「こういう時ぐらい気を遣うのはやめんしゃい、竜崎…しかし、酷い目に遭ったのう」
詐欺師と呼ばれる銀髪の男は、彼女をねぎらうようにいつもより更に優しく頭を撫でた。
「ひったくりだと? 最っ低のクズ野郎だな!」
いつもなら、大抵のコトにも怒る事は滅多に無いジャッカルですら、この時ばかりは怒りを露にし、見えない犯人をそう罵っている。
「マジで血に染めてやりてー…ウチの竜崎によくもやりやがったな〜!」
切原は今にも暴走しかねない程に激昂していたが、何とか理性を総動員して赤目の衝動を抑え込んでいる様子だ。
彼は今日もまた朝錬で遅刻したのだが、来た時には他の皆が桜乃のトラブルを聞いていた真っ最中であり、どさくさに紛れてそれ程のお叱りを受ける事は無かった。
無論、そんな事を喜ぶより話を聞いた後の怒りの方が大きく、午前中の授業の間も彼はずっと不機嫌だったらしい。
「…最近、あの近辺で女や老人を狙って持ち物をひったくる輩がいるとは聞いていたが…夜でなく、人目の少ない早朝を狙うとはな…いずれにしろ、許される暴挙ではないが…」
あくまでも柳は物静かな態度でそんな言葉を呟いたが…心の中は同じ様に穏やかである筈が無い。
組まれていた腕が、自身も気付いていないのか、僅かに震えていた。
「おのれ…俺がそこにいたら、決してこんな愚行は許さなかったものを…!」
鬼の副部長の顔が、いつもより更に凄みを増している。
もし今朝、彼が言う様に桜乃の傍にいさえしたら、桜乃はまず間違いなく無事だっただろう…犯人の重傷は避けられなかっただろうが…
「…酷いね」
ぼそりと呟いた幸村が、そっと桜乃の頬に貼られていた保護布に触れ、悲しそうな顔をする。
「だ、大丈夫ですよ…手当てもしてもらったし…痛み止めも打ってもらいましたから…」
これ以上迷惑は掛けられないと少女が気丈に振舞う程に、その不運が気の毒で堪らない…
「ご、午後からはちゃんと授業にも出ますし、部活も参加しますから! あ…ち、ちょっと右手が不自由なので、お手伝いできることは少なくなってしまいますけど…でも、頑張りますから…!」
「竜崎さん」
「…っ」
呼びかけた幸村が、腰を屈め、桜乃と視線を合わせ…ぽんと頭に手を置きにこりと笑った。
「…辛かっただろうに、よく頑張ったね…偉かった」
「!……っ…〜〜〜〜!!」
何とか心配をかけさせまいと必死に張っていた糸が、相手の微笑でぶっつりと切られた。
それをまた更に取り繕える程に桜乃は強くない。
彼女は、心の隙をあっさりと突き崩され、はらはらと堪えていた涙を一気に零してしまった。
「…っ…うっ…う、うう〜〜〜〜〜っ…」
「大丈夫だよ…もう大丈夫…恐くないから、俺達がついてるから…」
謂われも無い酷い仕打を受けたショックから、少しでも遠ざけてやりたいと、幸村は小さな身体を優しく抱き締めて、よしよしと頭を撫でる。
「…めんなさいっ…ご、めんなさい……と、られちゃった…」
「…え?」
何の事…?
不思議な言葉に幸村だけでなく、他のメンバー達も怪訝そうな顔で互いを見る。
「…取られた…?」
「…ひっく…鞄の、中に…ノート……見せる…約束だった、のに…」
「トレーニングメニューの、か…?」
すぐに反応を返した柳だったが、彼はそんな事より桜乃の身体そのものを心配した、当然のことだ。
「そんなものは気にするな、今は怪我を治すことだけを考えろ」
労わりの言葉を受けても、桜乃はまだ、あの鞄を奪われた罪悪感に苛まれて、ひたすらに詫び続けた。
今自分が出来ることは、それしか、考えられなかった。
「こんな…こんな怪我は……平気…やっと、作ったのに…見せるって、約束したのに……ご、めんなさい、柳先輩…ごめんなさい、皆さん、ごめんなさい…!」
「竜崎さん、興奮しないで、身体に障る……!」
「やはり少し、横にさせた方がいいでしょう…丸井君、ベッドに寝かせますから布団の準備をお願い出来ますか?」
「分かったぃ!」
それから何とか泣き続ける桜乃を宥め、ベッドに寝かしつけ、彼らは時間の許す限り傍にいた。
横になった事で彼女の身体の休息のスイッチが入ったのだろう、それから然程時間が過ぎることもなく、少女はすぅっと眠りの中に落ちていった。
この怪我では、きっと学校からも、そのまま帰宅していいとは言われていた筈だ。
なのに、こんな身体を押してまで来たのか…自分達に詫びる為に……
骨を折られながら、それを『平気』と言うなんて……どれ程悔しかったのだろう?
「〜〜〜〜〜〜〜!!! ああああああ!! 何っだよコレ!! クズの分際でここまでムカつかせやがって〜〜〜〜!!!」
忍耐の糸が最初にブチ切れたのは、丸井だった。
そして続けて切原までもが拳を震わせて怒声を吐く。
「コロすっ!! マジでブッ潰すっ!! ひっでえコトしやがって、遺言書いて待ってやがれ!!」
どうしてくれようか、と怒り心頭の彼らを傍に、部長の幸村は暫く無言で眠る桜乃を見下ろしていたが、やがて顔を上げて参謀へと視線を向けた。
「蓮二…彼女のクラスの時間割、分かるよね」
「無論だ」
「可能なら、もう少し詳細な今後の計画も知りたいな…授業の内容とか」
「分かった」
「…さて、皆」
ぽん、と両手を叩いて、全員の注意を向けさせた幸村は、笑みを消し去った顔で全員を見渡し、言った。
「見ての通り、竜崎さんは暫く利き手が不自由だ。部活の時にも今までみたいに動く事は出来ないだろうから、出来る限りでフォローしてあげてくれる? 後は、日常生活の中でも彼女が困っていたらなるべく手を貸してあげて」
「当然だ」
副部長の真田が即座に代表として返事を返したが、誰も彼に異を唱えたりはせず、こくんと首を縦に振った。
「こりゃあ大変だな…もう竜崎がマネージャーとして動いている活動に慣れちまっているから、気を引き締めないとな…」
うん、と頷いてジャッカルが腹を括っている脇で、仁王が後輩に釘を刺す。
「赤也、少なくとも竜崎がこんな状態の間ぐらいは遅刻は止めとけよ。これ以上コイツの心労を増やすのはあんまりじゃろ…冗談抜きで倒れるぜよ」
「う…わ、分かったッス!」
そんな後輩が気合を入れている間に、幸村は柳を傍に寄せ、ひそひそと何かを小声で話しこんでいた。
そして翌日から…
「おっはよーございまーす!」
朝早く、さぁ出掛けようと思っていたところで、桜乃の部屋を切原が訪れていた。
かつてない事態に、無論、桜乃は大いに驚く。
いつもは遅刻常習犯である彼が、こんなに早く人の家を訪れるなんて…?
「どっ、どうしたんですか? 切原さん、何かあったんですか?」
「ん、今日から俺達、アンタと同伴して登校することにしたからさ。宜しくな!」
「はい…?」
「また何か変なヤツに襲われたりしたら大変だろって、幸村部長が提案して、全員一致で可決したんだ。因みに…」
そう言って、切原が差し出した一枚の紙には…
月曜日…仁王
火曜日…柳生
水曜日…切原
木曜日…丸井
金曜日…ジャッカル
土曜日…柳
日曜日…真田
と、書かれていた。
「日替わりスケジュールはこうなっております」
「……はぁ」
そんな事、いつの間に決まっていたんだろう…と思っている桜乃が、はた…とその紙を見てある事実に気付いた。
「幸村先輩は、やっぱり部長ですから忙しいみたいですね」
そう、この中には唯一部長の名前が記されていないのだった。
「ああそう、レギュラーが一人でも欠けるとその分の人手がいなくなるって事だからさ、けど部長、すっげぇ張り切ってたから任せてていいと思うぜ。あの人の指導力は正直、物凄いモンがあるから」
「でしょうねぇ…」
あの若者のカリスマの高さは、身近で見ているから十分に分かっている。
彼が本気になっているのであれば、心配は先ず不要だろう…
「…あ、いけませんね、ぐずぐずしてたら折角来て下さったのに遅刻です。行きましょうか、切原先輩」
「おう!」
そして、二人は揃って立海へと向かっていった。
無事にテニスコートに到着すると、既に来ていたレギュラー達が彼らを迎えた。
「おっ、おさげちゃん、おはよー」
「お早うございます、丸井先輩」
「今日から暫くは、コートの整備は俺達で持ち回りでやるからさ、おさげちゃんは気にしないで腕の治療に専念してくれよな!」
「あ…す、みません…」
「こらこら、そんな暗い顔をするなって」
やはり早速レギュラーに負担を掛けてしまった、と気に病む少女に、丸井の隣にいたジャッカルが仕方がないなと笑った。
「こういう時にはな、しっかり休むことも立派な仕事なんだ。俺の故郷のブラジルに『悪いことは、良い事の前兆だ』って諺がある。どんな時にも前向きにやってたら、そうそう不幸な結果にはならんさ」
「…はい、桑原先輩」
確かにその通りだ、と納得し、桜乃は沈みかけた気持ちを引き上げながら、きょろりと辺りを見回した。
「あ、真田先輩、お早うございます」
「うむ、竜崎、おはよう…腕はどうだ、痛むか?」
「大丈夫ですよ、今はちゃんと固定されていますから…捻れたり、変な折れ方をしていなかったのは不幸中の幸いでした……あれ? 幸村先輩は…」
「もうすぐ来るだろう。部活動の内容を少しばかり手直ししたいと言っていたから、今日は少し遅めになるかもしれん…アイツがいない時に何か相談事があれば、俺か蓮二に言ってくれ」
「分かりました…立ち止まってばかりもいられませんよね」
頑張らないと…と、桜乃は新しいノートを抱えてコートへと歩いて行った。
また新たに部員達の活動内容を見て、そこから得られる何かを吸収しようという彼女の姿勢は、部員達の目にも励みとなるだろう。
ともすれば、下手な女性であれば、目当ての男子を見たいが為にマネージャーの地位を利用しかねない。
だからこそ、幸村はこれまで決して女性をこの部に入れようとはしなかったが、唯一それを覆した存在が桜乃だった。
今、こういう場面にあって、あの男の選択は正しかったと心から思う。
力が無くても、技術が及ばなくても、前へ前へと進もうという気持ち…それは人を強くする。
そして人が成長するには、そういう生きた見本が必要になる時もある。
「おう、頑張っとるのー」
「見た目は痛々しいですが…あまりこちらが気にしてもいけませんからね。なるべく普段通りに接した方が彼女も気が楽でしょう」
「ああ…そうだな」
傍に来た仁王と柳生に頷きながら、真田は二人へと身体を向けた。
「精市ももうすぐ来ると思うが…何だ?」
「参謀は何処におるんかの…今日の予定を教えてもらいたいんじゃが…」
「ん? ああ…あそこだ、赤也と一緒にいる」
軽くコートを見回した真田が指差した向こうで、切原と柳が何かの書類を見ながら話し合っている。
相変わらず柳はその表情を全くと言っていい程に変えず、その代わりに切原がくるくると百面相の様に気持ちを顔に乗せていた。
どうやら柳は切原に何事かを指示している様だ。
「…学業の面では柳参謀に一任しても十分だとは思いますが、彼は他に部の活動内容も把握しなければいけませんからね…私で宜しければ力になります」
「うむ…頼んだぞ」
「俺は正攻法はあまり好かん…まぁ、ヤマかけるんは得意じゃから、それは任せてくれてええよ…っと、どうやら幸村が来たようじゃ」
「む…」
仁王が指差した先、確かにあの美麗な若者がいつもの様に鞄とテニスバッグを抱えてコートへと向かってきていた。
普段の彼にしてはやや遅めの到着である。
「お早う、みんな」
「おう、お早うさん。どうじゃ、塩梅は」
にっと笑う詐欺師に、幸村はちらりと鞄を見遣りながら答える。
「取り敢えず、竜崎さんに負担の掛からない形での活動表を作ってきた。本当は休ませてあげたいけど、そんな事したら却って塞ぎ込んでしまうだろうからね…彼女の場合は例えどんな小さな仕事でも、与えられた方が少しはましだと思う」
「同感ですね…」
どうやら、桜乃は何も出来ない状況に甘んじるタイプではないというのが、彼らの一致した見解の様だ。
「皆にも、少しずつだけど負担を掛けることになっちゃったね…」
「それはもう言わなくていいことだ、精市。ここにいる誰も悪い訳ではない…竜崎もな」
「…そうだね、すまない」
どうやら自分も少しだけ引き摺ってしまっているようだ、と己を戒める様に首をゆっくり横に振って、幸村はうんと頷いた。
「じゃあ、俺達は俺達が出来る仕事をしよう…ああ、先ずパワーリストを返さないとね」
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