美味しい春
その日は立海のテニス部活動もない、完全フリーの休日。
桜乃は久し振りに思い切り羽を伸ばし、街を巡って買い物を思うままに楽しんでいた。
中学生という立場と現在寮で一人暮らしという環境もあり、決して自由に出来るお金の額は多くはないが、元々贅沢というものを知らない彼女にとっては然程問題になる事はない。
世は既に春が訪れ、冬の寒さも懐かしいものとなりつつあった。
「はぁ…あったかーい…もうすっかり春だなぁ」
ぽかぽかとした陽気を感じながら、桜乃が街の中を歩いて行くと、商店街の飾りに桜の枝をあしらったものが目に付いた。
「そっか…桜かぁ…まだ本物が咲くにはちょっと早いけど…」
桜と言えば、自分の名前にもその一字が入っている。
桜が好きな自分にとっては嬉しいことだ。
だから、この季節になるとどうしても心が浮き立ってしまう…
「そう言えば、春になるとウチでよく桜餅とか作ったなぁ…材料も少なくて済むし、結構簡単に出来るし、美味しいし…」
そんな事を思っていた桜乃の足がぴたりと止まり、彼女は通りかかった店の貼り紙を仰ぎ見た。
『本日、グロサリー特価フェア』
「……」
非常に心惹かれる文字である。
掘り出し物があったら、これを機会に買っておこうと、少女は店の中に入って行った。
その夜…
「やばいなぁ…止まらなくなっちゃった…」
困った困ったと言いながら、桜乃はキッチンに立って餡玉をこねこねこねと作っていた。
昼に立ち寄った店は非常に良心的な売り物が多く、結局桜乃は多くの食材を買い込んでいた。
中でも目を惹かれたのが和菓子材料特集。
この季節に桜餅は如何でしょう、などといった誘い文句が踊り、丁度その菓子について考えていた少女にとっては止めの一言になってしまったのである。
買いこんだ白玉粉、薄力粉、砂糖、食紅、他も諸々…
寮の一室に戻って材料を開いたのが既に夕方近くだったが、どうしても作成欲には勝てず、夜になっても尚、桜乃は桜餅作りに精を出していた。
餡は小倉餡と桜餡の二種類を買ってみた。
餅の生地を作り、フライパンで次々と焼き上げ、餡を挟んで桜の葉っぱで巻いていく。
(やばい、楽し〜〜〜。もしかして私、ちょっとストレス溜まってたのかなぁ)
元々がお菓子作りが趣味の彼女だが、ストレスや疲れがある時には特にお菓子作りをしたくなる衝動が生じるらしい。
今まさにその衝動に突き動かされながら、彼女は一心に桜餅作りを続けていた。
「味は…うん、大丈夫大丈夫」
既に十や二十では済まない数の餅が焼き上がっていたが、桜乃の腕はそれからもずっと勤勉に動き続けていた……
翌朝…
「おはよう」
「おはようございまーす」
立海大附属中学 男子テニス部の朝は早い。
月曜日はレギュラーが揃ってのミーティングから始まるのだが、マネージャーでもある桜乃は誰よりも早く部室を訪れ、軽い部屋の掃除を行ってから彼らを迎える習慣になっていた。
今日もレギュラーで一番に入って来たのは部長の幸村である。
テニス部を牽引するに相応しい実力と、人を惹き付けるカリスマに溢れた男性は、いつもの様に朗らかな笑顔を浮かべて部室に入って来た。
「いつも早いね」
「寮が近いですから、そんなに大したことじゃないですよ。あ、今、お茶煎れますね」
「うん、有難う」
春になり、もうすぐ部長の幸村たち三年生は卒業となるが、この場所に深い思い入れのある彼らはこの時期になっても変わらず部活動に参加している。
全国大会が終了した時点で、彼らは本来は中学テニス部を引退となる筈だったのであるが、某二年生エースが駄々をこねまくって彼らを引き留めたのだった。
いつも怒鳴られたり鉄拳制裁を受けたりと、決して良い思い出ばかりではなかっただろうが、それでも彼は先輩達をギリギリまでここに留めておこうと躍起で、先輩達も特に断る理由もなく、それに乗じて今に至っている。
実は彼らが高校生になっても校舎が少し離れるだけで会おうと思えば会えるし、高校に上がっても全員がテニスを続けるのは決定事項。
しかも、まだ秘密ではあるが幸村達の裏の働きかけにより、今後、中・高校合同でのテニス練習も実現に向けて動いているので、実際はあまり大きな体勢の変化はないかもしれない。
それでも、今のこの日常を少しでも同じ形で留めておきたいと、彼らは同じ様に感じていた。
「竜崎さんが来てから、部室が綺麗になったって感じるね…俺もそれなりに気をつけてはいたけど、やっぱり女の子は違うな」
「そ、そんな事ないですよ。大した労働じゃないと思いますから…」
ぱたぱたと手を振って恐縮する後輩にくすりと笑った部長だったが、不意にその表情から笑みが消え、代わりに真剣な面持ちになると、ひょいっと桜乃の方へと身を乗り出した。
「…顔色が悪いよ? 竜崎さん」
「え…?」
「ちょっと、目の下に隈が出来てる…眠れなかったのかい?」
「あ、あー…」
思い当たる事は十分にあったらしく、桜乃は相手に言われて頬に手を当てると、視線を逸らせて暫く口篭ったが、やがてこくんと頷いた。
「ちょっと…昨日は寝不足になっちゃって…」
「何かあったのかい?」
「いえいえ、違うんですよ…実は…」
そう言うと、桜乃はごそごそとテーブルの下で何かを弄り、それをどんっとテーブル上へと思い切りよく置いた。
重箱…全部で十段ぐらいある。
「……なに?」
幸村が暫くしてから言葉を発したのは、どうやら頭の中でちょっとした混乱が生じてしまったからの様だった。
「桜餅です」
「桜餅…?」
復唱した幸村が、桜乃がかぱりと開けた蓋の向こうを覗くと…
「うわ…」
と一言だけ言って、中身をじっと凝視した。
桜色と白色、二色の桜餅がきっちり綺麗に並べられている。
十段全てがこれだとしたら、かなりの数だ。
しかしそれにしても……
「…美味しそうだね」
まるで売り物並みの美しさだ…と感動している男の隣で、桜乃はちょっと反省、と渋い顔をしている。
「春の陽気に乗せられて、ついつい昨日作り過ぎちゃったんです…もし良ければ皆さんにも食べてもらえたらと思って…如何ですか?」
「え? 全部くれるの?」
「はぁ、そのつもりで持って来ましたから…あふ」
本当に睡眠時間を削っての作品なのだろう。
珍しくあくびをしてしまった桜乃は、目を軽く擦りながら幸村に申し出た。
「…で、部室にこれを置かせてもらいたいんです。皆さん、御自由にお取り頂けたら…」
「それは全然構わないけど…本当に大丈夫?」
「あ、ミーティングが始まったらすぐに目は覚めますから……あー、でも今日はやっぱりちょっと失敗しました。お弁当を作る時間まで寝過ごしちゃったから…」
「え…?」
「今日は久し振りに学食ですねー…あ、じゃあこれ何処に置きましょうか」
今はまだ夏程の暑さではないけど、やはり出来るだけ冷暗所を選びたいという少女に、部長はちょっと考えた後で自分のロッカーを指差した。
「……そうだね、じゃあ、俺のロッカーの奥に入れておこうか。冷蔵庫は生憎、他の飲み物で塞がっているし、他の部員のロッカーは何かと混んでいるみたいだから」
「あ、助かります〜」
文句なく了承した桜乃に笑って頷くと、幸村がロッカーを開けて、空いている空間に彼女の重箱をよいしょと置いて再び扉を閉めた。
「…それと、悪いんだけど竜崎さん、朝の間はみんなにこの桜餅のことは伏せておいてくれる?」
「それは構いませんが…何故ですか?」
「……君は朝三暮四って諺を知ってるかな?」
いきなり国語の小テストみたいな質問を投げかけられ、桜乃は少し動揺しつつも自分の知っている知識を披露する。
「は、はい…確か、お猿さんが餌を朝に三つ、夕に四つ貰う場合は文句を言って、朝に四つ、夕に三つ貰う場合は満足したっていう…結果は同じでも目前の違いにこだわってそれが分からないっていう例え…でしたっけ」
「百点満点をあげるよ」
後輩の答えに満足そうに頷いた後、幸村はちょっと困った顔をしつつため息をついた。
「……もし、こんな美味しそうなモノがある、なんて今の時点で知られたら、間違いなく朝錬どころじゃなくなる部員がいるからね…誰とは言わないけど」
「……あー」
言葉を濁す相手の気持ちがよく分かり、桜乃が苦笑する。
確かに…そういう部員がいる…一応レギュラーなのに。
「後であげるって言っても、構わずに家捜しでもやりかねないから、ちょっと暫くは内緒にしておきたいんだ」
「気持ちはよく分かりますし、納得も出来るんですけど……お猿さんに例えられるのはちょっと気の毒な気がします」
「ふふ、俺も出来ればこんな例えはしたくないんだけどね。だってそうなると、部長の俺は必然的に猿山の大将じゃないか」
「やめて下さいよ、例えが酷すぎます〜」
想像したくない!と両手を振り回すマネージャーに部長が笑っていると、そこに他の部員達がぼちぼちと入室してきた。
「竜崎、相変わらず早いな。いいことだ」
「お早うございます、柳先輩。今日も宜しくお願いします」
「ああ、こちらこそ宜しく」
マネージャーとなった桜乃は、普段は参謀の柳につき従って行動する事が多くなった。
彼の持つ知識、培ってきた経験は膨大である。
その全てを脳細胞に刻み込む事は不可能だが、マネージャーとしてやるべき事や、知識の扱い方について、桜乃は一日一日を大切に、柳から多くの事を学ばせてもらおうと懸命に努力していた。
その意気やよし。
その人物が真剣に行っているか、形だけかを見抜くなど、柳にとっては容易いこと。
少女の真面目な姿勢は非常に好ましく、参謀として、彼も心から相手の気持ちに答えているのだ。
「いよいよ俺達の卒業も近づいてきた…お前にはしっかりと俺達の残せる物を受け継いで、次の世代へと繋ぐ為の手助けをしてほしいものだな」
入室して席につきながら、真田が副部長としての言葉を桜乃に投げかけると、相手は頷きながらもちょっと甘えるように小首を傾げて尋ねた。
「…困ったら、頼りに行ってもいいですか?」
「無論だ。中学は卒業しても、俺達がお前の先輩であるという事実は変わらん。何かあれば、いつでも俺達を頼れ」
「はい」
「ふふ…じゃあ、そろそろミーティングを始めようか。みんな、席についてくれる?」
そして、部長の呼びかけに応じたメンバーが各自の席に付いて、恒例のミーティングが始まったのである。
朝のミーティングで取り扱われる議題は様々だが、今日の主な案件は、次年度における備品や設置器具などの要望だった。
テニスは基本的にラケットとボール、そしてコートがあれば行う事は可能だが、腕を向上させる為には試合だけではなく、身体の各部の強化も必要である。
それはどの競技にも言えることなのだが。
「では、この件については次の部長会で検討を仰いでもらうことにする。以上で本日のミーティングでの決定事項は全てだが…他に何かあるか?」
進行役も務めていた柳の問いに、誰も異議がないことを確認して、その日のミーティングは終了した。
「結構な数の品を請求するんですね…全部通るんですか?」
「いや、流石にそれは無理だろうな。だが、こういう事で遠慮をしていると、何も希望がないと看做されて、結果として最低限必要なモノの確保も困難になってくる。多少は余分と思われるモノもある程度は希望し、そこからは駆け引きだ。他の部との兼ね合いもあるしな…」
桜乃の質問に柳が答えていると、その脇から仁王が口を挟んだ。
「あまりこっちが我を通すと、他所と角が立つこともあるんでな。ま、事前交渉やらも使って、上手く条件をこちら有利に持ってくるんじゃよ」
「…仁王さんも一枚噛んでるんですか?」
「それで俺達のトレーニング内容が変わるとあれば、そりゃあやり甲斐もあるってもんよ」
「成る程〜…他の部の方には不運でしたねぇ」
この三強に加えて、詐欺師までもが加わってしまうとは…まさしく無敵艦隊。
うんうんと頷いて桜乃が納得している時だった。
「あ、そうだ…悪いけどみんな、昼になったらまたここに集まってくれるかい?」
部長が全員に呼びかけ、それに対してみんなが一様に注目して首を傾げた。
「昼に? まだ何か議論する話題ってあったかぃ?」
「聞いてないッスけどね…」
丸井や切原がん?と眉をひそめて幸村を見遣ったが、相手はそれ以上は何も語るつもりはないのか、笑みを称えているだけだ。
「うん、ちょっとね…急いできて欲しいのと、時間が掛かりそうだから、みんな昼ご飯は持参してきた方がいい。そう難しい問題じゃないから構える必要は無いよ」
「んー…別に構わないけどな」
特に昼の用事もないことだし、とジャッカルが頷き、柳生もそれに続く。
「部長の招集ということであれば、構いませんよ」
誰も異論がない事を確認すると、幸村は今度は桜乃へと身体を向けた。
「竜崎さん?」
「はい?」
「君にも参加してほしいんだ。出来たら学食行く前に寄ってくれるかい?」
「はい、いいですよ?」
「じゃあ、そういう事で、みんな宜しくね」
そして、部長の不思議な頼みを以って、当日の朝錬は終了したのであった。
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