皇帝の嘘
日米選抜戦も近い或る日…
その日も、ボランティアで合宿所の雑用をこなす桜乃は大忙しだった。
「よいしょ、よいしょ…おも〜い」
合宿に参加している選手達が使うテニスボールを、各コートに運んだり、水分補給のためのペットボトルを配ったりと、とにかくやることは一杯ある。
今もボール配りの最中だが流石に腕が疲れてきたので、一段落した後に確認を兼ねて箱を降ろすと、彼女はポケットから小さなメモを取り出した。
「えーっと…次はこのボールは…第三コートね」
配分を記したメモを見て、桜乃は間違いがないことを確認すると、もう一度ボールが入っている箱を両腕で抱え上げた…ところで、
ひょい…
「え…?」
不意に、腕が羽が生えたように軽くなる…いや、単に箱の重さが失われただけだ。
前から歩いてきたらしい誰かが、数秒前まで自分が持っていたボール入りの箱を抱えている。
「! 真田さん」
「大丈夫か、竜崎」
目線を上に上げると、厳格で精悍な顔立ちをした、帽子を被った男がこちらを見下ろしていた。
彼は中学三年生であり確かに自分より年上なのだが、その威風堂々たる佇まいは、到底年相応のものとは思えない。
常日頃から己にも他人にも厳しいことで知られる彼だが、それは決して悪戯に人を傷つける為のものではない。
彼の厳しさの中に確かに優しさはあるのだと桜乃が知ったのも、この夏…ごく最近のことだ。
特に、立海という自分と異なる学校の生徒である彼については、普段は知る機会はあまりない。
しかしこの合宿中、共同生活を営んでいく中で、桜乃は他の選手と同様に少しだけ真田とも距離を近くした気がした。
あくまでも桜乃の主観に過ぎず、彼女自身もそれは自覚している。
だからこそ少女は、決して彼の邪魔はするまいとボランティアの役目に没頭し、選手を支えることに集中し、その通り支えてきた。
「は、はい…あの…」
まだ状況がよく飲み込めていないらしい相手に、真田は箱を軽々と抱えたまま尋ねた。
「どこまでだ?」
「え?」
「これを運んでいたのだろう、何処へ運ぶ予定だった?」
「あ…第三コートですけど…でもあの、私が…」
「俺もそこへ向かうところだ、構わん、俺が持っていく」
「え? でも、いいんですか?」
おず…と尋ねてくる桜乃に、真田は仏頂面で答えた。
「これしきの重さ、トレーニングにもならん。心配するな」
そして、その言葉が真実であることを示すように、彼は軽々と踵を返して第三コートがある方へと歩き出し、慌てて桜乃が後を追った。
「あの…私も一緒に行っていいですか?」
「それは…構わんが、他の仕事があるのではないか?」
「いえ、午前中の予定はこれで全部なんです。でも、コートに行ったらまた新しい仕事を頼まれるかもしれませんから…」
だから、一応顔を出しておきます、と言う同伴者に、真田は少しだけ表情を和らげる。
「…そうか、感心なことだ」
「私達は、これぐらいしかお手伝い出来ませんから。皆さんの方がよっぽど大変だと思います。毎日あんなに厳しい練習して」
「いや、俺達はテニスという好きなことに集中することを苦痛とは思わん。そして俺達がこうしてテニスに集中出来るのは、お前達という心強い協力者がいるからこそだ、感謝している」
「は…はい…有難うございます、頑張ります」
殊勝な言葉で返す桜乃に、しかし真田は少し困った表情を浮かべた。
「いや…頑張るのはいいんだが…」
「? はい?」
「お前はどうも、頑張りすぎている気がする。朝早くから夜遅くまで、殆ど休んでいるところを見かけたことがないが…」
「そ、そんな事ありませんよ。ちゃんと十分休ませてもらってますから」
ぱたぱたと手を振る桜乃の顔が赤くなる。
(見られている意識なんて全然なかったけど…もしかして気に掛けてもらっていたのかな…?)
「それならばいいが…」
再び真田が前を向き、桜乃は彼の隣について歩き続ける。
「…あのう」
「む? 何だ?」
「すみません…歩く速さ、合わせて頂いて。真田さんなら、もっと早く歩けるはずなのに…」
「う…いや…それは…」
珍しく口ごもる、らしくない真田の反応が真実を語ってくれる。
彼はどうやら、自分の優しさを指摘されるのが苦手らしかった。
嫌いというわけではなく苦手なのだ、不器用と言ってもいい。
これまで厳しい姿勢ばかりを他人に見られ、優しさについて指摘された経験が殆どないからだろう。
「無理に合わせる必要ないですよ。私の方が手ぶらで楽なんですから、真田さんに合わせます」
「いや、必要ない。お前はお前のペースで歩け、俺が合わせる」
「でも…」
「必要ないと言っている」
「す…すみません!」
少し語気が強くなった相手の様子に、怒らせてしまったかと桜乃がうろたえ、謝った。
同じことを何度も言われるのは確かに真田でなくても嫌気がさすものだが、自分は時々そのタブーを犯してしまう、丁度今のように。
勿論悪意ではなく、あくまでも気遣いのつもりなのだが、それは相手には関係ないことだった。
(…またやっちゃった…)
反省し、しゅんとうつむく桜乃に、また、ちらりと真田が視線を向ける。
その表情は怒りではなく、寧ろ、不安と、後ろめたさを顕していた。
「…あー…その…竜崎」
「はっ…はい?」
ぱっと顔を上げた相手と真田の視線は交わらない…彼がそれを横に逸らしていたからだ。
「別に怒ったわけではない…誤解するな」
「あ…はい」
「………」
桜乃が頷いた後も、しばらく沈黙は続く。
それを破ったのは真田だった。
「…お前は…」
「はい?」
「…俺と話すのが恐くはないのか」
「え?」
意外な質問に桜乃は首を傾げ、真田はどう上手く説明すればいいものかと、うーむと唸る。
「いや…立海でも、俺はどうも女子には恐がられるばかりでな…まぁ、理由は分かっている。だが、性格上も信念からも、こればかりは俺にはどうにも出来ん」
おそらく、自身の厳格な態度のことを言っているのだろう。
普段は他人の戯言など意識の端にも掛けない、といった態度が常の皇帝だが、そんな彼でもやはり気に掛ける時はあるのだ…と知った桜乃は、少しだけ笑った。
「切原さんも、真田さんのことは恐がっているみたいですよ?」
「それはあいつが悪い。やるべきことをやりさえしたら、俺は何も言わん」
後輩については即答で切って捨てた真田に、また桜乃は笑う。
「そうですね…・でも真田さんは恐くないですよ」
「そ…そうか?」
自分から問いかけたにも関わらず、その答えが意外だったようで、真田は明らかに戸惑っていた。
「はい、厳しいですけどそれはみんなの為、なんですよね。切原さんのことについても」
「……」
真実なのだとしても、あからさまに言われるのはバツが悪いのか照れ臭いのか、真田は口を結んで視線を桜乃とは逆の方へと固定する。
「私も正直、最初はちょっと恐かったですけど…真田さん、本当は優しいし、いざって時にはすごく頼りになるし」
「む…そ、そう、か?」
「そうですよ」
「……」
屈託なく笑う相談相手に、皇帝は久しぶりに視線を送る。
そこにはまだ僅かな戸惑いと、確かな喜びの色があった。
「そうか…お前に頼りにされているというのは、悪い気はしないものだ」
「気にすることないですよ。早く、立海の女子の人とも、分かり合えるといいですね」
桜乃は、純粋な気持ちで真田にエールを送った…のだが…
「………」
送られたはずの男は、一瞬顔を強張らせ、そして、顔を俯ける。
(あら?…)
明らかに彼の纏う空気が変わったことに、桜乃も気付いた。
「真田さん…? どうかしましたか?」
「俺は…」
普段の力強い声ではなく、囁くように…
「…俺が、分かり合いたい、のは…」
「え…?」
「…いや、何でもない」
「?…はぁ」
結局、真田の真意は聞くことは出来ないまま、二人はやがて第三コートへと到着した。
「有難うございました、真田さん。今からここで練習なんですね」
「む…うむ」
到着した目的地のはずなのに、何となく真田の様子が落ち着かない。
「竜崎、先生に会わなくていいのか?」
「あ、そうですね、じゃあ行ってこなきゃ…」
「そうした方が…」
いい…と言いかけた真田の目が、先にコートに立っていた後輩の姿を認めた途端、いよいよ彼は挙動不審となる。
「あら? 切原さん…」
桜乃は、ここで初めてささやかな違和感を感じた。
確か、切原と真田は学校こそ同じだが、この選抜メンバー合宿中は違う班に属している筈。
なのに、切原がここでウォーミングアップをしているということは…?
「さなださ…」
「す、すまんが用事を思い出した。箱はここに置いておく」
桜乃の質問を全て聞くことなく、真田は立っていた場所に預かった箱を置くと、そそくさとコートから離れていく。
ここまでくると、流石におかしい…
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