桜乃が連れ去られたのは、別にいかがわしい場所でも何でもない、臨時で割り当てられていた大会会場のロッカールームの一室だった。
 そこから、先程から女子の嘆く声が聞こえ、通り過ぎる生徒達の注意を引きつけていた。
「いやぁ〜〜〜〜! もう出て行きます〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
「んな事言っても、部長の幸村の命令だからよぃ、諦めろって!」
「いやぁ〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
「わわわっ、し―――っ! し――――――っ!!」
 天下の立海の部員が一人の少女を宥めすかしている姿に、他校の生徒達が勝手な事を想像してはこそこそと囁きあっている。
『おい、立海の奴らだぜ? あの子、マネージャーか?』
『あんな我侭な子をマネージャーに据えるなんて、立海も何考えているんだか…』
 むっ…!
 少なからず失礼な発言に、丸井がぎろっと相手を睨みつけ、早々に追い払う。
「…ったく、何だぁ、アイツ」
「言わせとけ、一回戦で敗れた奴らの僻みだよ。口でやるのは口喧嘩、テニスじゃないし…それに…」
 そう言って、ジャッカルはめえめえと泣く桜乃を気の毒そうに見下ろした。
「ふええ〜〜〜、皆さんにジュースとかプロテインとか提供したい〜〜、スコアつけて試合見たい〜〜、マネージャーのお仕事ちゃんとしたい〜〜〜!」
「……一番正しいのは竜崎本人なんだから」
「…だよな…」
 我侭どころか、一番責任感を持って仕事をしようとしている彼女を隔離している自分達の方が悪者なのだ。
 しかし、流石に今回はその汚名を被ってでも、彼女をベンチに居座らせる訳にはいかなかった。
「…幼稚園に預けた子供が、汚い言葉を覚えて帰ってきて、ショックを受ける親の気持ちがよく分かったよ…この年で」
「やめてくれよぃ、俺まで目から汗が出そう…」
 切なさで胸が一杯になりそうなところに、仁王がそこに入って来た。
「おい、ぼちぼち行くぜよ」
「お、そうか」
 桜乃が非常に不満げな顔で自分を呼んでくれない仁王を見上げると、相手はやれやれと苦笑して彼女の頭を撫でた。
「あのな、竜崎。別にお前さんに意地悪しとる訳じゃないんよ。お前さんには、何かに備えてここで待機しとってほしいんじゃ」
「何かって…何ですか?」
「あー、じゃからほら、また幸村が倒れたりしたら困るじゃろ? お前さんの言葉だけで卒倒するぐらい、アイツはまだ具合が不安定なんじゃ…心配でのう」
 出たっ! 詐欺師のお得意『憂い顔』っ!!
「そんな…」
 ジャッカル達がさりげなく視線を逸らしている中、桜乃はまともに仁王の不安げな顔を信じてしまう。
「これからも試合は続くし、一度倒れてしまった幸村じゃから、念の為に大事を取りたい…けど、俺達は試合に出んといかん。ベンチでの介抱で済めばいいが、もしやしたらここに運んだほうが良い場合も考えられるし…となると頼れるのはお前さんだけじゃ、ここで大丈夫だと判断するまでは待機しとってくれんかの。暇なら少しだけ裏山の散歩ぐらいはええから。あそこならここの騒ぎもすぐ分かるし」
「う……わ、かりました。そういう事なら」
 自分がそれなりに役割をもらえるということであれば、と桜乃は納得した。
 とにかく、役立たずで終わることだけは嫌だったのだ。
「いい子じゃの、よしよし…じゃ、俺達は行って来るけ」
 にこ、と笑って、仁王はその場から丸井とジャッカルを連れて出て行った。
「…お見事」
「二度とごめんじゃよ」
「幸村はどうしてんだぃ?」
「ぴんぴんしとるよ。千石を殺しかねん勢いじゃ…」
 絶対に桜乃のお世話になどならないだろうな、と思いつつ、二人は仁王とベンチへと戻って行った。


 その千石は、まさか立海で自分の抹殺計画が進行しているとも知らず、呑気に桜乃に会いに彼らのベンチへと向かっていた。
「こんちわ〜。さっくのチャン、いるかな〜?」
「ああ、タオルを忘れました」

 がっす!!

「どわぁっ!!」
 立海側のベンチに足を踏み入れた途端、千石はいきなり背後からラケットによる痛恨の一撃を食らってしまった。
 いつの間にか背後にいた柳生が、肩に置いていたラケットで振り向きざまに相手の頭を強打したのだ。
「あ、これは大変失礼致しました。お怪我はありませんでしたか」
 不意の事故にも関わらず、あまり柳生は慌てる素振りもなく、淡々と応対している。
「い、いや…大丈夫だけど…キミ、いつからそこに…?」
「嫌ですね、先程からおりましたが」
 紳士然としている彼を離れた場所から見つつ、こそこそと戻ったばかりの丸井達が言葉を交わす。
『なんって見事ないやらしい手管!』
『俺、柳生があんな手使うの初めて見たっ!』
 トラブルに遭いながらも、千石はまだ全然内情を理解しておらず、きょろっと辺りを見回す。
「…えーと」
 桜乃の姿が見当たらない代わりに、ベンチに座っている銀髪の男の周囲の違和感に気付いた千石は、首を傾げる。
「…で、アソコで一升瓶前に置いてコップ酒あおってるのはドナタですか…?」
 無論、立海で銀髪と言えば一人しかいない訳だが…確か彼は自分と同じ中学生…
「仁王君ですよ」
「…いや、あの、一升瓶…」
「お気になさらず、中身は水ですから。何処かのいらんことしいの方の所為で、買ったばかりの牛乳が無駄になりまして、少々形だけでもやさぐれたいと」
「……」
 千石の微妙な視線に気付いているのかいないのか、仁王は相変わらずぐびぐびとコップから水をあおっている。
 余程、牛乳の一件が悔しかったのか、それともこれから起こる何かに備え、水を飲みつつ冷静を保ち、構えているのか……
 何だが、ココ…おかしくないか?
 ようやく異変に気付きつつある男は、取り敢えず、ここに来た本来の目的を果たしたら早々に退散するか、と決めた。
「あれ…桜乃チャンは?」

 ぎらぁっ!!

「へっ?」
 真田が帽子の下から威嚇するように千石を睨みつけ、ゆっくりと立ち上がると、千石へと歩み寄った。
「ウチの竜崎に何か用か? 千石…残念ながら席を外しているが?」
 ずおおおお…という効果音が非常に似合いそうな迫力…
 『何で部外者の貴様が「桜乃ちゃん」なんて馴れ馴れしく名前を呼ぶのだ。頭カチ割られたくなければふざけるのも大概にしろ』という脅迫の声が聞こえてきそうだ。
「いいいいい、いやいやいや、ちょっと挨拶に来たんだよね〜。まさか青学にいたカワイコちゃんが、立海に転校して、マネージャーになってるなんてさ! ウチにもカワイイ子が来てくれたら、少しは刺激的な日々が過ごせるかもしれないのに」
 そんな言葉をのたもうた千石に、ぽん、と背後から誰かが手を掛ける。
「なーんだ、刺激が欲しいんなら俺に言ってくれたらいいのに、千石サン…?」
「い?」
 振り向いたら、真っ赤な目の悪魔がにたりと笑ってこちらを見つめていた。
「のあっ!!」
 のけぞる千石の怯えた表情などまるで気にせず、切原がぺろっと舌なめずりをする。
「刺激が欲しいなら色々と取り揃えていますケド?…膝とか肘とか顔面とか…」

 潰す気だ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!

『…結局、目は戻らなかったんだな』
『元々、仁王が牛乳吹いたのもアイツが元凶だからな〜…』
 囁く丸井とジャッカルの二人はまだ平和的な思考の持ち主であるらしく、別に千石にちょっかいを出す素振りはない。
 切原から距離をおいた千石に、柳生は眼鏡に触れながら、相手に同意できるところは頷いた。
「まぁ、確かに竜崎さんは可愛いですから、注目する気持ちも分からないではありませんが」
「だよね〜、俺とカノジョがアツアツの仲になれば、ちょっとした噂になっちゃうかも〜〜」

(まだぬかすかコイツはっ!!)

 再びメンバーが心に無数の棘を生やした時、遂にあの男が動いた。
「…いやだなぁ、千石」
 ぽんっ…
「え…?」
 千石の肩に再び手が置かれ、また切原かと振り返ると…
「あり、幸村…?」
「やぁ、千石、久し振り…ところで、」
 にこり、と笑った幸村が、千石に首を傾げて挨拶しつつ、ぎちぎちぎちっ…と物凄い力で相手の肩を掴む。
「そんな三面記事みたいな内容より、『某中学テニス部男子、一週間イップスで苦しみぬいた挙句、悶絶死!』の方が、余程噂になれると思うよ…」
 幸村の優しい口調の台詞は千石どころか、その場の全員をイップスに陥れてしまいかねない恐ろしさだった。
 心の中では間違いなく、大激怒!!!!
「いぢぢぢぢっ!!!」
 すぐに幸村は手を離してくれたものの、まだ肩が痛む。
(ナニ!? 何なんだ、ココ!! 立海って、いつもこんなだったっけ…!?)
「…次は俺達との試合だな、千石、わざわざ挨拶に来てくれて感謝する。時にお前、紙と筆は持っているのか?」
 段々と身の危険を感じ始めた男に、参謀の柳がノートを抱えつつ尋ねた。
 手にしていたノートは幾つもの破られた箇所が痛々しくセロテープで留められている。
「は? 紙と筆…? な、何でそんなモノがいるのかな?」
「なに、持っていないのか? それは無用心だな、仕方ない、俺の懐紙と筆を貸してやる」
 質問に答えるより先に、参謀は相手に懐紙と筆を言葉の通り差し出すと、ふいっと背を向けて呟いた。
「…今生の別れになるかもしれんのに、遺書ぐらいは遺しておけ」

「あのチョット!! 今から一体ナニやるつもりなんだい君たちっ!!!」

「テニスに決まっているだろうが」
「何でテニスで遺書なんか必要あるのかってコトだよ!! どっかに戦争にでも行くワケじゃあるまいし、そういう物騒な…」
 たぱぱぱぱ〜〜〜〜っ
「……」
 訴える千石の頭上に仁王がコップで水を注ぎ落とすと、やけに鬼気迫った表情で眼前まで迫ってきた。
「お前さん、往生際が悪いのう…立海相手にするんなら覚悟を決めるのは当然じゃろうが。今更泣き言なぞ聞く耳持たんし、テンパる暇があったらさっさと責任持って死出の準備しときんしゃい」
「ええっ!? 俺!? 俺の所為!? 別に俺、君達に恨みを買うようなことは何も…」
 だばばばば〜〜〜〜っ
「わ――――っ!」
 今度は一升瓶の水を相手の頭に注ぎ落とし、更に迫る仁王の表情が恐くなる。
「虎の尾を踏んだ上に龍の逆鱗引っこ抜きまくっといてナニ抜かす。自覚がないんは勝手じゃが、お前さんのお陰でこっちも十分に恐い思いはしとるんじゃ。もし幸村が暴発したら抑えるんは俺達じゃぞ、どんだけ心臓に負担が掛かると思っとるんじゃ。せめて水でも飲んで気分だけでも酔わせんとやっとれんぜよ。骨拾ってやるだけでも情と思いんしゃい」
「骨〜〜〜〜〜っ!?」
 慄く千石の向こうで、ジャッカルと丸井がうんうんうんうんと物凄い勢いで仁王に同意していた。
 確かに、今の幸村の傍にいるだけでもかなり精神的に負担になっているのは間違いない。
 そー言えば俺達が控え室にいる間も、アイツを含めた他のメンバーはここにいたんだっけ。
『……道理で柳生とか他の面子が機嫌悪いワケだい。仁王もやさぐれるワケだよな…牛乳の恨みもあると思うけどさ』
『一升瓶はどうかと思うが…まぁ、役には立ったんじゃないか?』
 でも、どの道…ご愁傷様だな。


 それからの山吹中との試合については、深くは語るまい。
 取り敢えず、幸村達は桜乃の世話になるような体調不良を起こすこともなく、無事に相手方を完封して下した。
 それはもう凄まじい試合運びで、この時撮られた映像は、絶対に桜乃には見せられることはないだろう。
 その桜乃は……
「あ、お帰りなさーい」
「あー、終わった終わった」
 少しは溜飲が下がったのか、さっぱりとした表情でメンバー達が戻ってきたのを笑顔で出迎えた。
「無事に終わったみたいで良かったです」
「うん、心配かけてごめんね」
 晴れやかな顔で桜乃に答えた部長が、実際、コートで心配されるような様子であったかは誰も語らなかった。
「…すまなかったな、竜崎。マネージャーとして初仕事だったのに、結局後半は俺が取り仕切ってしまった」
「次こそ、お前にも頑張ってもらいたいものだな」
 柳と真田が少女に詫びたが、意外にも相手は当初ここに拉致された時と比べて機嫌が良かった。
「いいえ〜、私もそれなりに少しは役に立つことを出来たので」
「? 何かあったかの」
「じゃーん」
 桜乃が誇らしげに見せたのは、手持ちの鞄にぎっしりと詰められた山菜の山だった。
「裏山の散歩で近所の人に会って、教えてもらいました〜〜! 天ぷらにして、みんなで頂きましょう」

(すげえ!!)

 何処までいっても、何があっても、あくまでも前向きな娘にメンバー一同が感嘆した。
『凄い才能ですね、やはり彼女が立海に来てくれたのは正解でした』
 こそっと柳生が呟くと、切原もそれに頷いて同意…もう目は元に戻っている。
『ってか、転んでもタダでは起きない性格…或る意味ウチにぴったりッスね…けど』
 しかし、切原を始めとするメンバー達は、桜乃を手放しで褒めている三強の様子を見つめつつ、別の心配事が増えた事実も噛み締めていた。

(俺達が言える台詞じゃないけど…マジで嫁に行けなくなるんじゃないか、あの状態じゃあ)






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