お兄ちゃん'Sは心配性
或る日曜日、その日の桜乃はいつにも増して元気だった。
「今日は宜しくお願いします!」
場所は立海の校区からも離れた関東圏の或る中学校のテニスコート。
今日は年に数回行われる、近郷のテニス部を集めたちょっとした大会に来ているのだ。
レギュラーメンバーにとってはもう慣れた行事かもしれないが、桜乃にとっては何もかもが新しい経験だった。
「竜崎さんにとっては、初めての練習試合だね。初めてとは言え、君の仕事には責任をもって行動してほしい…分かっているとは思うけど、宜しく」
「頑張ります!」
こくんと頷いて応えてくれた桜乃に、部長の幸村はベンチに座りながら優しく微笑んだ。
ここ暫く彼女は毎日部活動で柳の許に付き、マネージャーとしての役割を教育・指導されていた。
今日というイベントでは、その成果が試される…これが張り切らない訳がない。
「…とは言え、今日参加している学校で、少しは骨のある奴等は来ているのか?」
真田がちらっと柳へと視線を向け、相手はぱらりとノートを捲りつつ情報を提示する。
「残念ながら、青学とは対象地区が異なっているので彼らの参加はない…殆どは雑魚だが…フム、少しは楽しめそうなのが一校。山吹だ」
「山吹…千石か」
「阿久津は来ているのかぃ?」
「千石の参加は確認されているが、阿久津はどうやら不在のようだな…」
ジャッカル達の質問に返した柳に、切原がつまらなそうに唇を尖らせた。
「千石さんねぇ…それでもいいけど、一度阿久津さんともやってみたかったッスよ」
「お前さんと阿久津がやったら、先ず間違いなく流血デスマッチじゃの」
「最早テニスとも呼べませんね」
仁王達が茶々を入れている間に、桜乃はあらかたの荷物を所定の場所にセッティングし終わると、柳に声を掛けた。
「ちょっと、抜けてもいいですか?」
「ん? 何処へ…?」
「私の知らない学校が沢山来ているみたいなので、ちょっと興味があって。それに知っている方もいらっしゃるみたいだから、ご挨拶に…試合が始まる前には必ず戻ります」
「そうか…そう言えば、お前が転校してから初めての大会だからな。それを知らない奴も多いだろう」
「会場の中なら危険もそうないだろうから構わないが…一応は気をつけろ」
頷いた真田に続いて、柳は桜乃に許可を出した。
「一緒に付いてかなくていいかい? おさげちゃん」
「あは、大丈夫です。最初の試合は丸井さん達の出番ですよね? 今からしっかり準備しておいてもらわないと」
「おう! 準備ならバッチリさ。今日も余裕で勝ちに行くぜぃ!」
ぐっと親指を立てて笑う丸井に桜乃も朗らかな笑みを返すと、ベンチから離れて小走りに駆けて行く。
今から試合開始までは三十分程度…簡単な挨拶ならばすぐに戻るだろう。
「彼女は選手本人じゃないからそんなに親しい知り合いもそういないだろうし、すぐに戻るだろうね」
そう呟くと、幸村はすぅと視線を全員に向ける…いつもの朗らかなそれではない、部長としての厳しさを併せ持つ視線を。
「今回の大会における俺達の目的は、如何に短時間で試合を終わらせるかということにある。無駄な体力を使わず、且つ迅速に勝利する…当然だけど、並の強豪程度の記録じゃ話にならない。妥協はないものとして、みんな、頑張って」
全員が各自頷いて答えとしたのを見届けると、そのまま部長は参謀へと目を向けた。
「彼女も結構頑張っているみたいだけど…参謀から見るとどうだい? お眼鏡には適う?」
「テニスについてはまだ初心者だが、何しろ知識に対する吸収欲が凄い。確かに精市が言った通り、彼女のような人間を努力家と呼ぶのだろうな。何の基盤も無い今を語るのは無意味だが、今後どの様にあの力を活かすか、非常に興味深い」
普段は妹分として可愛がっている相手だが、立海のテニス部参謀としての彼はそういう贔屓目は用いず、あくまでも客観的見地から意見を述べる。
その彼をしてそう言わしめたことに、他のメンバーは一様に驚いた。
「すげー! 幸村、すげぇ子スカウトしたなぁ!!」
「ああ、立海に来た時点で早々に取っといて良かった」
丸井やジャッカルが喜ぶのを聞きながら、幸村本人も笑う。
「そう…環境が変わって少しは戸惑っていると思っていたけど、そんな暇もないのかな。でも、有意義な時間を過ごしてくれているなら良かった」
「…嬉しそうじゃのう、幸村」
にっと笑う詐欺師の隣では、紳士が眼鏡の縁に触れながら和やかな笑みを称えている。
「部長のみでなく、全員が竜崎さんを気に入っていますからね…仁王君も結構彼女の前では優しい顔をしていますよ」
「…優しいんじゃなくて気が抜けるんじゃ…叩いて鍛える素材でもないしの、赤也と違って」
「そーゆー素材の自覚はないッスけどね!」
そんな話をしている間に時間は過ぎ、試合前にはちゃんと約束を違えずに桜乃が戻って来た。
そして彼女にとって初めての、マネージャーとしての視点からの試合が始まったのだ……
最初の対戦相手を一ポイントも譲らずに危なげなく下し、二校目との戦いも終わってベンチで待機している間に太陽も天高く昇って来た。
「これまでのところはまぁまぁのタイムだな…さて、早く次の相手とまみえたいものだが。他校の試合運びはどうなっている? 竜崎」
「はい、柳先輩。Aコートではやっぱり山吹が危なげなく勝っていました、それぞれの試合の内訳は…」
柳と桜乃が結果の報告を話し合っている間、小休止中の丸井がコートの周囲の外野にも目をやり、少しげんなりとした顔を浮かべた。
「しっかし、試合の見学なのにカップルが多いな〜…どっかのデートスポットかよぃ」
「ちょっと知識かじった奴がカノジョにウンチク垂れたいんだろ」
「ジャッカル先輩、さりげなくやさぐれてるッスね」
「まぁ、放っときんしゃい。試合が終わったら自然と何処ぞに消えてくれるんじゃけ」
言いながら、仁王が牛乳パックのストローをちゅーっと吸っていたところに、柳との会話が丁度途切れた桜乃が割り込んできた。
「あ、私も知ってますよー。あの人達が試合の後でどうするのか」
「ん?」
ストローを咥えたまま仁王が桜乃へと振り向き、他のメンバーも彼女に注目する。
そして桜乃、にこっと笑って一言。
「皆さん、それからはどっかにシケコムって言うんですよね?」
ちゅど――――――――んっ!!!!
直後、立海のベンチにハルマゲドンが訪れた。
ベンチの背もたれに身体を預けていたジャッカルと丸井は、そのままベンチごと後方へとすっ転び、柳生は眼鏡の縁を押さえていた指に異常な圧をかけてビシッと見事なヒビを入れてしまった。
仁王はかろうじて桜乃からは顔を背けたものの、その先にいた切原に向かって思い切り牛乳を吹き出し、切原は桜乃の発言と仁王からの反則攻撃のダブルショックで暴走してしまう。
そして、柳は開眼に加えて開いていたマル秘ノートをばりっと引き破り、真田は殆ど無意識に突き出した拳で前のベンチの背もたれを見事に破壊…幸村に至っては…
「〜〜〜〜〜っ」
声も無く失神してベンチから崩れ落ちてしまった。
自分が引き金になってしまった事にも気付いていない桜乃の周囲で、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる。
『いっで〜〜〜〜〜っ!!!』
『モロに後頭部打った〜〜〜!! いででででっ!』
『な、何か今、一瞬視界が白くなってお花畑が見えた様な気がしましたが…あ、ヒビが』
『おお、目玉の赤と牛乳の白でめでたいのう』
『言い残したい事はそれだけッスか仁王センパ―――イッ!!!!(怒)』
『……精市の意識が完全に無い』
『うわ―――――――っ!! 精市、しっかりせんか――――――っ!!!』
『……(失神中)』
王者立海のベンチがカオスに陥っている様は、他校の生徒からも異質な物を見るような目で傍観されていた。
『AED持って来い!!』とか、『きゃあああ!! みなさんしっかりーっ!』という悲鳴が暫く飛び交い、それらが収束するまでにはたっぷり五分は掛かっただろう。
それでも何とか落ち着きを取り戻した立海のベンチで、桜乃は横になった幸村の額に濡れタオルを置きつつ早速メンバーから取り囲まれていた。
「竜崎…その…今の言葉は、どういう意味で言ったものだ」
「え…えと、男の人と女の人が、何処かに出掛ける意味なんじゃないですか…?」
いまだに彼女自身は、どれだけ自分が爆弾発言を行ったかという自覚がない様だ。
確かに…意味合いとしては誤ってはいないのだが……
腕組みをして目を伏せ、わなわなと震える真田は、本気の怒りを覚えながらもそれをぶつける場所を探しあぐねている様子だ…無理もないが。
「……」
「……」
取り囲んでいる内のジャッカルと丸井が、互いにちらっと目配せをした。
彼らの脳内では…
しけこむ…男女二人が主語として使用される場合のしけこむとは、ホテルや遊郭などにこっそり入り込むことを言う。
という思いっきり俗語の内容が浮かんでいた。
『ジャッカルが教えてやれよい!! テニス部一の常識人だろぃ!?』
『アホか! あんな純粋培養百パーセントの子にンなコト正直に教えたら、言ったショックで竜崎本人が身投げするわ!!』
肘で互いをつつき合いながら小声で言い合う二人の隣では、げんなりとした様子の仁王と、後ろを向いてスペアの眼鏡をきゅっきゅっと拭いている柳生がいた。
「牛乳、勿体無かったのう…」
「私の眼鏡の費用程ではないでしょう……と言うより、お互い、現実逃避はやめませんか」
『あ〜〜〜〜〜〜も〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!』
その向こうでは、仁王に派手に牛乳を吹きかけられてしまった切原が、水飲み場で思い切りよく洗った頭部をタオルでわしゃわしゃわしゃわしゃと一生懸命拭いており、とても発言する余裕などないらしい。
「…あのう、私、何か酷いことを言ってしまったんでしょうか…?」
ぎっくうっ!!
桜乃の言葉に、男達全員に嫌な緊張感が走った。
『そうです』なんて下手に言ってしまったら、その本当の意味を教えないといけないし、違うと言ったら、彼女がまた何処でその言葉を使ってしまうか分からないし…
さあどうしよう!
「あの…」
「竜崎」
「はい…?」
おどおどとしていた少女に声を掛けたのは柳だった。
「…その…しけこむというのはな」
こほん…と咳払いをした彼に、他メンバー全員の注目が集まった。
まさか…言ってしまうのか!?
「…それは不景気で気が滅入って家などに閉じこもることを言うのだ。つまり、彼らはここに来てもおそらく金銭面的に余裕がなく、またすぐに自宅などに戻らなければならないという大変気の毒な立場であることが推測される。若いうちは自由に出来る金も少ないので、確かにやむをえないところもあるだろうが、それをあからさまに口にしては彼らに対し気の毒且つ失礼だというものだ。だから竜崎、以後、その様な不埒…その、不適切な言葉は使用しない方が賢明だろう。自分の知らないところで相手に無礼を働くというのは、お前自身にとっても望まないものである筈だ」
「えっ!? そんな酷い意味だったんですか!?」
『グッジョブ柳――――――っ!!!!』
メンバー一同、心の中でぐっと親指を立てて参謀の知識に感謝した。
柳が言ったことは嘘ではない、確かにしけこむというのはそういう意味合いでも使われる。
しかし、その意味を上手く利用しながら、相手が二度とそういう俗用語を使用しないように持っていく様に仕向けるとは…流石教授!!
引き合いに出されたこの場のカップル達には申し訳ないが、貴重な人柱となってもらおう!
「知りませんでした…幸村先輩がこんなになってしまう程に無礼な言葉だったなんて…」
(いや、それは別の意味だったからね)
全員、心の中で突っ込むが、そこはぐっと心のみに堪える。
「分かったか? 竜崎」
「は、はい…迂闊でした。もう絶対に使いません」
彼女の誓いに、ほ〜っと全員が息を吐き出しているところに、真田がこそりと柳に言った。
「協力、感謝する」
「二度とやりたくはないがな…」
そして真田は次に、幸村にごめんなさいごめんなさいと詫びながらタオルを当てている桜乃に質問をした。
「で、竜崎…お前は何処からその言葉を学んだのだ? 何かの本か?」
「え? いいえ、それは…」
ひょっと顔を上げた桜乃は、首を振りながら正直に答えた。
「…あの…山吹中の千石さんから教えてもらいました。今日の挨拶に回っている時に…」
『あの野郎か〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!』
ぐわっと一気に怒りに火を注いだ彼らが山吹中のベンチの方角を睨み付けたのとほぼ同時に、がばっと幸村が跳ね起きて復活を果たす。
(お、復活した…)
(今の暴露で、怒りの攻撃対象がはっきりしたからな〜)
「幸村先輩っ! 良かった、気が付いて…!」
まさか怒りが原動力になっているとは露知らず、桜乃は純粋に彼の回復を喜び、そして心から詫びた。
「すみません! 知らなかったとは言え、私の不用意な発言で幸村先輩に凄いショックを…」
「…うん、大丈夫…竜崎さんは何も知らなかったんだ、気にしないで…それより、これからはその言葉、もう絶対に使っちゃ駄目だよ?」
「はい!」
桜乃に微笑み、その頭を撫でながら注意をした幸村はいつもと変わらない様子だったが、きっとその心の奥底には凄まじい怒りが燃え滾っているだろう事を想像し、メンバー達が心に冷や汗を流す。
そんな中で桜乃があっと思い出した様に顔を上げた。
「そうでした! 後で千石さんが私に会いに来るって言ってましたから、あの人にもその言葉の意味、教えてあげないと…」
「隔離――――――――っ!!」
もうこれ以上、彼女を汚されてなるものか!
有無を言わさず幸村が桜乃を指差して命令し、それに従ってジャッカルと丸井が桜乃を抱えてダッシュでベンチから連れ去ってゆく。
『きゃ〜〜〜〜っ!』と叫び声を残しながら、えっさ、ほいさと二人に拉致された桜乃が消えた後、残った男達は暫く無言だった。
「…蓮二」
「ん…?」
「…今日の竜崎さんの仕事はここまで。後は君のフォローに任せる」
「…了解」
柳に通告した後、幸村はゆっくりと立ち上がって真田に振り向いた…いつもの優しい顔で。
しかし、その美しい笑みの向こうに見える覇気に、真田ですらも心を震わせてしまった。
「弦一郎…」
「…何だ…」
「折角来たから俺もやっぱり少し遊んで行くよ……丁度、山吹あたりがいいよね…叩きのめして潰すのは」
(神様! 今だけここで弱音吐きますっ! 俺、この人には勝てないかもしれませんっ!!)
自分も『潰す』という台詞は使うが、この人の場合は本当に元に戻れない程にやられてしまいそうな気がする…と切原がぶるぶると身体を震わせた。
「…お気の毒に、山吹中の皆さん…」
「牛乳の恨みがあるからのう、同情なんぞしてやらん…つか、本当に竜崎、可愛がられとるのう」
確かに、お気に入りの可愛い子を、あんな女好きに好きにさせる訳もなかろうが…
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