頭脳ゲーム
「だーっ!! ちくしょーまた負けた〜〜〜っ!!」
「これで、全勝は私と柳君だけになりましたね」
その日の昼休み、ある三年生の教室でそんな賑やかな声が響いていた。
悔しそうにオセロの駒を幾つか派手に放り投げたのは赤い髪の幼さが残る若者・丸井ブン太。
その対面にて、黒髪が美しい細目の男が薄い笑みを浮かべて泰然と座っている。
周囲には複数の男子が高みの見物とばかりに寄り集まり、楽しそうに盤面を眺めていたが、その中の眼鏡の若者がかきかきと手持ちのメモ帳に対戦結果を記していた。
「うーん…予想通りの結果になってきたね。俺ももう少しだったけど、やっぱり蓮二には敵わないか」
軽いウェーブを持つ髪の、穏やかそうな若者がにこにこと笑いながらそう言う脇では、強面の、いかにも頑強そうな男が腕を組んで数度頷いていた。
立海テニス部部長の幸村精市と副部長の真田弦一郎だ。
「我が立海テニス部の参謀を務められる男だ、流石と言うべきだな…しかし柳生もなかなかの腕前だ」
「いえ、私はまだ参謀と手合わせしておりませんのでね…胸を借りる気持ちでいきますよ」
眼鏡の若者が謙遜の言葉を述べている隣では、ブラジル人ハーフのジャッカルが不思議そうに更に隣の銀髪の男に視線を遣った。
「俺の予想では仁王も心理戦にかけては強者だから、イイトコいくと思ってたが…ちょっと意外だったなぁ」
「何言うとるんじゃジャッカル」
対し、仁王は鼻で笑いながら相手の意見をあっさりと否定した。
「こんな何の賞与もメリットもない勝負事に、俺が本気なぞ出す訳がなかろ。ここで下手に手の内見せたら、それこそ柳のデータ取り放題じゃ。幾ら仲間とは言え、そんなのあっさりと許す俺じゃあないんでな」
(俺はこいつと友達続けてていいんだろうか…)
内心でジャッカルが結構真剣に悩んでいたところで、仁王の台詞を聞いていた柳がふむ、と手を口元に当てながら頷いた。
「確かに…勢いで始めたものだったが、何かしら賞をつけても面白かったかもしれないな。今となってはそれも難しいが」
「そんなことないんじゃない? 二位以下が百円ずつ出してもケーキ一個ぐらいは買える値段だよ。その程度の出費なら俺は別に構わないけど…」
「どーしてどーしてそれを先に言わなかったんだよい!! そんなら俺だって本気出したのに〜〜〜〜っ!!」
「止めとけ、お前のはしっかり負け惜しみだ」
じたばたと小さく暴れだした相棒の襟首をひょいと捕まえたジャッカルがそういなしたところで、その場に部外者の声が響いてきた。
「えーっ!? 何スか何スか!? 何か奢ってくれるんスか!?」
「む…」
「おう、赤也か」
「おや、竜崎さんも」
彼らが視線を動かした先には、くせっ毛のいかにもやんちゃそうな若者と、長い黒髪のおさげを持つ少女が並んで向かってくるところだった。
赤也と呼ばれた男はこの中学校の二年生で、立海テニス部でもレギュラーの座を担う程の実力者…ではあるのだが、普段は専ら能天気な何処にでもいる様な若者だ。
但し、怒りが頂点に達したら、様相までもが悪魔の如く一変するという厄介な特技も持っている。
その彼と一緒の少女は、竜崎桜乃と言って、夏の盛りを過ぎた頃に立海へと転校してきたばかりの中学一年生。
現在は最年少でありながら、持ち前の責任感の強さでテニス部マネージャーの役を精力的にこなしている。
転校した時期こそ最近だったが、彼女が来る前から立海のテニス部レギュラー達とはテニスを通じての懇意の仲だったので、今も初対面にありがちなぎこちなさなどとは無縁の様子だった。
「こんにちはー」
「君達がここに来るなんてね。しかも二人揃ってなんて、何かあったのかい?」
「いいえ、たまたま食堂に行ったら三年生の他の先輩達が、『テニス部レギュラーが集まって何かやってる』って噂していたんです」
「で、俺もたまたまそこを通りがかって、こいつと一緒に見に来たって訳ッスよ」
「そうだったんだ…でも別にそんな大したことじゃないんだけどね」
「皆でオセロの勝ち抜きをやろうと誰ともなく言い出したのだ。今のところは蓮二と柳生が同点首位だがな」
「まぁ」
そういう事でしたか…と、幸村と真田の説明に素直に桜乃が頷いている脇で、ジャッカルと丸井がこそこそと小声で話しこむ。
「それだけで噂になっちまう俺達ってのも…」
「まぁ色々な意味で人間離れしてっから、俺ら…」
それもちょっと悲しいよなー、と二人が頷いている間に、切原が興味も露に柳の前に置かれていたボードに注目した。
「おー、オセロなら俺も出来るッスよ! 俺も入れて下さいよー、もし柳先輩に勝ったら何か奢ってくれるんスか!?」
『……………』
「…あれ?」
瞬間、三年生の先輩達のみならず、傍の桜乃さえも一緒になって、周囲の時を止めた。
柳に…この人間コンピュータとも噂されている参謀に勝ったら…?
一人、ポカンとする切原を余所に、暫く無言を守っていた真田が背中を向けてぼそりと呟く。
「まぁ……不可能に挑戦するのも或る意味人の存在意義と言えなくもないが…」
「悩まないで弦一郎…彼はただひたすらに若いんだよ…」
「彼を見ているとどうにも…和製ドンキホーテという言葉が浮かんでくるのですが」
「ありゃあ一応文学作品になっちょるが、傍から見りゃあ単なるアホじゃ」
仁王や柳生もそっぽを向きつつそう評していたところで、切原が物凄く爽やかな…しかし明らかに作られた笑顔で桜乃に振り向いた。
「あっ、何かよく分からないけど、俺、もしかして馬鹿にされてる?」
「ええと…あの…先輩方なりの叱咤激励じゃないかと…」
もしかしなくても馬鹿にされているのは一目瞭然なのだが、流石にそれをあからさまに伝える程桜乃も人非人ではなかったので、何とか言葉を濁して誤魔化す。
そうしているところに、引き合いに出された柳本人が久しぶりに口を開いた。
「まぁ皆、そこまで赤也を過小評価することもないだろう。彼も将来の立海テニス部を背負う立場の人間、本人がやる気を出せばどう化けるかは分からないものだぞ」
「おっ、さっすが柳先輩、分かってるじゃないッスか〜」
「…もし俺に勝てたら、向こう一年毎日フランス料理フルコースを奢ってやっても構わない程度には評価している」
「先輩が一番ヒドイっすよそれ!!!!」
暗に『絶対出来る筈がない』と宣言された様なもので、それに発奮した切原はそのままどっかりと柳と机を挟む形で座り、やる気満々の様子でオセロの最初の駒をボードに並べた。
「くそ〜〜! 絶対フルコース奢らせてやる!」
「楽しみなことだ」
柳が「静」としたら、切原は「動」。
いかにも対称的な二人の様子を見て、真田がやれやれと内心溜息をつく。
(未熟者が…早速蓮二の罠にかかりおって…)
(本当に扱いやすいよねぇ赤也って…まぁそこも小さい弟って感じで可愛いけど)
真田と幸村だけではなく、おそらくその場にいた切原以外の全メンバーは気付いている。
柳は本心から切原を軽視しているのではなく、その台詞自体が彼の策なのだ。
勝負事において、何よりも重視されるのは本人の精神に基づくところ…集中力や判断力だ。
勿論、その勝負や試合に如何に手慣れているかというところも重要なところだが、人と人が競う場合は、必ずどちらにも人であるが故の隙が生じる。
どんなに完璧な人間であっても、だ。
そこに付け入るチャンスを得るためには、相手を揺さぶり、隙を生じさせるのも立派な戦法。
丁度今、柳が切原に投げかけた一言で彼の平常心を失わせたかの如く。
盤面のみを見るのではなく、対する相手の心を読み、致命的な一撃を打ち込む好機を常に窺わなければ勝利への道は見えないのだが…この若き獅子はその若さ故に、まだ全てが見えてはいないようだ。
ぱち…ぱち……
暫くは、仲間達が見守る中、両者の駒を置いたり、それをひっくり返したりという音が響いていたが、徐々に盤面は彼らの勝敗を如実に表してきた。
「おっ、赤也、負けとるぞ。どうしたどうした?」
「〜〜っ! こ、これからッスよこれから! 仁王先輩、余計な茶々入れないで下さいって」
「はは、はいはい」
柳の駒の色である白と、切原の駒の色である黒…その比率が七対三になった頃、切原が一画に駒を置き、幾つかの相手の駒を手持ちへと変えた。
「へへ、これでどうッスかね」
「ふむ…」
ひょいっと新たな駒を持ちながら柳が頷いた時、ほぼ同時に桜乃が軽く「あ」と声を上げた。
「甘いな」
ぱちっ!
それが決定打となった。
いつからか布石を敷かれていた策が一気に発動し、その一手によって切原の駒がぱたぱたぱた…と白へと変わっていく。
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