「あの…」
「おっ、竜崎、相変わらず頑張ってんねえ」
真田を呼び止めようとした桜乃に、切原が気付いて声を掛けてきた。
「切原さん、こんにちは」
「おう…あれ? ボール持ってきてくれたの?」
「はい」
「悪いね、うわ、重かっただろ、こんなに…」
箱の中のボールを見て切原が目を大きくし、しかしすぐに軽々とそれを持ち上げると、桜乃に改めて礼を言った。
「すまねぇな、いつも手伝ってもらってさ」
赤目と恐れられる少年だが、普段は人懐こく、敵ではない人間にはそれなりの気遣いも見せる。
「い、いいえ、いいんです。真田さんが運んでくれたんです」
「へ? 真田副部長が?」
きょとんとする切原が、桜乃の視線を追ってコートから合宿所に向かう道へと目を向けたが、探し人は先の曲がり角を過ぎてしまったのか、もう誰の人影も見えなかった。
「はい、自分も第三コートに向かうからって…」
「へぇ、おかしいな。確か副部長の班は今までここ使ってて、これからは筋トレの予定だったはずだぜ?」
「え…」
「忘れたわけないと思うんだけどなー、俺には朝、散々今日の予定について話してたから」
何か忘れ物でもしたのかな〜と切原は不思議そうに首を傾げている。
普段からそういう隙を見せることのない副部長の、らしくない行動が気に掛かっているようだ。
「じゃあ…」
今更ながらに考えてみると、桜乃には確かに思い当たる節はある。
最初に出会った時、彼は自分の前方から現れた。
それは言い換えたら、彼がそちらから歩いてきていたということだ。
いくらメモに気をとられていたとは言え、何故あの時、そんな単純なことに気付けなかったのか…
(…真田さんも、どうしてこっちに用があるなんて言ったんだろう…私に気を遣わせたくなかったから? それとも…)
それがもしありえないことなのだとしても…もしかして…
(…う、うそ)
不意に思い浮かんだ『理由』に、見る見るうちに桜乃の頬が赤く染まってゆく。
(うわ…ち、違う、違うってば! そんなの…)
ありえない…・私は、そんなに自惚れていい人間じゃない…
きっと、真田さんは、私が頼りないから…それで…
「どうしたんだ? 竜崎」
ずっと沈黙している少女に、ひょこっと切原が顔を覗き込んで尋ねてきた。
「あっ、い、いいえ! 何でもないです」
「ふーん?」
そうだ、と桜乃は思い出す。
理由はどうあれ、彼に会って改めて礼を言わなければ…いつまでもあの人に嘘をつかせたままではいけない。
「あの…私達の午前中の予定はこれで終わりなんですけど…他に何かありますか?」
「あっ、そっか、うーん…いや、大丈夫だろ」
くるりとコート全体を見回して、切原はうんと頷いた。
「必要なものは大体揃ってるし、もし足りなくなったとしてもそれぐらいは俺達で何とか出来るさ。助かったよ、アンタ達も少しは休まないとな」
桜乃達に大いに助けられていることは流石に自覚しているのか、切原は彼女達に休息をとることさえ勧めてくれた。
「そうですか…じゃあ、失礼します。午後からもよろしくお願いします」
「おう、お疲れさん」
挨拶を済ませ、桜乃は元来た道を一気に駆け戻る。
確か、真田さん、筋トレって言ってたよね…
トレーニングルームへの道のりは、第三コートからは少し遠い場所にある。
気軽な散歩コース程度の距離だが、それが今の桜乃には幸いした。
「真田さーん!!」
「!?…竜崎?」
やっぱり、彼の健脚に追いつくのは大変だ。
桜乃は殆ど全速力で走って来たというのに、道のりのもう半分近くは過ぎており、更に相手は汗一つかかずに涼やかな顔をしている。
桜乃の姿を後方で確認したしたところで、完全に足の動きを止めた真田の前に彼女が辿り着いたのは、それから更に十秒近くを要した。
「はぁ…はぁ…相変わらず…速い、ですね…真田さん」
「ど、どうした?」
もし相手が男子であれば、その疲労困憊の姿に遠慮なく『たるんどる』と喝を入れていたことだろうが、流石に今回はその台詞は出なかった。
しかし、ここまで急いで来たとは、向こうで何かあったのだろうか…?
「何か向こうであったのか?」
「い…いいえ…何も…」
まだ息を切らしている桜乃を、真田が怪訝そうに見つめる。
そして、彼女は息が整ったところで改めて真田に向き合い、その顔を正面から真っ直ぐに見つめると、深々とお辞儀をした。
「真田さん、箱、有難うございました」
「?…いや、それはもう…」
「切原さんに聞きました…真田さん、本当はこれから筋トレだったんですよ…ね…」
「……」
答えは聞かなくても分かる。
帽子の下の端正な顔が忌々しげに歪み、唇はしっかりとへの字に引き結ばれている。
きっと、余計なことをした後輩のことを考えているのだろう。
「…別に大したことではない。その程度のことで騒ぎすぎだぞ」
少しきつい言い方だったが、桜乃は怯まない。
「大したことです、だって、真田さんに嘘つかせました…だから、その嘘を続けないで済むように、ちゃんと知った上でお礼を言いたかったんです」
「!」
はっとする相手に、桜乃はまた深く頭を下げた。
「気にかけて頂いて、有難うございます…でも、そういう嘘はつかないでいいですよ。真田さん、そういうの凄く嫌いじゃないですか」
そんなことは、させたくないから…
「………」
頭を上げた後も遠慮がちに瞳を伏せる桜乃を、真田は暫く無言で見つめる。
真っ直ぐに、彼女だけ…彼女一人だけをただ見つめる。
道の両脇に生い茂る木々のどこかからか、葉擦れの音と鳥のさえずりが聞こえる。
ただ、それしか聞こえない…
それはどれだけの時間だったのだろうか…まるで数秒が数時間にも思えるような、不思議な空間が二人を包んでいた…
「…・どうしたら、お前を…」
「え…?」
不意に聞こえた声に桜乃が頭を上げると、真田が愁眉の表情で瞳を伏せている。
太陽の光が射す小道に立つ二人は、周囲の世界をそっくりそのまま忘れてしまっているようだ。
桜乃は、視線を合わせてくれない相手をそれでも真っ直ぐに見つめ、真田はすぅと息を吸い、一歩を踏み出した。
「……」
「え…・」
ぎゅ…っ
(…ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!??)
嘘でしょう!?
桜乃は心で叫んだ…が、この感触とこの熱は夢とも幻とも違う、紛れもない現実。
「あ、あのっ…あのっ…真田さん…!?」
「すまん…」
少女を抱き締めたまま力強い腕で放すことを許さず、真田は詫び、そして続けた。
「…ならば、もう嘘はやめよう。ただ、お前に一つ頼みがある」
「…な…何ですか…?」
身体が溶けそうな程に熱くなり、このまま彼と溶け合ってしまうのではないかとありえないことを本気で心配し、どぎまぎしながらも何とか桜乃は言葉を返すことが出来た。
その彼女の耳元で、男は囁くように願う。
「…俺を頼れ」
「え…」
「何でもいい…お前が誰かに頼りたい、相談したいことがあったら、まず俺を頼ってくれ…そうしたら、俺も嘘をつかずとも済む」
「それは…」
どういうことですか、と言う前に、桜乃は更に強く抱き締められる。
まるで少女の拒絶を拒み、畏れているように。
「真田…さん…?」
「…頼む」
「……」
苦しい程に抱き締めてくる男の腕の中で、桜乃の頬がうっすらと赤く染まる。
彼が自分に抱く感情が何であるのか…それは確信ではなく、自分で確かめるだけの覚悟もまだない。
だけど、この腕でしっかりと自分を捕らえてくれるのは、間違いなくこの人の優しさ。
信じるに十分足りるもの。
「…はい」
信念を込めて、桜乃は真田の腕の中で頷いた。
「じゃあ…頼らせて下さいね」
「う…うむ」
ほぅっと軽い息が耳元を掠めた。
彼の安堵のため息だと気付くと同時に、ようやく桜乃は優しい檻から解放される。
「…す、すまんな…いきなり…その…」
彼本人も、無我夢中だったのだろう。
大胆なことをしていながら、今は桜乃より狼狽しているようにも見え、いつもの彼とはまるで雰囲気が違う。
そこには皇帝としてではない、ただの中学三年生としての真田弦一郎の姿があった。
「い、いえ…ちょっと、驚いただけです…」
まだ赤い頬のままで桜乃はふるふると首を振る。
「…その…用事は、それで全部か…?」
それなら、そろそろ行かなければ、と合宿所へと足を向ける真田を桜乃が呼び止めた。
「あの、真田さん」
「ん…?」
「一緒に行ってもいいですか?」
「…構わんが…また仕事を頼まれたか?」
「いいえ」
頬を染めたまま、桜乃は首を傾げて照れるような笑みを浮かべた。
「…真田さんと、お話したいんですけど…ダメですか?」
「!!」
早速のお願いに相手は一瞬絶句したが、何とか気を取り直して、やはり照れたような笑みを浮かべる。
「いや…では行こうか」
「はい」
そして、桜乃は真田の隣に立って、共に歩き出した。
『…しかし、俺は本当に口下手だからな…』
『慣れますよ。また、空いた時間には私とお話したらいいんです』
『む…そ、それは…そうだが…』
『じゃあ…私に、テニスを教えてくれませんか…?』
『お前に?』
『はい』
日の射す小路、穏やかな時は流れ、睦まじい会話は続いてゆく…
了
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