お兄ちゃん'Sの仇討ち(前編)
その日、いつもの様に桜乃は朝早く寮を出て学校へと向かっていた。
世間はまだまだ朝に目覚めたばかりの時間帯だが、彼女にとってはもう新たな一日はスタートしている。
立海大附属中学の男子テニス部マネージャーを務める彼女にとっては、朝練の参加も非常に重要な日課なのである。
非常に根が真面目な彼女は、いつも朝練でも一番乗りで、部員達を迎えている。
今日も無論、そうなる筈だった。
しかも、今日という日は彼女にとって、非常に重要な日でもあるのだ、それは…
「…えへへ」
自分の手にしている鞄を見下ろし、嬉しそうに笑う。
実は昨日ようやく、桜乃は一つのトレーニングメニューを完成させたばかりだった。
今、彼女はマネージャーとして参謀の柳に指示を仰ぎ、部員達のメニューを組み立てているのだが、それもいつまでも他人に頼ってばかりではいられない。
彼女は自分なりに考え、時間はかかったものの何とか自力でメニュー内容を組み立て、鞄の中のノートに記してみたのだ。
今日は、それを柳に見せようと心に決めているので、登校している今でも緊張している。
(褒められるまでにはいかないかもしれないけど…何とかこれでコツが掴めたらいいなぁ…それにしても柳先輩ってこんなメニューを幾つも作っているんだから、やっぱり凄い…)
はーっとため息をついて先輩の大きさを再認識していた桜乃は、それに集中していた所為で、背後から近づいてくる何かのエンジン音に気付かなかった。
いや、気付いてはいたのかもしれない…ただ、日常生活の中での生活音としてしか考えていなかったのかもしれない。
どちらにしろ、その時、事件は起こった…
エンジン音が自分のすぐ隣を抜けたと思った瞬間、桜乃の身体に物凄い力が一方的にかかり、彼女はそちらへと引っ張られた。
(え…っ!?)
何が起こったのかと思っている間にも更に身体は引っ張られ、それにつられる形で数歩を踏み出した桜乃は、ようやく自分の前を走る一台のスクーターに気が付いた。
革のジャケットを着た、ヘルメットを被った…多分男だ。
彼が、走りながら自分の鞄の取っ手を掴み、奪い取ろうとしているのが分かった。
ひったくり…!!
「ちょ…っ!」
『離して!』と叫ぶ前に、相手は鞄をもぎ取ろうと力を込めてそれを引く。
こういう時、抗えば却って自身の身に危険が及ぶことがある…だから、手放した方が寧ろ安全であるという防衛方法があることを、桜乃は知っていた。
いつもの事なら素直にそれに従っただろう。
しかし、今日に限っては…
「……っ!」
鞄の中にノートがある…部員のみんなのデータをまとめた大事なノート…!
柳先輩に見せなきゃ…これだけは、守らなきゃ…っ!
「だめっ!! 返して!!」
離すことを拒絶し、桜乃はぐ、と取っ手を掴む手に力を込める。
その時、向こうは一瞬だけこちらを見遣り…素直に鞄を返す…ことはなく、寧ろ激しい力を込めて鞄を引き寄せ、遂にそれを奪ってしまった。
しかも、事態はそれだけでは済まなかった。
「きゃ…!!」
向こうの力を腕越しに受け止めてしまった少女の小さな身体が、あっさりと宙に浮く。
(え…?)
晴れた空が視界に広がり…続けて地面が見えた。
ほんの数秒にも関わらず、まるでその何倍もの時間が自分の周りを通り抜けていったような感覚だったが、それは突然生じた痛みによって破られる。
身体の右側に走る衝撃…そして、
びし…っ…
嫌な音が…自分の右腕の中から聞こえた…いや、感じたのか?
「い…っ!」
続けて、腕の一箇所から波紋が広がるように痛みが広がってゆく。
焼けつくような、息を止めたくなる程の痛みで、実際桜乃は数秒、息を止めてしまう。
スクーターのエンジン音が遠ざかるのが聞こえていたが、彼女はもう追いかけることが出来なかった。
冷たい地面の感触が、頬と、右半身に伝わり、今自分が横になっていることが分かる。
あの時、振り解かれ、その勢いで身体が投げ出されてしまったのだ…
そして……
「い、た…っ!」
顔を歪め、胎児の様に身体を丸めて、小さく呻く。
朝も早いこの道路には車の姿も通行人の姿もまだまばらだ。
しかしここでようやく他の通行人が通りかかり、桜乃の異常な事態に陥っている姿を見つけ、駆け寄って来てくれた。
「君、大丈夫か!?」
「…鞄…」
それだけを何とか口にして、桜乃はくらりと世界が回るのを感じながら目を閉じた。
痛みと…不測の事態に巻き込まれてしまったショックで、脳が一時的に思考を放棄したのだ。
遠くなる意識の中、桜乃が考えていたのは、自身の怪我ではなく、奪われた鞄の中のノートだった。
どうしよう…あのノート…取られちゃった…
今日……見せるって、約束してたのに…
立海大附属中学テニスコート…
「…竜崎は?」
「まだ来ていないんだ、おかしいな」
いて当然の筈の人物の姿が見えないことに気付いた副部長の真田が、辺りを見回しながら部長の幸村に尋ねたが、相手の若者も眉をひそめて首を横に振った。
もしこれが切原相手だったら、『またアイツか』の一言で済まされ、大して大事にもならず、せいぜい真田が拳骨の準備をして済む話なのだが、相手が桜乃であれば話は違う。
これまで遅刻などまるで縁のなかった少女が、連絡の一つも寄越さずに朝練に参加しないなど、前代未聞のことだった。
「なぁなぁ幸村―、おさげちゃんは〜〜?」
「おかしいぞ、来ないって話は無かったよな?」
部の中で唯一の華が見えない事が気になるのか、他のメンバー達も自然と集まってきて、少女の名前を口にする。
「今日は俺にトレーニングメニューを見せると昨日、随分張り切っていたのだがな…」
柳がふむ、と顎に手を当てながら考え込む。
見方によっては約束をすっぽかされたことにもなるのだが、彼はそれについては全く気にしている様子は無く、ひたすらに彼女の身を案じている様だ。
「携帯で連絡を取ってみたらどうでしょうか」
「やってみたんじゃがのう…電源そのものが切られとるんよ。寮の電話も留守電になっとるし」
柳生の提案に、すぐに答えたのは詐欺師の仁王。
「いつもなら、携帯の電源だけは必ず入れているのにね…ちょっと、留守電やメールが入っていないか、見てくるよ。みんなはそのまま練習を続けてて」
部長である幸村が立ち上がり、部室に置いてある携帯を確認する為に歩いて行くのを、他のメンバー達は何となく気になる様子で見送った。
「風邪でもひいたのかなぁ、おさげちゃん」
「けど、だったらそれこそ連絡くれる筈だよなぁ…」
丸井やジャッカルがそんな事を言っている隣で、仁王が眉をひそめてぼそりと呟く。
「まさか…ちっこい身体じゃから車に轢かれたのに気付かれんで、何処かに…」
「仁王君っ!! そんな不吉なコト言うと絶交しますよ!!」
びしっと厳しく相棒の暴言を注意すると、柳生ははぁと気を取り直すように息を吐き出し眼鏡の縁に手を触れた。
「一人暮らしなだけに気になりますね…真田副部長、柳参謀、どうしましょうか」
「むぅ…確かに気になる…」
「昼までに姿が見えなければ、寮まで様子を見に行った方がいいだろうな。俺達の足ならば、午後の授業には十分間に合うだろう」
そんな話を皆が交わしている間に、部室に戻った幸村は自分の携帯電話を制服のポケットから取り出していた。
「ええと…」
さて確認を…というところで、実に良いタイミングで携帯の着信ランプが点灯を始める。
誰かからの電話が入った…発信元は…知らない番号…
「? もしもし?」
とりあえず出てみると、向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『あのっ……竜崎です』
「ああ、竜崎さん、良かった! 朝練に来てないから随分心配したんだよ、どうしたの? 一体…」
本人からの電話ということで、ひとまず安心した幸村は、彼女が来られなかった理由について当然尋ねてみた。
きっと彼女のことだ、それなりの理由があるのだろうと、厳しくも優しい部長は理解を示す。
果たして、返って来た言葉は…
『す、すみませんでした…あの、私、今警察にいますから、今日の朝練は参加出来そうにないんです…ごめんなさい…』
「ああ何だ、警察にいるの? それなら安心…」
約一秒後…
『みんな――――――――っ!! 大変―――――――――っ!!!!』
あの幸村が、物凄い大声で叫ぶというかつてない事態が生じていた……
同日、昼休みの保健室…
「竜崎さんっ!?」
「大丈夫か!? 竜崎っ!」
「怪我したんだって、おさげちゃんっ!!」
授業の合間である休憩時間…桜乃がようやく学校へ来たという報告を受けたレギュラーメンバーは揃って保健室へと特攻をかけ、少女を取り囲んでいた。
「…っ!」
相手を一目見た幸村が、ざ、と顔色を失くし、一瞬、その瞳が氷よりも冷たくなった。
他の部員達も、一様に睨むような恐い顔をする。
無論、桜乃に怒っているわけではない。
彼女の姿があまりに痛々しかった為、やり場のない怒りを覚えたが故の行動だった。
「…何と酷い事を」
眉をひそめた柳生は、きっと、眼鏡の向こうで痛ましい表情を称えていたに違いない。
桜乃は、保健室の椅子にちょこんと座っていた…右頬に白い保護布を貼り、右腕には明らかにギプスをはめられた姿で。
ひったくりに遭ったことはあの時の幸村との連絡で伝わっていたが、目の当たりにすると改めて、相手が酷い不運に見舞われてしまったのだという事実を認識させられてしまった。
彼女は朝、ひったくりに遭って怪我を負い、そのまま病院に運ばれたらしい。
携帯電話が通じなかったのは、病院に行った時に電源を落としていたからだった。
それから事情聴取の為に警察に行き…そしてここに至った。
「うわあああ、おさげちゃんっ!! 何だよぃ! こんな大怪我だったなんて…!」
丸井は、普段は子供っぽい素振りが目立つが、それでも男だ。
ちょっとやそっとの怪我では、そうそう泣いたり凹んだりしない。
しかし今、桜乃の姿を見た彼は、あまりの痛ましさに相手の左の腕に縋りつき、僅かに瞳を潤ませてさえいた。
「あ、皆さん…す、みません…私の所為で、お騒がせしてしまって…」
治療を受けて、少し疲れているのだろう…それに精神に受けたショックからもまだ完全には立ち直れてはいない筈だ。
それでも、尚もメンバー達へ謝罪する少女の姿は少なからず彼らの胸を痛めた。
何も悪くない…彼女は何も悪くない筈なのに…!
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