「か、からかうな、全く…たるんどるぞ」
最後に少しだけ力が強くなってしまったが、桜乃の顔と頭、腕の大体の水分を拭き取ってやると、真田はすっかり湿り気を帯びてしまったタオルをしまってから空を見上げた。
ほんの少しだけ雨足は弱くなった様だが、まだまだ止むには程遠い。
「…止むのは当てにならんか」
「仕方ないです、後ひとっ走りですよ」
「折角拭いてやったのに、それでは元の木阿弥だろうが…」
はぁ…とため息をつきながら、真田はコートの前を開く。
どうもこの子はこちらに心配をかけさせまいとしているのだろうが、その方向が微妙にずれている。
「お前は目が離せないな…ほら、入れ」
「え…?」
意味が分からずに聞き返した時、既に桜乃は前に進み出た真田の開かれたコートの中にすっぽりと取り込まれてしまっていた。
「わ、ぷ…さ、真田さん!?」
「前を向け。少し狭いが、我慢してくれ」
どうやら真田は桜乃をコートの中に入れて歩くつもりらしく、彼女の顎下までのボタンを留めると、改めて鞄とバッグを抱えた。
流石にLLサイズ、少しばかり窮屈だが、彼の目論見は不可能ではない。
(わ、わ…身体、くっついてる!)
真田の厚い胸板が自身の背中に密着している事実を感じ、桜乃の顔がぼっと熱くなるが、向こうは全く気付いていないのか、特に何事もなかったように歩き出す。
「ゆっくり歩くから、転ばないように気をつけろ」
上から覗き込む真田の顔も近く、桜乃はひたすら首を縦に振った。
そして、言われた通り、彼の足のリズムに合わせて歩き出す。
一人の時とは違って多少のコツは必要だったが、それが分かってくると二人ともが危なげなく歩けるようになった。
「…何だか運動会の競技種目みたいですね」
「ああ、そう言えばそうだな…まぁ、今はあれ程に急ぐ必要も無いが」
「はい、結構、息ぴったりですね私達」
「む…そ、そうか?」
「はい」
歩きやすいですよ、と微笑む桜乃に、真田も安心したような笑顔を見せた。
「…寒くはないか?」
「いいえ、全然…凄くあったかいです。真田さんが、一緒ですから」
「え…」
桜乃のはにかむ笑顔と嬉しそうな声が、真田の心の芯を容赦なく直撃する。
テニスや武術に関しては、生半可な攻撃にはびくともしない男だが、この時ばかりは事情が違った。
彼を襲ったのは、勝負や技など全く関係ない、しかしそれよりも心を強く揺さぶるもの。
そして、真田がまだ慣れないながらも、決して嫌いではないものだった。
だからこそ、桜乃の言葉を無碍には扱うことは出来ず、彼は必死に言葉を探す。
「…・そ、そうか……なら、いい」
かろうじてそれだけ言った後、真田は少し考え込み、ひそりと遠慮がちに付け加えた。
「俺も…お前がいるから、とても暖かい…」
「真田、さん…」
「……」
それ以上は照れ臭くて言えなかったのか、真田は微妙な顔つきで再び歩き出した。
「……」
「……」
二人ともが、どちらともなく無言を守った。
二人の足が踏み出す度に、確実に彼らは駅へ近づいていく。
(もうすぐ…か…)
(…もっと、こうしていたい・・な…)
当たり前の事だしそこが目的地の筈なのに、二人とも、今はそれがとても残念だった。
しかし、そんな二人の願いも空しく、彼らはやがて駅へと到着する。
雨の中、やはり人影はまばらだったが、その数少ない利用者達は二人の姿を見る暇も無いのか、大急ぎで構内へと駆け込んでいく。
「あの…真田さん。有難う、ございました」
「う、うむ…」
少しだけ元気を失くした声で、桜乃は背を向けたまま礼を言う。
どちらにしろ、この狭い空間ではコートの前が開かれない限り、真田の方へと振り向くことは不可能だったのだが。
「…じゃあ、私、行きますね」
どさっ…
「…!?」
鞄とバッグが地面に落ちる音がした。
それを持っていた筈の彼の腕は、今は自分を包み込み、抱き締めている。
…動け…ない…
「…真田…さん…?」
「……」
そ、と男の腕に触れる少女の手は、やはり少し冷たかった。
「…離すべきなのだろうが、な…」
笑みさえ含んでいる後ろの男の声は、それとは相反する苦渋の色も匂わせている。
「お前がこんなに冷たいから、俺まで酷く不安になる…もう少しここにいろ」
「……」
振り返らず、言葉も出さず…しかし目の前のおさげ頭はこくんと首を縦に振って、ぎゅ、と真田の腕を握っていた手に力を込めた。
(…竜崎…)
自分は卑怯だ。
こんな卑怯な言葉でお前を束縛しているのに、それでもお前はまだ俺に優しく触れてくれるのか。
そんなお前だから…
『離したくない』
その一言が言いたくて、言えない…
理由はもう分かっているのに…な。
だが、今はまだ無理でも、俺はいつかお前にそれを言いたいと思う。
お前が受け入れてくれたら、いいのだが……
「……っ」
時間が長くなる程に未練は募る。
真田は、まるで意志を持った腕と戦うように、ようやく桜乃から両のそれらを離した。
「…驚かせてすまなかった」
「い、いいえ…」
コートの前を開いて桜乃を自由にすると、真田は鞄などを持ち上げながら相手に詫びた。
対する桜乃は相手に向き直ったが、その顔は出会った時とは対照的に真っ赤に染まっている。
「…気をつけて帰ることだ…家に戻ったらすぐに身体を暖めろ、風邪を引かないようにな」
「わざわざここまで送って下さって、有難うございました…真田さんも、気をつけて帰って下さい」
それ以上は、互いに語る言葉もなく……
一礼して、桜乃は時々寂しげにこちらを振り向きながら駅構内へと消えていき、真田もまた、そんな彼女の表情を見る度に動き出したくなる自分を必死に押さえ込んだ。
「……・」
桜乃が消えた駅には最早何の未練も無く、真田は改めて家路へと向かったが、何となく身体が軽くなった感じがした。
きっと、コートの中が広くなって自由が利くようになったからかもしれないが、多分理由はもう一つ。
彼女が傍にいたことで満たされていた心の何処かが、ぽっかりと空になってしまったからだ。
名残の温もりはちゃんと胸に残っている。
手を当てると、そこに彼女の温もりを直に感じることが出来るほどに。
しかし、別れた今は…
「…こんなに寂しい思いをするとはな」
責任を他人に押し付けるのは主義ではないが、こればかりはお前の所為だ、と一人笑う。
それでも。
寂しくても、やはり真田の意志は前を向いていた。
(また、お前に会うのが楽しみになった…)
何度会い、何度別れても、俺は必ずそう思う。
そして会う度に、その気持ちは大きく強くなってゆく…
いつかそれが心の中で弾けた時に、俺はお前に自分の想いを伝えるのかもしれない。
歩む真田がふと気付いた時、あれだけ降っていた筈の雨がもう止もうとしていた。
「…短い間だったが…まぁ、良い時間だった」
彼女と何にも代え難い貴重な時間を過ごせたのだ、雨とコートに感謝しよう。
忌々しいと思っていたが、何が幸運に変わるか分からないものだな、と薄く笑い、真田はゆっくりと雨の止んだ道を歩いて行った…
了
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