夢の学園祭(前編)


 朝起きたら、自分は男になっていた…
「……この展開はもしかして」
 むくりと上体をベッドの上に起こしたまま、桜乃はぼそりと呟いた。
 異変に気づいたのは起きてすぐ。
 自分の自慢の黒髪がいつの間にかばっさりと短く切られており、そして目に映る部屋の内装が昨夜寝る直前に見たそれとは一変していたからだ。
 昨日の自分は、実家の自室のではなく確か寮のベッドに横になった筈。
 しかも、自分の纏うパジャマも青色のそれに変わっており、体つきも服の上から見ても明らかに変化している。
 普通の人間だったらそれだけでもう十分パニックになってもおかしくない状況にも関わらず、桜乃は異常な程に冷静に今の事態を受け入れようとしていた。
「…前にもこういう時があったわ…男になったと思ったら実は夢だったってこと…確か、あの時は私は桜乃じゃなくて…」
『桜咲−っ! 朝だよ!!』
 階下から祖母の声が響いてくる。
 ここは、内装は変わっているが、場所としては実家の自分の部屋なのだろう…だとしたら更に有り得ない。
 今現在、立海に転校した自分は、寮に住んでそこから通っている筈なのだから。
 向こうの声が明らかに自分に向かって掛けられている雰囲気から、更に彼女は自分の予想に自信を持った。
「やっぱり夢…そうそう、そういう名前だった…」
 過去、こういう夢を一度見たことがある。
 自分の中の意識は何ら現実世界と変わることはなかったのだが、その夢の中で、竜崎桜乃は女性ではなく男性としての位置づけにあったのだ。
 しかも、当時は青学の一年生であったのに、夢の中では何故か立海大附属中学の一年ということになってしまっていた。
 いや、何故か…というのは少々言い方が不適かもしれない…何故そうなってしまっているかという理由は、桜乃の中では薄々判明していたからだ。
 実は彼女は、その時青学の生徒であったにも関わらず、立海の男子テニス部メンバーと非常に仲が良かったのである。
 自分が一方的に彼らを慕っているのではなく、多少自惚れていいのなら、相手方もそれなりにこちらに気をかけてくれている、と桜乃は考えていた。
 それは誤りでもあり、また正解でもある。
 正しくは、彼らは桜乃が『思っている以上に』深く彼女の事を大事に思ってくれているのだ。
 殆ど実の妹…いや、それ以上の関係を思わせる程にと言っても過言ではない。
 勿論、桜乃は青学の男子テニス部メンバー達とも良い先輩後輩、或いは同級生の関係を築けてはいたのだが、立海の彼らとはそれより更に親密度が高いのだった。
 それが大きな原因ともなり、遂に彼女自身、最近になって立海に転校を果たしてしまった程に。
 だから、二度目の同じシチュエーションとしてのこの夢でもまた、青学の生徒としてではなく、立海の一年として存在しているのかもしれない。
 更に桜乃は、常日頃より立海メンバー達の仲間意識の強さを目の当たりにしており、その中に混ざってみたいという意識が少なからずあった。
 彼らに自分を差別する、いや、している意識がないという事は十分に分かってはいる。
 しかし、やはりどうしても自分が女性である以上、彼らとの間には決して超えられない一線も存在している事を、桜乃は知っていた。
 同じ男性だったら同じ部に所属していたかもしれないのに…後輩として、別の形で知り合えていたかもしれないのに…
 そんな桜乃の中の潜在意識が、こうして夢となって顕れているのではないか…というのが、桜乃自身の見解だった。
 かなり的は得ているかもしれない。
(まぁ、名前まで前のと一緒なら、これはもう殆ど確定よね…流石にずっとこのままじゃ困るけど、少しでも男子として生活出来るならそれはそれで…ん?)
 そこまで考えたところで、桜乃はベッドから飛び起きた。
「あっ! 朝練!!」
 現実世界に則ったら、立海のテニス部は中学テニス界の王者と呼ばれている程にレベルが高く、その分、普段の練習量も並ではない。
 朝も通常の授業が始まる前の時間を利用し、練習を行っている…まぁこれは大体の部活なら珍しくもない話。
 遅れたらもれなく副部長である真田の怒声と鉄拳制裁が待っているその朝練は、部員であれば例外なく強制参加なのだが、過去の夢では桜乃は桜咲(はる)という名の男子として、その男子テニス部に在籍しているという設定だった。
 と言う事は…
「わわ、大変! 急がなきゃ…!!」
 まだ時間的にはゆとりはあるものの、お弁当の作成なども考慮したら、あまりのんびりもしていられない。
 夢だからそこは都合よく自動的にお弁当が出てきたりしないものかと期待したいところだが、過去の夢もかなり現実世界の事情に忠実だったから、望みは薄いだろう。
(うう…夢だからって割り切れないなんて、融通効かない性格もどうかと思うけど…)
 そこは自分をちょっぴり恨めしく思いつつも、彼女は急いで立海の制服に着替えると、階下に降り、夢の中の家族に挨拶を済ませ、朝食と弁当の仕込を手早く終わらせて家を飛び出して行った。
(うん、遅刻は心配ないわね…よく考えたら前の夢の時もレギュラーの皆さんとは殆ど練習出来なかったから、今日が初めてになるんだぁ…! 夢でもいいもんね、対等に練習付けてもらえるんだし…またいつこんな都合のいい夢見られるか分からないもの…!)
 いよいよ長年(?)の夢が叶えられる…!と桜乃…桜咲は大喜びで立海へと向かっていった。


 立海男子テニス部部室前に到着したところで、桜乃は現実世界とは少々印象が異なる様子の周囲をきょろっと見回していた。
「あれ…? 人がいない…」
 青学の朝練も見たことはあるが、このぐらいの時間なら、まだ全員が外のコートに出てラケットを手に各々の練習に励んでいる筈…なのに。
 部室近くのテニスコートには人っ子一人おらず、朝の爽やかな空気と鳥の鳴き声、鮮やかな朝日のみが彼女を迎えてくれていた。
(え…朝練って…夢の中ではないのかな?)
 現実世界だったらありえない話なんだけど…と思いつつ、桜乃は夢ならではの設定だろうかと訝しみながら、取り敢えず、かちゃ…と部室のドアを開けた。
「あ…」
 誰もいないのか…と思っていた部室内を覗くと、そこには確かに人がいた。
 自分が見知っている、いるだろうと予想していた人物達が、部室内に揃っていた。
「皆さん…」
「おう、桜咲?」
「おりょー? どうしたんだい?」
 声を掛けると、入り口のドアのすぐ傍に立っていた、褐色の肌の若者と赤毛の若者が同時に振り向き、口を開いた。
 一人はブラジル人とのハーフであるジャッカルと、もう一人は彼とダブルスを組んでいる丸井である。
 二人は現実世界でもそうである様に、夢の中では桜咲としての桜乃を見て、親しげに笑いかけてくる。
「どうしたんだいって…?」
 だって、朝練があるんじゃ…と言い掛けた桜乃の視界に、異様な光景が飛び込んでくる。
 部室の向こう、机と椅子が並んでいる場所で、立海の三強が一人の若者を取り囲む形で椅子に座っていた。
 囲まれているのは…二年生エースである切原だ。
「あれ…? 切原…先輩?」
 普段は『切原さん』と呼んでいるが、今のは自分は立海テニス部部員であり、彼らの後輩でもあるので、桜乃は慎重に彼をそう呼んだ。
 一方、呼ばれた若者は桜乃の声に過敏に反応してぐりっと首をこちらに巡らせ、遠慮もなしに叫んだ。
「あーっ!! 良かった身代わり来たーっ!!」
(何だか凄くヤな予感っ!!)
 夢の中だから…自分の夢の中だから、まさかそんなに悲惨な目に遭う訳ではないだろうけど…!と思いつつも、背筋を走った悪寒に桜乃はくるっと背中を向けた。
「失礼しま…!!」
「はいはい、おはようさん、桜咲」
 部室から逃げようとしたものの、時既に遅し…
 にょきりと横から伸びた白い手が、桜乃の襟首をむんずと無情に捕まえ、脱走を阻んでしまっていた。
 同時に楽しげな口調で呼びかけてきた相手に、桜乃が狼狽も露に声を上げる。
「に、に、にににに仁王先輩っ!?」
「ははは、相変わらず可愛いのう〜、そんな照れんでもええじゃろ」
「いえ!…照れてると言うか、逃げたいんですけど…!」
 襟首を掴んでいた銀髪の若者・仁王は、まだ諦めきれずにちたぱたと両手足を動かしている後輩に、更に楽しげに笑みを深めた。
「何じゃ、折角朝練が中止になった日に、こんなに早く会えたっちゅうのにつれないのう」
「…え? 中止…?」
 思わず動きを止めると同時に、相棒の行為を咎めるように仁王の隣の男が口を開いた。
 偏光眼鏡をかけた、礼儀正しい若者…柳生だ。
「仁王君、いい加減手を離して差し上げたら如何です。竜崎君が困っているでしょう」
「だって離したら逃げられるし」
「嫌われても知りませんよ」
 やれやれ…といった口調で柳生が仁王を嗜めている間に、桜乃の姿を認めた三強の男達も一時切原から視線を外し、桜乃の方へと注目した。
「桜咲? どうしたの?」
「何か急用か?」
 部長の幸村と参謀の柳からそう問われ、桜乃は仕方なくそこからの逃避を諦めた。
 ここで相手方の質問を無視して逃げてしまえば、こちらの方が礼儀を失してしまう。
 そんな相手の動きを感じた仁王がようやく襟首から手を離してやり、桜乃は振り返って二人の質問に素直に答えた。
「ええと…朝練に参加しようと思って来たんですけど…」
「朝練? あれ? 桜咲は聞いてなかったのかい?」
「昨日の夜に、非レギュラーの部員達には今日の朝練は中止だと、電話による連絡網を通じて告知していた筈だが…?」
 幸村が首を傾げた隣では、副部長の真田が少しだけ眉をひそめながらそう説明する。
(えっ!? そんな事に!?)
 昨日と言っても、自分がこの夢を見ているのはあくまで今日の朝からだからなーと心の中で思ったものの、彼らにその事情が通じる筈もない。
 桜乃はそこは深くは語らず、聞いていなかった事にして頭を下げた。
「す、すみません。わた…僕がうっかりしていたみたいです!」
「ふむ…お前にしては珍しいミスだな、桜咲。まぁ遅刻してくるよりはマシな話だが…そういう事で、朝練は今日は休みだ」
「わ、かりました」
 柳の一言にこくんと首を縦に振って答えた後、桜乃は改めて彼らの方を見遣った。
 依然、例の三人は切原を解放する様子もなくその場に留まっており、その切原はこちらに縋る様な目を向けながら、必死に三人に訴えていた。
「ねー桜咲にやってもらいましょーって! こいつなら絶対に俺達より合ってるだろうし、適任じゃないッスか〜!!」
 泣きごとみたいな台詞をのたまう若者に、厳格で知られる副部長が一喝する。
「お前には反省という二文字がないのか!?」
「してますって!!……今回分は」
「では、ないのは学習能力の方か…そちらの方が余程厄介だが」
 柳も含めてまた向こうでよく分からない言い合いを展開した彼らを、桜乃はただ茫然と見つめるしかなかった。
 一体ここでは…何が話されているんだろう…?



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