の練習にも力を入れている。
 その朝の練習に参加する為に、桜乃は実家をかなり早い時間帯に出なければならなかったのだ。
「うわ〜、こんなに早く出てもギリギリ間に合うくらいかなぁ…」
 今まで何度も通っていただけあって、流石に路線などの乗り換えは慣れたものである。
 彼女が電車を使って最寄の駅に到着し、そこからてけてけと小走りで学校へと向かう間での事だった。
「おう、おはようさん」
「あ、仁王さん…じゃなくて、仁王先輩。お早うございます」
 呼びかけてきたのは、銀髪の若者、仁王雅治だった。
 鞄とテニスバッグを肩に掛けて、それでも軽々と足を運ぶ様は、流石に鍛え上げた若者の貫禄である。
 相手は、桜乃の言い直しに一瞬きょとんとした後、ああ、と納得した様子で頷いた。
「はは、そうか、そうなるんじゃな…まぁ、どっちでもええよ。それにしても早いの」
「ギリギリかと思いましたが、何とか間に合いそうです」
「…そうか、まだ引越しも済んでおらんのか。それなら尚更早く出て来たんじゃろ、よしよし」
 朝からいい子いい子と頭を撫でられて、眠気も吹き飛んだ桜乃は、それから成り行きのままに仁王と一緒に登校した。
 実は、仁王が女性と連れ立って歩くという光景は珍しく、彼を知る生徒達のちょっとした注目を引いていたのだが、仁王は向けられる視線に気付きつつも寧ろそれを楽しみながら歩き、桜乃については全く気付いていない様子だった。
 駅から立海の門をくぐり、二人がコートへ行くと、そこにはもうテニス部の三強を始めとするレギュラーが揃っていた…切原を除いて。
「あ、お早う仁王…やあ、竜崎さんも一緒だったんだ?」
「駅のところで偶然会っての」
「お早うございます、皆さん」
「うむ、時間に正しいことは良い事だ。常に己を律し、高めてゆく努力を怠るな」
「は、はい…が、頑張ります」
 早速、お説教を始めてしまった真田に対し、幸村が首を振って笑う。
「弦一郎、最初からそんなに厳しくしたら駄目だよ。竜崎さん、まだ転校したばかりだから色々忙しいこともあるだろうけど、分からない事があったら何でも聞いてくれていいよ。俺達はもう、君の先輩に当たる訳だからね」
「はい」
 幸村に続き、柳生もその言葉に同意を示すように頷く。
「青学の一年の授業が何処まで進んでいるのかは私も存じませんが、もし追いついていないところがあった場合にはいつでも声を掛けて下さいね」
 この人に分からない問題など、あるのだろうか…と思いながらも、桜乃は素直に礼を述べた。
「有難うございます。お世話をかけるかもしれませんが…」
「いえいえ、お安い御用ですよ」
 流石、紳士と呼ばれる男である。
 その脇では、今ひとつ勉強に自信が持てない組の男達がうーむと唸っていた。
「俺は頭を使うより身体を動かす方が得意だからなぁ…かと言って、竜崎が俺と同じ体質という訳でもないし…ま、力仕事がある時はいつでも呼んでくれよ」
 ははは、と笑うジャッカルを押し退けて、今度は丸井が自分を指差した。
「美味いトコなら知ってるから、それは俺に任せて。あとは学食のオススメメニューかな」
「あはは…結構そういう情報も役立ちますよね」
「余ったら俺が引き受けるし!」
「…そっちですね、本当の目的は」
「こら、ブン太」
 こつんと彼の頭を軽く小突いて、幸村が笑い、竜崎へと向き直る。
「じゃ、そろそろ練習に入ろうか。竜崎さんは朝練を見るのは初めてだったよね、今日は取り敢えず蓮二に付いて、大体の流れを教えてもらって。蓮二、宜しくね」
「うむ…では竜崎、最初の心得を言っておこう」
「はい? 早速ですか?」
「そうだ、朝練ではとにかく…」

「赤也――――――――っ!!!」
「わ――――――っ!! 副部長、勘弁っ!!」

 突然、遠くから怒声が響き渡り、桜乃は思わず肩を竦めつつ目を閉じた。
「え…?」
 見ると、いつの間にか遠くに移動していた真田が、遅刻してきた切原の襟首をむんずと掴んで確保していた。
 一体、いつの間に…
「…赤也の遅刻癖に慣れる事と、彼の悪癖を是正することに尽きる。弦一郎の様に、というのは難しいかもしれんが、ヤツの行動パターンは、ある程度は把握しておけ」
「…ですか」
「うむ」
 やはり立海男子テニス部の鬼門は、あの二年生エースなのか…と桜乃は納得しながらも心が沈んだ。
(いい人なのに、自分で自分の首絞めてるんだもん…)
 まぁ、先ずは部員の名前を覚えることからだな…と言いながら、柳はそれから朝練の間中、桜乃を後ろに連れて、部員達の間を巡り歩いていった。
 人数も多い立海テニス部なので、これも結構な仕事である。
 そんなこんなで朝練終了…
『お疲れ様でしたーっ!!』
 一同の礼が終わると、みんながそれぞれ解散してゆき、教室へと向かっていく。
「お疲れ様でした、切原先輩」
「んあ? お、竜崎、来てたのか」
 切原が近づいてきた彼女に軽く手を上げて笑う。
 彼女と今まで接点が持てなかったのは、当然、遅刻の罰として、ずーっと真田の監視下に置かれていたからであった。
「はい、ご挨拶が遅れましたが…」
「彼女はお前より遠方であるにも関わらず、しっかりと時間通りに来ていたぞ。お前もいい加減、少しは上級生としての自覚を持て!」
 またも追っかけてくる真田の厳しい言葉に、うひゃ〜っと首を竦めた切原だが、その説教がどこまで効果があるのかは全く不明。
「…っと、とにかく、まあ宜しくな。しかしアンタ…」
 改めて桜乃をまじまじと見た二年生は、へぇ〜っと感心した様に頷いた。
「ウチの制服、ホントに似合ってんな。前のも良かったけど…」
「そ、そうですか?」
 女の子らしく気にしていた所を褒められて、桜乃は何となく安心して笑った。
 良かった、おかしくないみたい…
「えへへ…良かった、馴染んでいるならそんなに目立ちませんよね。転校して下手に目立ってたりすると、いじめられちゃったりするかもって…」

『……』

 無論、そんな事を本気で言った訳ではなかった少女だったが、その一言で周囲のレギュラー達の纏うオーラが一気に黒くなった…気がした。
 みんな、笑顔は絶やしていないのだが、心の中で危うい意志が生まれた様な……
「…竜崎さん」
「はっ…はい?」
 優しく呼びかけてきた幸村が、にっこりと笑いながら桜乃に念を押した。
「何か困ったことがあったら、いつでも俺達に相談するんだよ?」
「…はい」
 そうは言われても、相談した後の事が恐い…
 いじめた人達…無事でいられるだろうか…?
(私がその人達を守らなきゃ!!)
 心優しい少女は、自分よりもいじめっ子達の安否を気遣い、そんな決心を心に誓った。
「…竜崎?」
「あ、はい、何ですか? 仁王先輩…」
「ちょっとこっちに…」
 ちょいちょいと自分の方へ手招きして相手を傍に寄らせると、仁王は桜乃の耳元に唇を寄せた。
「じゃあ、俺がお前さんにとっておきのテクを伝授しちゃる…まずな、挨拶の時…」
「はぁ…」

 それから暫く仁王から細かく指導を受けた桜乃は、今日から自分が身を置くことになる教室へと、担任と一緒に向かっていた。
「最初に簡単な挨拶をしてもらいましょうか。あまり固くならないで、気を楽にして下さい」
「はい…」
 廊下でそんな簡単な会話を交わしている間にも、教室の中ではやってくる転入生について生徒達が騒いでいた。
「なあ、知ってるか? 今日来る転入生って、青学から来るってさ」
「あ、知ってる。男子テニス部でも有名な子なんだって」
「でも女子だって聞いてたけど…」
「何でも、テニスの見学に通ってて、レギュラーにも顔パスの状態なんだと」
「マジ!? でもあの真田先輩も黙らせるなんて、どんな怪力女だよ!」
「いや、それがその子って…」
 立海でも一部の生徒には人気の桜乃だったが、どうやらこのクラスに彼女を知る人間はいなかったらしい。
 そんな噂話に花が咲いていた時、がらっと扉が開き、担任と転入生の竜崎が入室する。
 瞬間、全員が一気に沈黙した。
(嘘だろ…)
 予想とは遥かに異なる彼女の外見に、男女の別なくみんなが一様に驚いた。
(まともだ!!)
(普通の子だ!!)
(あの部のレギュラーに関わってまともな人間って、初めてじゃないか!?)
 ざわざわとざわめく生徒達を静かにさせると、担任は竜崎を教壇の前に立たせた。
「みんなにも前から話していた通り、今日からここで一緒に学ぶことになった竜崎桜乃さんだ。慣れない事も多いと思うので、みんな、協力して彼女が早くこの学校に馴染めるように助けてあげなさい。じゃあ、竜崎さん、挨拶を…」
「は、はい…今日から一緒に学ばせて頂きます竜崎です…」
 最初から考えていた挨拶を述べながら、桜乃は仁王のアドバイスを思い出していた。
(えーと、前もって貰った目薬を注した状態で、首を傾げて…)
 潤んだ瞳の漆黒の印象も強く、はにかみながら微笑んで締め括りの一言。
「皆さん…どうかよろしく御指導下さい」
 きゅうーん…!!
 彼女の笑顔に、クラス全員の心が、激しく保護欲をかきたてられてしまった。
 実は、仁王のくれた目薬には多少の細工がしてあり、瞳孔が開く作用のある薬品が入っていたのである。
 その印象が割増した瞳で小首を傾げ、まるで甘えるような仕草の桜乃は…まさしく仔犬!!
 男女共に大いにウケた彼女の挨拶に、拍手喝采。
 いじめられるどころか、彼女はあっさりとクラスに受け入れられたのであった。
 但し…
(はうう…眩しくてチカチカするぅ〜〜。でも仁王さん、何処でこんな目薬手に入れて来たんだろ?)
 瞳孔が開いた弊害で光をより多く受けるため、桜乃は暫く視界が眩しくて授業に集中出来なかったが、何とか新入生ということで当てられることはなかった…



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