愛の不可侵領域
真田弦一郎
立海大附属中学 男子テニス部副部長である彼には、もう一つの肩書きがある。
「おはようございまーす」
「うむ、おはよう」
一月の或る日の早朝、真田の姿は学校の校門正面口にあった。
別に罰を受けたりしている訳ではなく、これも彼の重要な仕事の一つなのだ。
「あ、風紀委員長だ」
「今日は真田先輩が当番かぁ。こりゃ気合いれないと、だな」
校門に近づいて真田の姿に気付いた生徒達の口から、小さく声が漏れる。
そう、真田はテニス部副部長という大任の他に、生徒会における風紀委員長の務めも果たしているのだ。
いつものようにビシッと決まった服装と姿勢は、寒い中にあっても聊かも隙が無い。
背筋が伸びた真田の姿は、周囲に嫌が応にも彼の生き方そのものを知らしめ、鋭い眼光は、誰の、どんな心の緩みも見逃さないという厳しさに満ちていた。
「杉山、袖が捲れているぞ。ネクタイも曲がっている」
「うわっと、すみません!」
流石に竹刀を持ってスポ根丸出しといった、過去の熱血アニメみたいな指導はないものの、その芯の通った声一つで生徒達は即座に襟を正す。
反発がないことはない。何処にでも権力に反対したい思春期の子供はいるものだ。
しかし、やたらと年の差や立場を振りかざして生徒を押さえつけようとする一部の教師とは異なり、真田の指導はしっかりと筋が通っているし、生徒の言い分にも耳を貸す度量がある。
しかも風紀の番人としてのお手本の生活を彼自身が実践している以上、一部の反発もただの言いがかりに終わってしまうのだった。
寧ろ、自分と同じ生活を他の生徒に要求しない分、真田は完全な堅物ではないと言える。
もしそんな事をしでかしたら、三日と経たずに立海の校舎からはほぼ全ての生徒が逃げ出してしまうだろう…
「もうすぐ始業時間ですね、今日はここで終わりにしましょうか?」
真田と同じ風紀委員の男子生徒が彼に声を掛けたが、男はその場から動こうとはしない。
「いや、俺はもう少しここにいよう。お前達は先に上がってくれ。当番、ご苦労だった。授業に遅れないようにな」
手伝ってくれた生徒達に薄く笑いながらねぎらいの言葉を掛けた後、真田はまた前を見据えてじっと佇む。
「は、はい。ではお先に」
言葉を受けた彼らは、真田に一礼して校舎の中へと向かっていく。
『なぁ…最近真田先輩、よく笑うようになったと思わないか?』
『あ、お前もそう思う? 厳しいのは相変わらずだけど…』
『殆ど気付かないぐらいの変化だけどな』
校舎の中に入っても尚、ひそひそ声で話すのは、真田の人間離れした地獄耳を知っているからだ。
『けど、朝の検査の時もそんなに恐くなくなったって噂も聞くぞ』
『雰囲気が違ってるのかねぇ…』
『赤也〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!! 待っていたぞこの遅刻常習者! 名門立海テニス部の名に、泥を塗る気か貴様は〜〜っ!!!!』
「ぎゃ―――っ!! 今日は副部長の当番だったんスか!?」
突然校門の方から聞こえた怒声に、内緒話をしていた生徒達が例外なく飛び上がる。
続いて聞こえるおののいた声は、テニス部のトラブルメーカーでもある二年生エースのものだった。
その二年生が結構な実力者であることはテニスを知らない生徒達の中でも有名で、彼が真田副部長を心底恐れているというのもまた、周知の事実だった。
「…あ〜〜〜、だから残ってたんだ、委員長」
「指導者っていうより、殆ど保護者だな、ああなると」
その騒ぎは、彼らだけではなく、真田の声が響いた他の教室の面々にも届いていた。
或る意味、立海名物と言ってもいいかもしれない。
「弦一郎の一喝は、俺が戻ってきても健在だね」
「逆にお前が戻って来てから一層磨きが掛かっているぞ…周囲の民家から苦情が来ないといいが」
窓から真田の様子を笑って眺めているのは、テニス部部長の幸村だ。
隣にいる参謀の柳は、真田の声のデシベルを正確に判断した上で幸村の言葉に応じたが、相手はくすくすと何でもない事のように微笑む。
「まぁ、いいよ。騒音については後で俺の方からも言っておくから。それに、あれがない弦一郎も想像出来ないしね。風紀委員長の仕事もしっかりこなしてるみたいだし、やっぱり頼りになるよ」
「そうだな…ただ、多少融通が利かないという欠点もあるが」
「そうかな…話せばちゃんと聞いてくれるのに」
(まともに面と向かって話せる生徒がいないのも、大きな原因かもしれないが)
「幸村、ちょっと」
心の中で柳が呟いた時、隣の若者が同級生に声を掛けられてそちらを振り向いた。
「? 何?」
「ちょっとお前に話したいってヤツが来てるんだけど」
同級生の男子がそう言いながらくい、と親指で廊下を示す、と、そこには数人の女子生徒が並んでおり、彼のことをじっとやけに真剣な面持ちで見ていた。
幸村の記憶にはない顔ばかりだ。
因みに幸村はこの学校の中でもダントツに女子に人気があり、何処へ行っても取り巻きが存在しているのだが、彼本人は誰も無碍には扱わない分誰を特別扱いする様子もなく、全ての生徒に平等に、博愛主義を貫いている。
ただし、最近はたまに訪れる青学の女子生徒がお気に入りで、部員達も揃って彼女を可愛がっているとの噂もあるが、あくまで噂であって推測の域を出ていない。
「なんかさ、聞きたいことがあるってよ」
「有難う…何かな?」
ぽつりと呟いた幸村に、相手の男はにやにやと笑う。
「何言ってんだよ色男。この時期、女性陣が聞きたいのはチョコの好みだって相場は決まってるだろ?」
「まさか」
知らない人達ばかりだもの、と断って、幸村は女性達のところにゆっくりと歩いて行く。
知らないというのは、時として罪になる。
「俺に、何か用?」
廊下に出て女子生徒たちの前に立った幸村に、まず一人の生徒が話しかけてきた。
同じ三年生のようだが、クラスが違うと殆ど面識も無く、ほぼ初対面と言っていいだろう。
「あの…幸村君って、真田君とも親しいよね」
「? うん、そうだけど…弦一郎がどうかしたの?」
「バレンタインデーのことについて、何か言ってなかった?」
「弦一郎が?…いや、別に」
少し考え込んで、幸村は首を横に振った。
それは確かなことだ、そんな話題について、これまで彼から話を振られたことなどない。
(何だろう? 一体…)
幸村の心に単純な疑問が浮かぶ。
バレンタインデーという行事は確かに男女ともに重要なものらしいが、少なくとも自分が知る限りでは、あの男は寧ろそういうイベントには疎い部類に入る。
逆にそういう言葉を聞いたら、『たるんどる』と一喝して終わる可能性も高い。
浮ついた心を良しとせず、ひたすらに精進の道を行く彼は、バレンタインなどというイベントとは最も縁遠い場所に立っている。
しかしもてない男の僻みというものでもなく、彼は恐がられているように見えて、あのストイックさが一部の女性に受け、十分にもてる男の仲間に入っているのだ。
(残念ながら、本人は全く気付いていない様だけど…)
人の事は言えない筈の幸村が、もう一度女生徒たちを見下ろすと、今度は別の一人が不安げな表情を見せて、自分達の質問の理由を話し始めた。
「噂なんですけど、今年、バレンタインデーのチョコの持込を禁止する動きがあるって…その日に、風紀委員が持ち物チェックをするって話があって、本当なのか…」
「職員室で他の生徒が聞いたみたいで、近く職員会議でも決まる方向だから、もしかしたら委員長の真田さんが話を聞いてないかなって思ったんです」
「ああ、なるほど…弦一郎本人は何か言ってたの?」
幸村の質問には誰も答えず、ばつが悪そうに下を向く。
きっと、誰も聞けていないのだろう…恐くて。
「?」
首を傾げる幸村の後ろに歩いてきた柳が、女生徒達にさりげなく助け舟を出した。
「弦一郎も微妙な立場だからな…彼女達もなかなか本人に直接には聞きづらいのだろう」
「蓮二…ああ、そうか…そうだね」
生徒と教師の橋渡し役でもある委員長という立場は、確かにどちらにも公平でなければならず、それ故の対応の難しさを察した幸村は、あっさりと柳に同意した。
無論、隠された理由もあったのだが、それについては出来た参謀は口にしない。
「…弦一郎からは俺達はまだ何も聞いていない。おそらく決まった時には、改めて全校生徒に連絡をするだろう」
「何とか止めることは出来ませんか!?」
「お二人は真田さんのお友達だし、同じテニス部員でもありますから、何とか止めるように言ってもらえませんか?」
やはり、本来の目的はそこだったか…と参謀は心で呟いた。
懇意にしている自分達二人の意見なら、あの風紀委員長の心も動かせるのではないかと期待して来たのだろう。
しかし、それは無理というものだ。
参謀の心の中の判断と同じ答えを、幸村が出した。
「残念だけどそれは難しいと思うよ。俺達は確かに同じテニス部員ではあるけど、風紀委員じゃないから、その方面での過度の干渉は出来ない。公平性も欠くからね」
尤もな意見である。
「それに俺達は彼の親友ではあるけど、だからと言って何でも聞いてもらえるものじゃない。弦一郎が駄目だと判断したら、誰であっても彼本人の意思を覆すことは難しいと思うよ。そういう人間だから」
長年付き合ってきた親友だからこそ言える言葉であり、柳もそれに異論はないと頷いた。
押し黙る女子に、気の毒そうに幸村は首を傾げる。
「ごめん、力になれなくて」
「…いえ、すみませんでした。確かに幸村先輩の言う通りですから…有難うございます」
精一杯の感謝の言葉だったが、やはり元気がない。
もし可決されたら、年一回の最大の告白の機会が失われる相手にしてみたら、ゆゆしき事態なのだろう。
自分達に例えたら、テニスの大会決勝戦がスポンサーの都合で一方的に取りやめられる、というようなものだろうか?
(暴動起こしてでもやらせるかもしれないけどね…ウチの部員なら)
「どうしても納得出来ないという事であれば、職員に意見書でも出したらどうだ? 数を揃えて頼めば、生徒の意見として尊重はされるだろう」
部長が物騒なことを考えている間に、参謀が女子にささやかなアドバイスをしたが、それでも彼女達の愁眉は晴れなかった。
「それも考えたんですけど…陣頭に立ってるのが結構強引な先生で、そんなの相手にされないと思います」
「正直あの先生の意見にまともに対抗できるのって、風紀委員長の真田先輩ぐらいで…だからもし先輩がダメ出ししたら、もう決定と同じなんですよ」
「…そうなんだ」
気の毒な話だが…それでも幸村達にはどうにも出来ない。
真田はバレンタインが嫌いではない、が、興味もないのだ。
生徒にとっては一大イベントであっても、学業に関係無いものである、と彼が判断した場合には、教師側の意見に傾いてもおかしくない。残念ながら勝算は低いだろう。
「…一言だけ…何とかならないか言ってみるよ」
幸村の言葉に、女生徒達がぱっと表情を輝かせた。
「精市?」
柳の呼びかけに、彼は微笑んで相手に首を振った。
「一言だけ、だよ…そのぐらいなら別にいいだろう。決めるのは弦一郎、それは変わらないんだから」
「下らん、何を言い出すかと思えばそんな事か」
その日の部活動中、さりげなくバレンタインチョコの持込禁止案について切り出した幸村に返ってきたのは、予想していた通りのつれない返事だった。
「俺の方にはまだ話は来ていないが、正直チョコの持込を許可する理由はないし、その案件に反対する理由も無い。生徒の指導をする上で必要な措置と判断されたのなら、俺に拒む理由も無かろう。どうしても渡したければ、家に行くか郵送でもしたらいい」
「それは確かにそうなんだけどね…それを楽しみにしている人達も多数いるって事を知っておいてほしいと思ったんだ」
一言だけ…と言いながら、幸村は一言以上に真田に物申している。
「…精市? お前がそんな事を言い出すとは珍しいな」
「…別に大した意味はないよ。ちょっとね、気になっただけ」
「ふむ…」
大した話題ではないと判断した副部長は、他の部員の様子を見るためにその場をさっさと離れていき、そこには部長と、二人の会話を見ていた参謀だけが残された。
「…やっぱり駄目か」
「予想通りの展開だったな…」
苦笑した幸村は、あの堅物の親友の背中を眺めつつ、ぽつりと呟いた。
「……となると、後はあの子に賭けるしかないね」
部長の不思議な一言を知る由もなく、真田がコートを回って指導していると、休憩している部員に混じって一人の少女がいる事に気付いた。
「む? 竜崎?」
いつの間に来ていたのか、青学の一年生の少女がベンチに座って、自分と同じレギュラーの丸井と何かを親しげに話している。
(何をあんなに楽しそうに…)
休憩中であれば何をしていても自由なのだが、彼らの様子が異常に気になり、真田は足早にベンチへと歩いて行った。
少女は竜崎桜乃と言い、青学のテニス部員と縁薄からぬ存在なのだが、それは立海テニス部側の人間にとっても同じ事で、夏から懇意にしている人物だった。
特に、今まで女子には何かと敬遠される事の多い真田ですら、桜乃の誰に対しても分け隔てない優しさと心配りには感嘆しており、心もとない外見もあって、何かと彼女を気に掛けている。
そして最近の彼は、何故か相手が他の男子といると、それだけでやけに気になって落ち着かなくなる様子だった。
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