お兄ちゃん'Sの仇討ち(後編)
昨日は結局学校には来たものの、そのままとんぼ返りとなってしまっていた桜乃にとっては、今日が腕を骨折してから初めての授業となった。
それ程苦労はしないだろう、と思っていたが、その考えが甘かったという事実を知るのに、然程時間はかからなかった。
(ううう〜〜〜〜〜…)
先程から、桜乃は珍しく顔をしかめてじーと黒板を眺め、ぎこちない動きで左手を動かしている。
今、彼女の利き手である右手は見事にギプスに包まれ、鉛筆など持てる状態ではない。
然るに、必然的に頼りになるのは左手なのだが…残念ながら、桜乃は完全な右利きであり、これまで左手を積極的に使おうという機会は殆ど無かった。
だから、鉛筆でひらがな一つ書くにしても非常な労力と時間が必要になるのである。
しかし、黒板のスペースには限りがあり、授業時間そのものにも限りがある。
教師の板書したものを限られた時間で全てノートにとるには、かなり筆跡は乱れ、集中力も書く方へと向き、解説には今ひとつ意識を向けられない。
(んも〜〜〜〜! 左手も少しは鍛えておけば良かったよぉ〜〜〜〜! あのひったくり犯、ぜーったいに許さないんだからぁ〜〜〜〜〜!!)
不甲斐なくて泣きそうになるのを必死に堪えながら、桜乃は必死に机に齧りついて授業に集中していた。
そうこうしている内に、何とか午前中の授業が終了…
「はふう〜…」
慣れない動きをした所為で、すっかり左肩が疲れてしまった…精神的にもちょっと響いてるかも。
(あ…いけない…料理できない間は暫く学食だった…)
片手しか使えないと、料理にすら支障を及ぼし、それは家計にも響いてくる…
(うう、少しでも倹約しないと…早くギプスが取れたらいいんだけどなぁ…)
「おさげちゃ〜〜〜〜ん!!」
彼女が学食に向かおうとしていたところに、一年生の教室に三年生の丸井が飛び込んできた。
皆がぎょっとしている中、桜乃も少し驚きながら来訪者を見つめ、彼を迎える。
「あ、丸井先輩…何かありましたか? 部活のお話?」
「んにゃ、取り敢えず今はおさげちゃんを拉致りに来たんだー」
「はい?」
「授業が終わったら、とーぜん次は楽しい昼食だろい? ささ、こっちに来た来た」
「え、ちょ…ちょっと、あの…」
自由になる左手をむんずと掴まれ、桜乃は丸井にずるずると半ば強制的に連れられて行く。
そして来たのは、学食の隣に設置されているテラスだった。
「あ、来た来た」
「あら…? 先輩方…」
周囲の生徒達の視線を完全に無視しつつ、そこには男子テニス部のレギュラー達が揃い、桜乃に手を振っていた。
「連れて来たぜ、幸村〜〜」
「うん、ご苦労様、ブン太」
「な、何があったんですか? 何か重要な問題でも…!?」
まさか全員が揃っているとは思っていなかった桜乃は狼狽も露に部長の幸村に目を向けた。
もしかして私…集合命令を聞き逃していたんじゃ…!
「そんなに固くなるな、一応今のうちに渡せるものを渡しておきたくてな…」
不安がる桜乃を宥めるように参謀が言いながら、すっと数枚のレポート用紙を差し出した。
「…はい?」
「お前の午前中の授業内容から、俺が要点をまとめておいた。一応、仁王と柳生の推考も入っているから、参考にするといい」
「あの先生方の好みそうなトコロは知っとるからのう…ま、チェックしとるところを重点的にやれば、抜き打ちテストがあっても八割がたは大丈夫じゃろ」
「竜崎さんは普段からしっかりと学業にも打ち込んでいますから、そんなに心配はいらないとは思いますが…ノートが取りにくいというのは、気になるでしょう」
「え…」
思わず受け取ったレポート用紙を覗き込むと、そこには柳の筆跡で覚えのある数式や年号やそれについての小項目、要点が記されており、更に合間合間に仁王や柳生が書き込んだと思われるチェックが入っていた。
「えええ!?」
とんでもない虎の巻を貰ってしまったと大慌ての桜乃の隣で、ぶーっと切原が唇を尖らせて愚痴を零した。
「何スかこの対応の違い…俺にはこーゆーコト、一回もやってくれてないッスよ先輩方」
ずるいッス、と非難する後輩に、しかし副部長は腕を組んで目を閉じ、むすっとした顔のままではっきりと言い返す。
「自分の胸に手を当てて考えてみろ、このたわけ」
「お前にそういう事をしてやっても、更に堕落するのは目に見えているからな…これを機会に、竜崎を見習ってちっとは反省するんだな、赤也」
「…あーあ、俺も竜崎と同じ学年だったら見せてもらえたのに」
「オイ、反省するところソコかよ」
全く反省の意味合いを理解していない後輩にジャッカルが呆れている間、桜乃はじーっとレポートを見つめている。
(物凄くよくまとまってる…教科書要らないぐらい…)
「まぁ、腕が自由になるまでは、勉強の面に於いてもある程度はサポートしてやる。気にするな、俺にとってもいい復習になるからな」
「ふふ、頼もしいね…さ、勉強の話はこれぐらいにしておこう、今は昼休み、そろそろお腹が限界の人もいるみたいだし」
そう言えばそうだった…
見ると、他のメンバー達もここで食べるつもりだったのか、弁当や学食のメニューを持って来ている。
(私もここで一緒に食べさせてもらおうかな…)
そんな事を考えながら、桜乃は腰を浮かしつつ断った。
「すみません、あの…ちょっとパンを買って…」
「ダメダメ! パンだけだなんて栄養が偏っちゃうじゃんか! おさげちゃんはこれ!」
「え…?」
そう言いながら、丸井がでんっ!とナプキンに包まれた弁当箱を桜乃の前に置いた。
男性用の弁当箱らしく、結構な大きさだ。
「…はい?」
「名づけて、『これで骨折なんかすぐに治るぞ』弁当! 天才的な俺の手作りだぜぃ、しっかり味わって食べろよなー。当面、おさげちゃんの胃袋は俺が世話してやっから」
「!?!?!?」
先程から驚いてばかりの桜乃の隣で、ジャッカルが感心した様に何度も首を縦に振る。
「へぇー、お菓子ばかりじゃないんだな」
「まぁなー、そりゃあ好んで作るのはお菓子だけどさ、天才はやろうと思えばこの程度の融通は朝飯前なんだよい」
へへんと軽く鼻の頭を擦ると、丸井はほれほれと手で桜乃に食べるように促した。
「ま、食べてみろって。結構メニュー頑張って考えてみたんだー」
「は…はい」
ナプキンを解き、弁当箱を開いてみると、色合いなども熟慮されて詰められたに違いない、美味しそうなおかずの面々が姿を現す。
うわぁ、と驚きながら早速、勧められるままに桜乃はそれらに箸をつけて口に運んだ。
「わ…凄く美味しい、です」
「とーぜんとーぜん」
微笑ましい光景に安堵し、皆が続いて食事に手をつけ始めた中、桜乃は彼らの暖かな心遣いに改めて感動していた。
(皆さん…私なんかの為に……こんなに気をかけて下さって…)
それなのに、私は非力で、足手まといにすらなっているのに…
じわ…
「っ!!」
自分も食事を始めようと箸を運ぼうとした真田が、桜乃の涙を見て思わず持ち上げた筑前煮をぼろりと零す。
「りっ…竜崎!?」
続いて、少女の異変に気付いた切原が、先輩の名シェフに慌てながら迫った。
「ちょっ…ナニ盛ったんスか! 丸井先輩!!」
「ええっ!? こ、小魚と牛乳…」
「あっ…ち、違います、その…すみません、また私…」
泣いたら心配させるって知っていたのに…止められなかった、でも…
「私、何も出来ないのに、こんなに心配してもらって…何だか申し訳なくて…」
「何を言うとるんじゃ、全く…」
下らないことを、と言わんばかりに、仁王が眉をひそめて桜乃の言葉を遮り、柳生がそれに続く。
「貴女はいつも出来ることを精一杯なさっているじゃありませんか、この程度の事ならお安い御用です。あまりご自身で認識なさっていない様ですが、貴女は十分にウチの戦力になっていますよ」
「…」
戸惑いながら、幸村に顔を向けると、彼も柳生の言葉を受けて迷い無く頷く。
「そうだよ、竜崎さん。何も出来ていないなんてことはない。君がいつも俺達にしてくれている分の事を、今度は俺達が返しているだけなんだ」
「その通りだ、何を下らん事をいつまでも気に病んでいる。これはお前が受けるべき当然の権利だ。お前は俺達の使用人でも何でもない、大事な仲間であり、後輩だ。忘れるなよ」
「妹分ってコトもなー」
真田に続いて、丸井がにぱ、と笑い桜乃の左手に縋りつく。
「そうそう、これがもし赤也じゃったら、フザけんなって感じで遠慮なくレギュラーから蹴落としてやっとったがのう…惜しかった」
「自業自得ってヤツだよな」
「少しは痛い目を見れば、悔い改めてくれるのかもしれませんが…望みは薄いですね」
「…そろそろ泣いていいッスかね、俺…」
遠慮も何もない先輩達の愛の鞭に、切原がずーんと沈んでしまった脇で、彼らなりの慰めを受けた桜乃がようやく微かに笑った。
「…有難うございます」
「そうそう、笑ってたらきっとまたいいことあるからさ、気を落とすなよぃ」
「悪い奴にはきっと天罰が下るからな…にしても、相変わらず捕まってないらしいのが癪だが」
ふぅ…と息を吐き出して呟くジャッカルは、そんな輩がまだのさばっている以上また次の犠牲者が出るのでは、と心配している様子だ。
「こういう事件で実際に死者も出とるからのう…それを思えば、骨折はしたが、生きていてくれただけでも良かったのかもしれん。悔しい言い方じゃがの」
「そう、だね…下手に頭でも打っていたりしたら大事だった。でも竜崎さん、その犯人については警察には話したんだろう? 俺達も少しは情報として調べてみたけど…」
「は、はい…でも私も咄嗟の事で、殆ど覚えていないんです…白のヘルメットと、ダークブラウンの革のジャケット…ジーパンを履いていて…バイクじゃなくて多分スクーター…黒だったと思います」
「男女の別も分からんな、それでは」
「身体の線は、何となく男性のイメージでしたけど…それもはっきりとは」
「ふむう…」
「この手の犯罪者は圧倒的に男性が多い…可能性はかなり高い」
「ナンバーは見たのかよ、竜崎?」
切原がなかなか冴えた質問をしたが、残念ながら桜乃にはそれに答えるに必要な情報が無かった。
「それが…見たという記憶がないんです…覚えている云々ではなくてプレートそのものを見ていないような…」
「外していたとしてもおかしくないですね、確信犯であるのは間違いない訳ですから、その程度の準備はするでしょう」
「何だかドラマの展開だよなぁ」
ドラマだったら黙っていても敏腕刑事がとっ捕まえてくれるんだろうが、現実では時間がかかるかもしれない…と言うより、捕まるという確信も無いし…
「…まぁ、嫌な事は早く忘れることだよ、竜崎さん」
ふふ、と微笑んで食事を促した部長に素直に頷いた桜乃は、また、メンバーと一緒に楽しい食事時間を過ごした……
そんな立海のテニス部メンバーとマネージャーが、不幸に見舞われながらも元の日常生活に戻りつつあった或る日…
早朝の道路…歩道との境がないその道は、近所のマンモス校へと繋がる経路でもあった。
そこを…あのスクーターが走っていた。
ゆっくりと、何処を目指すでもなく、隣の歩道の先を見て、獲物を探しながら…
やがてスクーターに乗っていた若い男の視界に、一人だけの人影が映った。
辺りは静かで、通学路ということもあって今の時間は車両制限を掛けられている…事前にチェックしていることであり、だからこれまで車に追跡されることも無く、幾度もこの『仕事』を成功させてきたのだ。
更にスクーターをゆっくりと進ませると、その人影の詳細が明らかになってくる。
ゆるやかに波打つ黒髪が肩にかかった、実に華奢な人物が、こちらに気付くでもなくゆっくりと歩いていた。
ズボンを履いているが、正直、後ろからでは男性か女性かも分からない、それ程に細い身体に見えた人物は、道路側の肩に鞄を無造作に掛けている。
見た感じ警戒してもいない様子だし、あれならこちらが手を掛けてスピードを上げたらすぐに奪えるだろう。
こういう場合は早く決断し、早く決行するに限る。
一瞬の迷いが、失敗に繋がる…スクーターは徐々に加速し、獲物の隣に向けて走ってゆく。
そして、獲物の傍を擦り抜けた瞬間、スクーターに乗った男は慣れた動作で相手の肩に掛けられていた鞄のベルトを掴み、引きながらアクセルを最大に加速させた。
ヴォン…!!
いつもなら、そのまま肩から奪い取り、そのまま逃走したら良かったのだ。
しかし、今日の相手は、いつもの獲物とはあまりにも何かがかけ離れていた。
「……ふふ」
鞄を奪われそうになったにも関わらず、獲物は薄く笑みを浮かべ、相手のやるがままに任せた。
その慈悲に気付いていたのかは定かではないが、スクーターの男は更にアクセルをかけた…のだが、
ヴヴヴヴヴヴオ…!!
「!?」
嫌な音を大きく響かせて、スクーターが数瞬その場に制止したかと思うと、ぐおっといきなりその機体が前に向かって大きく持ち上がり、前方の車輪が宙に浮く。
まるで見えない巨人の腕に後ろを引っ張られ、引き止められた様な形で、その機体は操縦者ごと垂直になったかと思うと、そのまま重力に引かれて落下し、激しく道路に叩きつけられた。
ここは早朝の道路…自分が確認していた通り、見ている者はいない…
「う…」
道路に倒れたヘルメットを被った男は、痛みを堪える様に呻きながら、しかしすぐには立てずそのまま仰向けの形に寝転がった。
「…!?」
自分のヘルメットから覗いた視界に影が差す。
目を開くと、逆光で顔がはっきりしない、狙っていた人物がこちらに腰を屈めながら立っていた。
「…白いヘルメット、ダークブラウンのジャケット、黒のスクーター……ほぼ間違いないかな…やっと掛かってくれた、待ってたよ」
一瞬、警察という単語が頭の中に浮かんだが、それはすぐに自身の頭の中で否定された。
あまりに相手が若すぎる…しかも、女かとも思っていたが、今の声色は…男か!?
逃げたくてもまだ身体が痛んで自由が効かない犯罪者を見下ろしながら、その若者はちらりと自分の地面に下ろした鞄の中を見遣りつつ続けた。
「俺達全員分のパワーリストだよ…総重量は五十キロを裕に越える、そんなオモチャとひ弱な身体で奪える訳がない…さて」
先程まで獲物だった男は、今や自身が狩人だとでも言う様に楽しそうに自分を見下ろしていた…無論、助ける為の手など伸ばす様子も無い。
「…俺達の大切な妹分が随分とお世話になったみたいだし…丁重にお礼をしないとね」
そう言った若者の美麗な顔が首を傾げたことで初めて明らかとなり、同時に犯罪者はぐいと首を掴まれ、あっという間に意識を落とされてしまった……
立海if編トップへ
サイトトップヘ
続きへ