甘い香りの乙女(前編)
「くっ…遂にこの悪しき運命の巡りあわせの時が来てしまったのか」
二月の初旬、部室内に掲げられていたカレンダーを前に、赤毛の若者・丸井ブン太が苦悩に満ちた台詞を呟いていた。
「いきなり部室に来て何スか、丸井先輩」
その背後には、現立海男子テニス部部長である切原赤也の姿。
苦渋の表情を浮かべている丸井に比べると、実にあっけらかんとしたものだ。
先程まで部活動に勤しんでいた為にその身体にはまだじわりと汗の水分が残っており、切原は顔をタオルで拭いながら、先輩の姿を見つめていた。
「二月になったのが何かヤバイんすか? 先輩達全員、高校への進学は問題なかった筈でしょ?」
「何言ってんだよい! 進学なんざ出来て当然! そんなコトより、男としてよっぽど重要な問題が目の前にあるだろい!?」
「へ?」
男として…とはまた思い切った物言いをしている。
多少興味をそそられた切原は、そこで丸井の傍に歩み寄って、ひょこっと同じくカレンダーを覗き込んだ。
「…………」
沈黙時間、約十秒。
「あ〜ハイハイ」
「なんかバカにされた気分っ!!」
丸井の大袈裟な反応とは真逆の淡泊さで、切原はやれやれといった表情すら浮かべて背を向けていた。
「どーせバレンタインのチョコでしょ? そりゃ確かに今年は日曜日だから少しは少なくなるかもですけど。それにしても貰えないって事はないんじゃないスか?」
「なにー!? もしチョコが足りないまま遭難したらどうすんだよい!」
「ここ神奈川ッス」
「富士山があんじゃねーか!」
「登るんスか?」
何だか更にばかばかしくなってきたなーと切原が考えていたところに、タイミング良くと言うべきか、他の元レギュラー達が入室してきた。
「どうしたの? 随分と賑やかじゃないか」
「あっ、幸村ー」
人当たりの良い元部長の声に、くるっと丸井が振り向くと、彼だけではなく他のレギュラー達も興味津々といった表情だった。
「何じゃ、何かもめ事か?」
「嬉しそうですよ、仁王君」
「全く…後輩達の見本となるように行動せんか、たるんどる!」
「ご、誤解っす!! 真田ふくぶ…じゃない、真田先輩!」
最初の詐欺師と紳士ペアの発言はともかくとして、最後に投げかけられた台詞が自分にも向いていると感じた切原は、慌てて相手の真田に断りを入れた。
確かにこれまでの二年間、散々相手から生活指導を含めたお怒りを受け続けてきたことは事実だが、だからと言って冤罪まで引き受けるつもりは全くない。
「ん?」
「今年のバレンタインが日曜だから、ちょっとチョコの数について話してただけっす」
「バレンタイン…ああ、成る程な」
真田の隣にいた柳も、それを聞いて深く頷いた。
「前日に渡すパターンが可能なら、さして受け取る数に大きな変化は見られないだろうが、生憎土曜も学校行事が休みだからな……本命はともかくとして、義理関係のものは例年ほどには期待出来ないだろう」
「そう言えばTVでもそんな事を言ってたな…あまり景気も回復してないから、向こうも財布の紐は固いみたいだよ、ブン太」
「くそ〜〜〜…何だよい、一年に一度の夢のイベントなのにさぁ」
幸村の言葉にがっくりと肩を落とす若者の姿に、ぼそりとジャッカルが呟いた。
「世の中には、一個貰えるだけで夢の様な気分を味わえる野郎もいるってのになぁ…」
「しかし多く貰えば貰う程、今度はホワイトデーのお返しが待っている…どちらが幸せなのかは微妙なトコロですね」
どちらがいい、とは語らず柳生がそう評すると、ぐりっと首を巡らせた丸井がぐっと親指を突き出した。
「そこは手作りで経費削減!!」
「君こそ主夫の鑑だね…でも確かに、俺が見ていた番組でも今年は手作りのものを贈るのが流行ってるって言ってたな」
「…よく考えたら、どうして幸村先輩がそんな番組を…」
「妹とのチャンネル争奪戦に負けちゃったんだ…この時期の女子は色々な意味で強いよね」
切原の質問にも非常に納得のいく返答を返した後で、幸村がふと思い出した様に周囲に視線を走らせる。
「そう言えば、ウチのマネージャーはまだ姿が見えないみたいだね…彼女のバレンタイン事情にも多少興味があるところだけど」
「ああ、竜崎か」
「一年生に今日特別な予定は入ってはいなかった筈だ。ホームルームが遅れているのか、それとも何かクラスであったか、というところだろう」
真田と柳が思い出している竜崎という人物は、現在、立海の一年生で当部活のマネージャーを任されている女子である。
名を桜乃と言い、その名の通り見た目は非常に華奢で小柄な女性であり、性格の方も内気で穏和。
一見したら、とても王者立海のマネージャーなど務まらないのではないかという懸念も生まれる程なのだが、なかなかどうして、周囲の不安を余所に彼女はしっかりとその大任をこなしているのだ。
そこには、彼女の生来の努力家という気質と、彼女をそれとなく支えてくれた幸村達の気配りがあった。
元々、桜乃をマネージャーに、という希望は彼女の本質を見抜いていた彼らから出されたものであるが、それに慢心することなくしっかりと努力で期待に応えてきたのは間違いなく彼女自身だ。
努力のみに甘えず、しっかりとした結果を残す者をこそ王者は認める。
彼らを慕い、立海にまで追いかけてきた当初こそ、レギュラー達の贔屓目ではないかと疑われていた少女だったが、今はもうそんな穿った見方をする人間は誰もいない。
「そうは言っても、まだ部活動の開始時間には間があるからなぁ。ま、クラスメート達との会話でも楽しんでるんじゃないのか?」
「そうだな、開始までに来るのであれば支障はない」
これまでの経験から、少女がサボることなどあり得ないと信じているのか、真田もジャッカルの意見に同調した。
これが現部長を務める若者だったら、かなり対応は異なっていた筈だ。
「そーいや、今年はアイツが来てから初めてのバレンタインっすね。誰かにあげるのかなチョコ」
「え? 俺、貰う気満々なんだけど」
「ああまぁ、丸井先輩は義理でも何でも貰えたらいいんでしょうけど…俺が言ってるのは本命って意味ッスよ」
ぴくんっ…
その台詞の直後、切原は間違いなく周囲の先輩達の纏う空気が一変したことを感じた。
「…竜崎さんが? まさか」
ふふ…と相変わらず柔和な笑みを浮かべながら、幸村がそんな言葉を言ったものの…
(…先輩、目が笑ってないッスよ)
下手に触ると後が怖いので、切原は心の中で突っ込むに留めた。
が、以降も先輩達の意味深な発言は続く。
「恐らく我々には下さると思いますよ、マネージャーですからね…しかし、他の方にはどうでしょう…?」
「…ピヨッ」
「あ、あいつは元からマネージャーの仕事が忙しいし、そんな事にうつつを抜かす暇などなかろう! 下らん」
「まぁ今は恋愛よりもマネージャーの方が楽しいんじゃないか…うん…多分…おそらく…」
「恋愛に関しては、どうしても個人の主観が偏るだけに細かい分析は難しいが、あの子がそういう対象を持っている確率は低いと思われる…残念ながらゼロではないが」
(なーんか、全部ひっくるめて「俺達以外の人間にやるなんか許さない!」って聞こえるんだけどな…ま、実際そうなんだろうけど)
最近は妹分というより、すっかり恋人候補並に溺愛されてるからなー、と思いつつ、切原は実は自分もそうなのだと再確認。
(まぁ可愛いし素直だし、それで結構度胸も据わってるしなぁ…俺らみたいなアクの強い集団に気に入られたってのも良かったのか悪かったのか…)
けど、自分もどうしても彼女が自分達以外の男性と仲良くしている姿は想像出来ない…いや、これもまた、したくないという潜在意識の表れなのか…
そんな事を悶々と考えていると、背後の部室のドアが久し振りに開いた。
「あ、皆さん、遅れてごめんなさい。ちょっと教室で話し込んじゃって…」
「やぁ、竜崎さん」
「問題ない、まだ部活も始まっていないからな」
噂をすれば何とやら…マネージャーの桜乃が入室してきた。
いつもと変わりない様子で長いおさげを揺らし、柔らかな笑みを浮かべていた少女は、ぺこんと全員に礼をして首を傾げる。
「皆さんお揃いで、何をお話していたんですか?」
「いやまぁ…今年のバレンタインについてちょっと…」
口を濁しつつジャッカルが答え、そのまま丸井が相手への質問へと繋ぐ。
「おさげちゃんも、誰かにあげんの? バレンタイン」
何の捻りもない超直球レベルの質問だったが、ここまであっけらかんとしていると向こうも何も考えずに素のままに返してしまうのか、桜乃は特に恥らうでもなく答えた。
「はぁ、お父さんにはあげるつもりですけど」
『…………』
ほっとするような、まどろっこしい様な…そんな微妙な空気が男達の間に流れる。
それを感じてか否かは不明だったが、その後すぐに桜乃から追加の発言が出た。
「あ、宜しければ皆さんのチョコの好みについても教えて頂けませんか? そのう、参考にしたいので」
勿論、彼らに断る理由はない。
本命ではないにしろ、彼女が自分達をチョコをくれる対象には見ているという事だ。
本当は本命でありたかったが…と何人が思ったかは定かではないか、取り敢えず落胆はせずに済んだ男達は彼女の要求に応え、それぞれの好みを伝えた。
「俺は…その…あまり甘ったるい味の物は苦手だからな…」
「あ、じゃあビター系ですか…ふんふん」
「俺は何でもオッケー! あ、出来たらおっきなのがいい!!」
「質より量派ですかぁ…」
「うんにゃ、質も量も上質嗜好で!」
「ハードル高いですねぇ…」
そんなこんなで全員の嗜好をチェックした桜乃は、メモを見ながら数回頷いた。
「うん…頑張らないと」
真剣な少女の様子に、おやおやと幸村が笑顔で言った。
「そんなに心配しなくても…竜崎さんは料理が上手だし、俺達もそれ程にグルメを気取っている訳じゃないよ」
「え、あ…有難うございます」
相手のフォローに礼を述べ、それから桜乃はいつもの様にマネージャーの仕事に専念すべく準備を始め、他のメンバー達も彼女と同様に部活動に参加したのだった…
立海if編トップへ
サイトトップへ
続きへ