立海テニスコート…
「お早うございまーす」
「おわよー!」
「ああ、お早うございます、竜崎さん。今日の当番は丸井君でしたか、お疲れ様です」
「へっへー」
あの日のショックから随分立ち直った様子の桜乃が、丸井に連れられてコートに着いた時、他のほぼ全員のレギュラー達は朝錬の準備をしようと活動を始めつつあった。
「そろそろ軽い作業は出来そうですよ?」
「そうですか? さて、どうしますか…部長も交えて考えた方が良さそうですね」
「はぁ…今日も幸村先輩は最後なんですね」
「ええ、彼も色々と忙しい様ですから…」
そんな会話を柳生と交わしている時だった…
『レギュラーのみ、大至急集合しろ!!』
いきなり真田副部長の大声が届けられ、あら?と桜乃がそちらを見遣る…と同時に、
「…っ!」
「!?」
彼女とは緊迫感がまるで違う様子で、ばっと柳生と丸井が彼へと視線を向けると、何かを察した様子で向こうへとダッシュをかける。
「行くぜぃ!」
「竜崎さんはここにいて下さい! いいですね!?」
「は、はい…」
自分も一応マネージャーだし同席した方がいいかと思っていた少女を、いつになく厳しい口調で柳生がそこへと留まらせ、自分たちだけで真田の周りへと走って行く。
果たして、桜乃の目と耳が届かない場所では…
「どうした、真田、もしかして獲物が掛かりおったか?」
「弦一郎…?」
皆の注目を受けながら、真田が自身の携帯を取り出してみせる。
普段、練習時には携帯を持参する事はない真田にとっては非常に珍しい事だった。
「精市から連絡が入った…ほぼ間違いないと」
「よっしゃーっ!!」
まるで待ち望んでいたかの様に、切原が身体の前で拳を握り締め、ガッツポーズをとる。
「住所はここから近い…急げば間に合うだろう」
「いーじゃんか、行こう行こう! 朝錬代わりにはちょーどいいだろぃ!!」
「まさか、本当に掛かるとはな…プロファイリングも出来るのか、柳」
「或る程度は…しかし最も功を奏したのは、おそらく囮となっていた精市の外見だ…あれでは犯罪者に油断するなという方が無理だろう」
「…褒め言葉として言えないのが残念ですが」
それから彼らはすぐにコートから離れ、非レギュラー達に練習内容の指導をしてから、何を思ったか外へと出て行こうとしていた。
「あ、あの…皆さん? どちらへ…」
「あー、ちょっと俺達は町内耐久マラソン!」
遠くから、丸井がにこやかに答える…普段ならげんなりしている筈なのに。
「留守番頼むぜよ」
「俺達が遅れた場合でも、お前はちゃんと授業に出るのだぞ」
しっかりと学生の本分を全うするように桜乃に真田が念を押し、それから彼らはやけに急いだ様子で門から走って行ってしまった。
「……どうしたんだろ…?」
「……う」
低い呻き声を上げ、男がはっと我に返った時、そこはあの道路ではなかった。
自分にとっては非常に馴染み深い場所…である筈だったが、
「お目覚め? 犯罪者さん」
にこやかな顔と声でそう話しかけてきたのは、あの華奢な若者…ひったくり犯は無論知る由もないが、立海の幸村精市だった。
彼がここに自分を連れて来たのは想像出来る…ヘルメットを取ったのもおそらく彼だ。
「なっ…」
徐々に意識がはっきりしてきた彼は周囲を見回し、思わず叫んでしまう。
「何なんだお前らは――――っ!!」
叫びたくなるのも無理は無い、そこは明らかに自分が借りているアパートの一室。
しかし今は自分の他に目の前の華奢な男、その他大勢の少年達がこの場を占拠し、あらゆる場所を漁りまくっていた。
「きったねぇなぁ、俺の部屋の方がまだマシだぜ」
そう言いながらくせっ毛の若者が押入れの中に頭を突っ込み、そこにある雑貨を次々と放り出している。
その向こうでは、寝室で赤毛の若者が遠慮もなしに周囲を物色。
「おお、エロ本発見」
「後でまとめて玄関の前に広げて置いちゃるか、ここにはこーゆーシュミの人が住んでますってな」
「二度と帰って来れねーな…恥ってモンを知ってれば」
銀髪の男や、明らかに純粋な日本人ではないだろう男達も、手は出さないまでも、部屋を荒らす行為を止める素振りはない。
「止めろクソガキーっ!」
大声で彼らを止めようとした男だったが、その喉をいきなり掴まれ、声を閉ざされたまま、目前に迫ってくる美麗な若者の顔を半ば強制的に見つめさせられた。
「…罪もなく持ち物を奪われた人達も同じ様なことを言ってたんじゃない?…人のを奪うのはいいけれど、自分のを奪われるのは嫌なんだ? ふぅん、そう…」
普通に考えれば相手が多人数だろうと暴れて抵抗するところだが、男がそれをしないのは、目覚めた時点で既に手足を縛り上げられ、転がされていたからだった。
ぐっと言葉を詰まらせる相手に、手と顔を離した幸村はぴら、と一枚の免許証を取り出した。
「…犯罪やる時に律儀にこんなの持ってたら、自分の事がばれることぐらい分からない? それとも絶対に捕まらないとでも思ってた? 甘いね…悪いけど、名前なんか呼ばないよ。犯罪者の名前なんか呼んで口が汚れるのは嫌だから」
にこやかな顔と声で、実に胸に痛い言葉をすらすらと吐く。
見た目遥かに年下の少年にそこまで言われて、抵抗は出来ないまでも男がむかついただろう事実は、その表情の変化からも明らかだった。
「けっ、ナニ言ってんだよこのガキ。女みてぇな顔しやがって何マジになってんだ、アホくさい…さっさとこれを解きやがれ、このオカマ野郎!」
ぴく…
男の台詞に微かに幸村の肩が揺れ、同時に周囲の仲間と思しき少年達の肩も同様に揺れた。
ゆっくりと振り返る…幸村以外の男達の表情が一様に固まっている。
「…まぁそれはそれとして」
にこりと笑い、幸村はそこは相手の発言を無視する形で次の質問にかかった。
「前に女の子から奪った鞄があるよね…それ、何処にあるの? 捨てたりしてたらタダじゃおかないよ」
「知らねーな! 何狙ってんのかも知らねーが言う訳ねーだろ、カマが馴れ馴れしく声かけんじゃねーよフザけんな!!」
ぶちっ…!
耳には聞こえない、何かの糸が切れた音を確かに聞いた立海メンバー達が、大慌てで転がっている犯罪者に詰め寄った。
「何寝惚けとるんじゃっ! さっさと口割った方がよっぽど長生き出来るぜよ」
「正直に答えるのが貴方の為です!」
「マジで喋っちまった方がいーって!! 俺は数発殴らせてもらうぐらいでいーけど、アノ人怒らせたらアンタ、マジで地獄見る事になるかもだぜ!?」
仁王や切原達が珍しく敵に対して同情的な助言を与えたが、無論、男には今そこにある危機というものが分かっていない。
寧ろ、そういう言葉が相手の精神を逆撫でするらしいという事実が、彼を更に破滅へと暴走させてしまった。
どうせ捕まるなら、コイツらを貶めるだけ貶めてやれ、と…
それがどれだけ恐ろしい挑戦なのか知る由もなく。
「フン! 警察に突き出すならさっさとやれよ! 狙った女があんななよっちいニューハーフだとは思わなかったぜ、何でこんなふざけたコト仕出かしたかは知らねぇが、随分とおイタが過ぎるんじゃねぇのか!? とっとと夜の街でも何処でも行って、客漁ってやがれ!」
ぶちぶちぶちっ!!!!
更に幸村から聞こえてくる嫌な空耳に、ぎゃーっ!と丸井達が頭を抱えて半狂乱になる。
「あ“〜〜〜〜〜〜〜っ!!!! こんなコトになるならついて来るんじゃなかった――――――っ!!」
「やめてっ!! もーいーかげんにしてっ!! タダでさえ最近胃薬の減り早えーんだから俺っ!!!」
「…精市がキレた確率……百パーセント」
参謀が遂にその事実を宣言した時、物腰柔らかな立海のテニス部部長は、ひゅっと右手を上げたかと思うと物凄い力で相手の男の身体を掴み、床へ仰向けに引き倒してしまうと、ぐぐっと顔をそちらへと寄せた。
「何でこんなコトをしたか分からない…? 自分達の大事な友人が酷い目に遭わされたのに、黙っていられると思うかい?…ああ、こんな犯罪を止めてくれるような友達のいない人には分からないか」
「へっ、友人? ああ、アレか? 妹分とか言ってたヤツか? おめでたいぜ、そんなマヌケな妹の為にここまでマジになりやがって、このシスコンども!!」
『!!』
その瞬間、幸村の激昂に対して引いていた男達全員が、すぅと表情を失くしていった。
先程までは、かろうじて彼等が守っていたこの場の空気の熱が、見る見るうちに引いてゆく。
それは、彼らもまた、男に対して最早一縷の情も掛ける気が失せたという証だった。
「…一つ、勘違いしているよ、犯罪者」
全員の言葉を代弁するように、幸村は言う。
「もし、被害を受けたのが彼女でなくても…この中の誰かだったとしても…俺はきっと同じ様に犯人を探したよ。男だろうと女だろうと関係ない……俺はね、絶対に許さないんだ」
優しかった幸村の表情が、冷えた瞳を持つ修羅のそれに変わる…しかし、それもまた美しい姿だった。
「謂れなく自分の仲間を傷つけられることを、俺はこれまでもこれからも絶対に許さない!…許すことなどありはしないんだ。それはきっとみんなも同じ……せめて君はあの日、彼女に手を出すべきじゃなかった」
俺の、俺達の大切な宝物に、手を出すべきじゃなかった……
美しい修羅は、罪人の無知に憤るように厳しい視線を向ける。
「…人のものを盗ってはいけません…人を傷つけてはいけません…友達は大事にしないといけません…全部、幼稚園で習っただろう? 俺達より分別ある筈の大人が、何でそんな事も分からないのか、理解に苦しむよ……さて?」
そこまで言うと、修羅の顔を消し、幸村はすっくと腰を伸ばして男を見下ろした。
「どうやら君は、さっきからどうあっても俺をオカマにしたいみたいだけど…そこまで言うならご期待に応えようか? どの道、あの子の鞄は絶対に取り戻したいところだし、何が何でも吐いてもらうよ…さぁみんな? お仕置きの時間だ」
ぎっく――――――――――っ!!!
再び仲間達が顔色を失う中、構うことなく幸村はすぅと右手を上げ、その甲を己の口元に当てた……ばっちり小指を立てた形で…そして、
「やっておしまい」
妖艶な笑みと共にとどめの一言。
『ハマり過ぎだ―――――――っ!!!』
うぞぞぞぞっと鳥肌を立てながらも、メンバー達は一斉に男を取り囲む。
いずれにしろ、先程の発言を含めて桜乃にされた暴挙への仇討ちは、彼らの偽らざる望みでもあったのだ。
「…せ、精市…?」
「大丈夫、精神衛生上宜しくないことはさせないから。暴力も嫌いだし…でも」
珍しく怯えた様子で声を掛けてきた真田に、幸村はにっこりと笑った。
「…人ってくすぐられ続けても死ねるんだよね…一応れっきとした拷問方法なんだよ」
その彼の背後から、異様な男の笑い声が響いてきた……
十分後…
「見つけたぞ精市、ヤツの言った通りだ」
「うーん、天井裏かぁ…ありがち過ぎてあまり面白くない」
「見つけただけ御の字じゃろうが…」
笑いすぎて息も絶え絶えの男からようやく聞きだした鞄の在り処を探った男達は、無事に見つけたそれを幸村へと届けていた。
その陰で、切原が柳にひそひそと小声で囁いている。
『…柳先輩、俺、部長が恐いッス…』
『みんなそうだ、気にするな』
鞄を開き、教科書や文房具を確認している途中で、幸村は僅かに瞳を見開き、一冊のノートを取り出して柳へと手渡した。
「はい、参謀」
「うむ…」
何であるか既に察していた相手は、素直にそれを受け取るとぱらりと捲り、最後のページに目を通した。
数秒の後、微かに微笑んで頷く。
「…まだ改善の余地は残されてはいるが…良い出来だ」
「そう…帰ったらちゃんと褒めてあげてね」
幸村も満足そうに頷くと、ようやく呼吸が整ってきた男に再び腰を屈めて声を掛けた。
「教えてくれて有難う、後はゆっくりと塀の中で反省してきてよ。サービスで警察には連絡しておいてあげる」
「こ…のクソガキっ!…いつか絶対にてめぇ見つけて、どっかのホモ野郎に売り飛ばしてやる!! あの女もタダじゃあ済まさねぇからな!! 生意気なガキどもがっ!!」
「何だとっ、また悪事を働くつもりか!!」
最後まで悪態をついてある意味天晴れな男に、最後になって声を荒げたのは、副部長である真田だった。
今までは異様な雰囲気に半ば呑まれて傍観を守っていた男だったが、ここにきて遂に堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。
「貴様! これだけ言われて尚そんな世迷い事をぬかすか!! まだ社会の弱者をいたぶるような真似をやろうというのなら、最早容赦せんっ!! 今すぐそのひねくれた性根を叩きなおしてやるわ――――っ!!!」
『ぎゃあああああ!!!!』
今度は真田の鉄拳制裁を受け始めてしまった男を、少し遠巻きに仲間達が冷ややかに眺めていた。
「…竜崎はともかくとして…幸村が弱者っちゅうのは明らかに違うじゃろ?」
「どちらかと言うと、頂点って感じですけどねぇ」
しみじみ呟く柳生達の後ろでは、ジャッカルが酷く悲しい顔をしながら何かの錠剤を手持ちのピルケースから取り出して口の中に放り込んでいた。
「お。胃薬ッスか」
「最近出た水無しでも飲めるってヤツだろぃ? お前にはぴったりだよなぁ、ジャッカル」
「…医学の進歩が嬉しいやら悲しいやら…」
俺の為に進歩している訳ではない…と思いたい。
そうしている内に、ふと柳が自分の腕時計に目をやり、幸村へと声を掛けた。
「精市、そろそろ戻らないと間に合わんかもしれん」
「あらやだ、もうそんな時間なの?」
「俺がこいつの代わりに土下座して詫びるから、もうその口調は止めてくれっ!!!!」
再びの部長の錯乱にメンバー全員がハリネズミになったところで、真田が必死の形相で親友に怒鳴り懇願する。
「うーん…こういう言葉って一度やるとなかなか抜けないんだよね」
んぺんぺ、と舌を出しながら困った顔をする幸村に、真田が震えながらダメ出しをした。
「抜けなかったら親友をやめるぞ俺は!」
「ふふ、はいはい。気をつけるよ…それじゃあ、そろそろ学校に戻ろうか?」
その日、桜乃は柳から『犯人が捕まったらしく、残されていたノートが返却された』という説明と共に、あの失くしたノートを手渡された。
更に、『よく出来ていた』と褒めながら頭を撫でられ、少女は喜ぶことしきりだった。
そして確かにこの日、街の小さくも大きな出来事として、長く市民を不安にさせていたひったくり犯が、匿名の通報によって捕まったというニュースが飛び交ったが、誰がどうやって男を捕え、どういう形で引き渡したのかは定かにはなっていない。
『ちょっと危ない橋、渡らせてもらったぜよ』
事件の陰でそんな台詞をのたまった男がいたが、それは誰にも知られるコトもない裏話。
噂では、警察に逮捕された時、犯人の部屋の中も外もある意味凄まじい惨状で、詳細を聞こうにも男自身の精神がかなり参ってしまっており、すぐには聴取が始められなかったという話もあったが、あくまでも噂の域を出なかった。
兎にも角にも、これで、桜乃を苦しめたひったくり事件は一応の解決を見たのである。
「復活でーす」
「おめでとー! おさげちゃんっ!」
「おう、ギプス取れたんか。おめでとさん」
それから、桜乃は無事に腕の全快も果たし、またいつもの平和な日常が戻って来た。
「良かったね、もう自由に動かせるの?」
「はい…暫く使ってなかったから、早く頑張って元の筋肉をつけないと……あ、でも見て下さい、ほら」
「ん?」
幸村や柳達が集まっている中で、桜乃が嬉しそうに自分のノートを見せた。
そこには、多少歪んでいる部分もあるが、十分に読める文字が綴られている。
「これを機会に、左も利き手にしようと思って練習してたんですよ。なかなか綺麗に書けるようになったんです」
「お、凄いな」
ジャッカルが素直に驚きの声を上げ、桜乃は更に笑ってぐっと左拳を握り締めた。
「多少、トレーニングして力もつけたんです。将来は仁王先輩みたいに、両手でプレー出来るようになりたいです」
「ほっほー、やる気満々じゃのう」
「立海のテニス部員ですもん。真田先輩からも武道を教えてもらえることになりましたし」
「いい!?」
ぎょっとする切原の傍で、真田が当たり前の事の様に頷いた。
「うむ…またいつあの様な不埒な輩に襲われるとも限らん。せめて自分の身は自分で守れるようになれ。俺達がいつも傍にいられるとは限らんからな」
「頑張りますー」
にこにこと笑いながら真田の教示を聞いている桜乃を見つつ、こっそりと仁王達が囁き合った。
「ますますイイ女になっていくのう、あの子…」
「あまりに高嶺の花になりすぎると、誰も取れなくなると思うのですが…」
ちょっぴり不安そうな部員達の傍で、幸村はほのぼのとした笑顔で桜乃を見つめる。
(…宝物、か…傷つけられても傷つかず、更に輝きを増すなんて、そこらの宝石とは訳が違うね…まぁ、彼女だけじゃないけど)
ここにいる全ての仲間達…自分の大切な宝物達…彼らの強さは、そのまま自分の強さにもなってくれる。
そしてそれは、自分だけに限った話ではない筈だ。
これからも心の望むまま、彼らと共に生きていこう…
「…これからも宜しく、竜崎さん」
「!…はい!」
元気の良い返事を聞き、立海の部長は嬉しそうに微笑んだ……
了
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