お兄ちゃん'Sの本命
或る日、三月になって少しずつ暖かくなってきた頃…
「わ〜…梅は咲いたか、桜はまだかいな〜って感じですねぇ。綺麗綺麗〜」
そんな小さな独り言を呟きながら、立海の中学一年生・竜崎桜乃がとことこと昼休みに中庭を散歩していた。
今日は久し振りに快晴。
天気予報もばっちり確認してきたし、これなら家で干してきた洗濯物も十分に乾く筈!
庭に植えてあった梅の木に、綺麗な花が咲き誇っている様子を微笑ましく見つめていた少女は、ゆっくりと中庭を通り過ぎて、人気のない通路に出ようとした時、不意にぐいっとその肩を引かれ、同時にぱふんと口元を塞がれてしまった。
「!!」
まさか、校内に不届きな犯罪者…っ!?
一瞬、ぞわっと全身に恐怖と悪寒が走ったが、その直後に誰かの囁きが耳元に届けられてきた。
『しーっ…いい子にしときんしゃい、竜崎。声を出したらダメじゃよ? それと、ここで暫くストップじゃ』
「…!」
その声…そして話し口調は…っ
「…」
ちらっと背後を振り返った少女は、そこに立って自分の口を押さえていたのが先輩の仁王雅治である事を確認して、ひとまずは安心した。
『静かにの?』
念の為、という様に、しっと人差し指を口元に立てた相手に、特に反抗する理由もないので、桜乃は言われるままにこっくりと素直に頷いた。
それから向こうの拘束を解かれ、自由になったところで、桜乃は当然そこで浮かんだ疑問をこっそりと小声で相手に尋ねた。
『…どうしたんですか?』
声を出さず、しかも先に行ってはいけないなんて…
その疑問は既にお見通しとばかりに、銀髪の詐欺師はにやっと唇を歪めて笑った。
『んー…お前さんにはまだちょっと刺激が強いかもしれんが…まぁ、これも情操教育かの』
『え?』
『ちょこっとだけ、そこから顔出して覗いてみんしゃい…そーっとな』
『……?』
何だろう…と思ったが、えてして女性というものは、こういう事には興味津々。
相手に言われるままに、桜乃がこっそり〜っと陰から曲がり角の向こうを覗いてみると…
(…幸村先輩!?)
自分にとっては仁王と同じくらいに親しい、テニス部部長の幸村精市が立っていた。
いや、今はもう部長の座は退いているから、幸村先輩と呼んだ方が合っているだろう。
(…ん? その向こうに誰かいる…)
上手く陰から角度を変えて確認してみると、どうやら同じ立海の生徒…女子の様だが、桜乃は少なくともその生徒に見覚えはなかった。
男女がこんな人気のない場所で向かい合っているということは…もしや…!
桜乃が或る可能性を胸に抱いたところで、向こうの女子生徒の声が聞こえてくる。
「あの…お返事を…」
ここからだと殆ど拾えないぐらいの声だったが、対しての幸村の返事はそれよりは大きく、しっかりとしたものだった。
「ごめんね、君の事よく知らないし、恋愛とかまだ考えられないんだ」
(告白シーンだ〜〜〜〜っ!!)
しかも玉砕バージョンだっと桜乃がうろたえていると、そこに同じくひょいっと顔を覗かせた仁王が、やや呆れ顔で桜乃を見下ろしてきた。
相変わらずその少女は、おろおろおろ、とまるで自分の事の様に動揺しまくっている。
『……何でお前さんが慌てとるんじゃよ』
『だ、だってだって…こういうトコロを見るのは…そのう…』
それ以上言葉に出来ない少女は、ぷしゅ〜っと顔を真っ赤にしている。
本当に、こういうコトには不慣れな純粋な乙女なのだ…まぁそういう初々しいトコロが自分達の気に入っているところでもあるのだが。
『やっぱり、お前さんにはまだ早すぎたかのう……おう、そう言っとる内に終わったようじゃ』
『!?』
は、と仁王の視線を追いかける形でそちらを見ると、あの女子が幸村の傍から走り去っていく後姿が見えた。
多分、泣いている…のかもしれないが、そこまでは見ていなかった。
何だか可哀相…と思っていたのも束の間…
「……で? 君達はそこで何してるの」
「ひゃんっ!」
びしっと飛んで来た向こうの指摘に、桜乃は軽く飛び上がってしまった。
しまった! 今更だけど、自分達は今、立派なノゾキをしてしまっているのだった。
(あうう…きっちりバレてるよう…)
取り敢えず、覗いてしまった事は事実なんだし、謝らないと…とすごすごと出て行った桜乃と一緒に仁王も付いて行く。
こういう場合、いつもなら相手を見捨てて逃げることもしょっちゅうの若者だったが、桜乃には同伴するというところが、また彼の少女に対する甘さを伺わせる。
仁王については予想していたらしい幸村だったが、そこに桜乃も同伴していると知ったところで、彼は軽く目を見開いた。
「あれ? 竜崎さんも?」
「す、すみません〜〜、覗くつもりはなかったんですけど…」
でも結局覗いてしまってたんだよね…と、それ以上の弁解は控えた桜乃に代わって、仁王が口を挟んできた。
「すまんすまん…お前さん達のラブシーンに竜崎が特攻掛けそうじゃったから、阻止したんじゃよ。まぁ、今のは大人の見本ってコトで」
「先輩としてこういう見本にはなりたくないな…それに竜崎さんにヘンな知識を与えないでよね」
早速、可愛い妹分に対する気遣いを見せた幸村は、仁王にぴしりと念押しした後に少女にも声を掛けた。
「ごめんね竜崎さん、びっくりさせたかな」
「い、いえいえ…ち、ちょっと不意打ちでしたから」
そうは言いながらも、相変わらず頬が赤い少女を苦笑して見つめ、幸村は肩を竦めてみせた。
「また呼び出されてね…慕ってくれているのは嬉しいんだけど、正直会ったことも話したこともない相手から告白されても、俺にはどうしようもないんだ。こればかりは諦めてもらわないと」
下手な心遣いを見せてだらだらと未練を引き摺られるよりは、すっぱりと振って諦めさせるのも優しさなのだ。
「はぁ……ん? また?」
繰り返し?と思ったところで、仁王の皮肉混じりの台詞が割り入ってきた。
「これで通算、何人振ったんじゃろうなぁ…色男は罪じゃのう」
「君だって結構な数の女子を泣かせてるって聞くけどね、仁王」
「っ!!」
はっと桜乃が仁王の方へと驚きつつ振り返った。
そう言えば…現場を見てしまったから幸村にだけ集中していたけど、よく考えたらウチのレギュラー達は全員、モテモテ男子なのだった!
「そういう言い方はやめんか…竜崎に妙な意味で誤解されるじゃろうが」
「ふふ…確かにね。でも今年は特に多いよね…やっぱり卒業間近だからかな」
「まぁのー、だから向こうは盛り上がっとるんじゃろうな」
「皆さん、そんなに告白されてるんですか!?」
ぎょっとする妹分に、二人はいやいやと慌てて手を振って否定した。
「いや、今だけじゃよ…あー、今の時期とバレンタイン」
「バレンタインとホワイトデー…おまけに今年は俺達卒業するからね。そういうメモリアルな年って、何かと気持ちが盛り上がるから…」
「あ…そうでした」
そう言えば、もうすぐホワイトデー。
愛を受けた男性が、女性にその愛をお返しするという意味合いの日だ。
間もなく高校へと旅立つ愛しい人に、愛を告白…なんていかにも恋する乙女が夢中になりそうなシチュエーションではないか。
しかし、この二人の様子からすると……
(…夢中になった乙女の数だけ、散っていった愛の数もあるみたい)
誰もが幸せになれるイベントではないのが、気の毒なところでもある。
「ところでどうするんじゃ、幸村。今年のプレゼント」
「うーん…まだ決めてないんだよね…丁度いいや、放課後に集まって皆で決めない?」
「じゃな」
告白されて、それを断るだけでも結構なストレスになるのだろうに、その上チョコをくれた女子達にはお返しまで考えなければならないとは…
モテる男というのは、確かに辛いのかもしれない。
「モテるっていいことばかりじゃないんですね、勉強になりました。告白を断ったり、皆さん、本当に大変そう…」
心苦しいだろうに、と桜乃が心底思ってそう言ったところ、仁王と幸村は一瞬の間を置いて…にっこりと笑って断言した。
『好きじゃないから』
「………ほんっとうに勉強になりました」
ここまであからさまだと、いっそ潔い程だ……
そんなこんなで放課後…
「まぁ後腐れのない様に、あくまで感謝の意味を込めるってコトだしさ、そんなに高いモノじゃなくてもいいだろ」
「まぁな〜、そんなに金掛けたらまた変な期待させちまうかもしんねーし」
「…あれ? 今年は丸井先輩、手作りじゃないんスか?」
「流石に今年は、手作りモノはデンジャラース」
放課後の閑散とした三年生の一教室内に、久し振りにテニス部元レギュラー達が集まって頭を突き合わせていた。
彼らが目にしているのは、普段の彼らの嗜好からするとかなり珍しい雑誌で、男女双方から支持を受けているものである。
「まぁ値段から考えたら、ここ辺りが妥当でしょうか」
「そうだね」
柳生が指し示したのは、ある予算金額の範囲内で買えるお菓子特集のページ。
幸村もそこを見て、贈る人数分の数を乗じた合計金額を頭の中に弾き出し、捻出可能と判断した。
相手が二人三人の話ならもう少し金額を上乗せしてもいいのだが、そこはやはり現実的な問題が立ち塞がるのだ。
「どれがいいかな…色々とあるけど」
「別にどれでもよかろう…俺達が食う訳ではないのだ」
いつもなら腕を組んで堂々としている筈の真田が、何故か今日は机に突っ伏して気の抜けた声で投げやりな返事を返す。
しかし周囲の男達はその理由について既に知っているのか、興味すら示さない。
「…これはどうじゃ?」
仁王が指し示したのは、ページの一部を彩っていた可愛らしいパステル色の袋に詰められたチョコ入りマシュマロ。
自分達もよく知っている大型デパートの中にある店舗で期間限定で売られているものらしい。
「ほう、値段も手頃だし、一度で二つの味を楽しめるというのは面白いな」
柳が軽く頷いて、賛同の意を示し、他の男達からも特に否定の意見は出なかった。
「いいんじゃないッスか?」
「包装も洒落ていますしね…」
じゃあ、これを暇な時にでも買いに行こうか…と皆がほぼ決定の意志を示していた処に、廊下を小走りに駆けて来た桜乃が入って来た。
どうやら、彼らを探していた様だ。
「あ、皆さん、ここでしたか」
「ん? おさげちゃん、どした?」
「何かあったのか?」
丸井と柳の問い掛けに、少女はふるっと首を横に振った。
「いえいえ…今日はちょっとした野次馬ですよ」
皆さんがどんな贈り物を選ばれるのか気になって…と微笑む桜乃に、そういう事か、と全員が苦笑する。
そして、彼女は全員の輪に入ってきたところでくるんと彼らの顔を見回した。
「貰ったチョコに対して全員に配るなら、凄い数になるんじゃないですか?」
「まぁね…結構大変だよ。お返しを買って家まで運ぶのも苦労するんだ。ええと、今年はこんな感じかな」
桜乃の興味に答える形で、幸村が胸元のポケットから冊子状のメモ帳を取り出して桜乃に見せた。
そこには複数のページに渡って書き連ねられているチョコをくれた女子達のクラスや名前がずらり。
更にその内の幾つかの名前の横には赤いペンでチェックマークがついていた。
一人に限ったチェックであれば、『すわ本命か!』と考えるところだが、複数となるとちょっと違ってくる。
特にこの人達は、モテると言っても股がけの交際なんてしない堅気な人ばかりだし…
「…このチェックって何ですか? もうお返しが終わった人達?」
「いや、違うよ」
にこっと笑って幸村が一言。
「…今日までに告白されて振った人」
「……………」
なまじ、昼に現場を見ているだけに生々しい…
幸村の言葉を受けて、他の男達も微妙な顔になって本音を漏らす。
「今年は特になぁ…」
「すぐに新しい恋を見つけてくれたらいいのですが、何ともこればかりは」
「呼ばれる度に、贅沢な悩みだけど「もういい」って思ったりもするし…真田先輩もグロッキーだし」
「やかましい」
今まで突っ伏していた真田が、切原の言葉を受けて忌々しげに軽く顔を上げる…がやはりその色は優れない。
「さ、真田先輩、どうしたんですか? 体調が…」
「別に何でもない。振る度に自分にまで心にダメージ受けとるだけじゃよ」
苦笑して補足する仁王にも、ふんっとそっぽを向いて拗ねた様に言い捨てた。
「相手に気を遣って何が悪い…」
「あー…」
つまり、彼もまた他の部員と同様に愛の告白を受け、断りながら良心の呵責に耐えているという事か…まぁ、厳しい性格でも性根は優しい若者だから、納得出来る。
「仕方ないですよ。こればかりは誰にでもいい顔をすると、却って不誠実になってしまいますし…で、贈り物のリストアップは終わりましたか?」
相手の気を逸らす為に、品物について質問した桜乃に、丸井が雑誌を差し出しながら言った。
「ちょーどいいや、これでどうかと思っているんだけどさぁ、女性として忌憚のない意見をシクヨロッ!」
「どれどれ…ああ、チョコ入りマシュマロですね」
示された物に、桜乃はにっこりと笑った。
「可愛くていいですね。そう言えば贈る物によってもそこに込められた意味が違うそうで、確かキャンデーは義理、クッキーは友情…で、本命がこのチョコ入りマシュマロだっていう説もあるんですよ…まぁ、地域によって違うとか逆とか…」
「別のにしよう」
「そうだな」
「キャンデーにするか」
途端に男性陣、決定を翻して予定変更。
「あの、皆さん…」
思わず突っ込んでしまった桜乃だったが、既に彼らは再度選択モードに突入。
「そこまでこだわらなくても…」
「気分の問題じゃ」
「義理だとね…本命ならこんなに悩まなくても…」
相変わらず変な処で律儀な男達は、再び雑誌を眺めながらどれにしようかと二度目の会議を開こうとしていたが…
「…あ」
ふと、幸村が何かを思いついた様に声を出した。
「どうした精市?」
「ううん…ちょっと…ねぇみんな」
それから彼は何故か、桜乃だけを外して、レギュラー全員を集め、ぼしょぼしょぼしょ…と何事かを話していた。
『……………』
男達全員が、いやに静かに聞き入っている脇で、桜乃は何だろうかと首を傾げる。
「?」
『しっ…しかしそういう事はやはり…!』
『何言ってんだよい真田っ! こういう時こそ予行練習じゃんか! あくまで予行!』
『う、ううむ…』
どうやら真田はあまり乗り気ではなさそうだが、そこは丸井が勢いで説得して、再び彼らは内緒話に戻る。
そして、やがてうんうん、と全員が一斉に頷き…
ぐっ!!
と、親指を立てた。
「???」
本当に、何をしているんだろうと桜乃が更に疑問に思っていると、散会した彼らが一斉に彼女の方へと向かって来る。
「竜崎さん、今日は放課後は暇?」
いつもと同じにこやかな顔で尋ねてくる幸村に、さっきのは一体何だったんだろうかと思いつつも、少女はこくんと頷いた。
「え、ええ…別に用事はありませんけど…」
「良かった、じゃあ、竜崎さんも手伝ってくれないかな。贈り物の選別」
「…はい?」
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