近づいていくに従い、賑やかな丸井の話が聞こえてくる。
「いいか? 最初に言っておくけど、チョコの命は何より香り! チョコの湯煎は六十度まで! 早く溶かしたい気持ちは分かるけど、あんまり高温で溶かしたら、風味と香りが飛んで酷い状態になるからな! 大体初心者はここで失敗するし、お前みたいな中級者でも油断するところなんだ」
「はいっ!」
 頷いて返事をする桜乃も、今日はやたらと元気よく、気合が入っている様だ。
(チョコ? もしかして…)
 更に近づくと、やはり二人は、手作りチョコの臨時講習の真っ最中だった。
 丸井はテニスも得意だが、お菓子作りの腕前もなかなかのもので、その腕を見込まれて桜乃に教示を行っているのだろう。
 内容を聞いたことで、疑問の一つは解決した真田だが、二人はまだ彼がいることに気付かない様子だ。
「…まぁあとはセンス次第だな。おさげちゃんならスジがいいから、上手く作れると思うぜ。頑張れよ」
「はい。頑張って作ります」
「講習代はケーキワンホールな」
「分かりました、次にちゃんと持ってきます」
「よし」
 何とも色気のない会話だったが、真田は言いようの無い不安に襲われる。
(チョコ…バレンタインのチョコ…? 竜崎が、誰に…?)
 いや、待て…優しい彼女のことだ、きっと個人ではなくみんなに平等に作るのだろう、きっと…おそらく…多分……
 無意味な予想と分かっていても考えることを止めることが出来ず、ぐるぐると頭の中が回りだす。
「…美味しいチョコ作って…勇気、出します。一年に一回のこと、ですから」
「っ!!」
 横顔の桜乃が頬を染め、伏し目がちにそっと呟く姿は、そんな揺らぐ真田の心を速攻でノックダウンしてしまった。
(誰に…!?)
 珍しい相手の表情を見られたことは嬉しかったが、彼女にチョコを作る個人の対象がいると察したことは少なからずショックで、真田はそれ以上聞くまいと大きく咳払いをする。
「お? 真田?」
「え…きゃっ!」
 ベンチの背後にいつの間にか立っていた副部長に、丸井はひょいっと片手を上げて挨拶したが、桜乃は大いに驚いた様子で、ベンチから立ち上がりながら声を上げた。
「さっ…真田さん?」
「気付かなかったな…来ていたのか、竜崎」
「はい…お、お邪魔してます」
 ぺこんとお辞儀をする行為がどことなくぎこちなく、どうやら真田に今までの会話を聞かれていた可能性を疑っている様子だ。
「…丸井、次にコートが空いたら切原と試合だな、準備をしておけ」
「ほい、んじゃな、おさげちゃん」
「あ、有難うございました」
 さっさとラケットを持ってベンチから離れる相手に代わり、今度は真田がベンチへと腰掛けた。
「どうした? お前も座るといい。見学に来たのだろう?」
「はい…」
 おず…と隣に座った桜乃と、二人で暫くコートの試合を見学する。
「仁王さん、今日は左手でやってるんですね」
「ああ。主砲も怠ることなく鍛えておかねばな…利き腕だからといって疎かには出来ん」
「……」
「…竜崎」
「はい?」
 声を掛けたものの、少し戸惑った様子で真田は視線を彷徨わせていたが、やがてそれを桜乃へと向けて話を切り出した。
「その…女というものは、どうしてバレンタインにこだわる?」
「えっ!?」
 やっぱり聞かれてた!?と表情で語る相手に、真田は慌てて説明を加えた。
「いや! その…俺は立海で風紀委員の仕事もしているが、今年は職員からチョコの持込を禁止する案が出ていてな…それ程にこだわる様なものかと疑問に思っただけだ。どうも俺は…そういう話についてはよく分からん」
「あ、ああ…そうですか…風紀委員のお仕事、ですか」
「そうだ…で、どうだ? 女子のお前はどう思う?」
「…はっきり言って、困りますね」
「困る? 一年に一回とは言え、別に渡す場所を学校にこだわる必要はないだろう」
 そこがどうにも分からないと言う委員長に、一人の女生徒ははぁっと落胆した様な息をついた。
「乙女心です…こだわる必要がないのなら、それこそ家のポストに入れたり、郵送したらいいんですから。それに、渡すにはそれなりのシチュエーションも重要なんですよ。いつもは机を並べて勉強している場所で、その日だけはいつもと違う勇気を持って、家で努力して作ったチョコをあげて告白するっていうのは、乙女なら一度は夢見ることなんです」
(ぜんっぜん分からん…!)
 理解しようという気はあるのだが、聞き始めて数秒で既に理解不能になってしまい、真田は難しい顔でこめかみを押さえつけた。
「…別に、その日でなくても…あー・・好きな人には贈り物は渡せるだろうが。何故、その日なんだ。そう限定されると、逆にその日しか愛情がない様にさえ思えるぞ」
「その日だから、意味があるんです」
 ぷーっと頬を膨らませて、桜乃は乙女の代表として真田に訴える。
「例えば、別に何でもない日に無口な女性からチョコを貰ったら、真田さん、どう思います?」
「…毒でも入っているのかと」
「さ・な・だ・さ・んっ!!」
「なっ、何故怒る!?」
 乙女心どころか普通の人間の感覚とも違う副部長は、珍しく本気で怒っている桜乃にただ戸惑うばかりだった。
「竜崎さんが、真田副部長に怒っている様ですね」
「ほほう、竜崎も成長したもんじゃのう。これからが楽しみじゃ」
 向こうのコートで、試合の合間にその様子を見ていた柳生達が二人を面白そうに眺めていたが、全く止める気はなく、完全に傍観者を決め込んでいる。
 確かに、初対面の時には真田に対して半泣きの状態だった少女だが、今では全く物怖じせずに相手に向かっている。
「んも〜〜、普通はただチョコ貰ったってだけで終わるんですよ。でも、バレンタインに貰ったら、それだけで彼女の気持ちが分かるでしょ? 相手が無口な女性でも」
「む……」
「だから、バレンタインって言うのは、大胆な女性でも奥手な女性でも、勇気を出して想いを伝える事が出来る一大イベントなんですよ」
「……」
 えへん、と胸を張って説明する桜乃が実に楽しそうで、嬉しそうで、真田はその姿にこそ目を奪われる。
 バレンタインというのは、かくも女性の心をここまで浮き立たせるものなのか…?
「…普通、毒入れるなんて考えません」
「う……す、すまん」
「そういう乙女の気持ちを全く考えないで、一生懸命作ったチョコを取り上げるなんて、何の権限があってそんな事するんですか? 一度見てみたらいいんです、相手にチョコをあげるまでにどれだけ私達が悩んだり努力したりしているのか」
「……お前も?」
「…え?」
「…お前もそんな事を思いながら、チョコを作るのか? 誰かのことを考えながら」
「そっ…それは……ノーコメントです」
 コメントなど無くても、真っ赤な顔を見たらおのずと答えは知れている…
「……」
 胸に小さな痛みを抱えながらも、真田はそんな少女を笑って見つめていた……


 翌日…奇しくもその日は、一室で風紀委員の定例会が行われていた。
「では、次の議題について…」
 黒板前の正面の席に座り、円卓状に囲まれた席に座る全風紀委員達をまとめて会の進行を務めていた真田が、部屋のドアが開かれたことでそちらに視線を向けた。
 続けて、委員の生徒達も視線を彼と同じく動かすと、そこには一人の教師が立っていた。
 いつか幸村に女子達が訴えていた、強引なやり方が有名な教師だった。
 教頭の地位も近いと言われている程に手腕は認められているが、確かにその強引なやり方は、少なくない生徒達の反感を買っている…が、真田にはあまり関係の無いことだった。
「真田君、少しいいかな」
「はい」
「今回職員会議で、バレンタインデーのチョコは持ち込み禁止ということで決まった。そもそも勉学に必要ない物を学校に持ち込むこと自体がけしからん。当日は、風紀委員の方でも厳しく取締りをお願いしたい」
「……」
 風紀委員の中でざわ…と小さなどよめきが起こり、うち数名の生徒が教師に反抗的な視線を向けたが、相手は全く動じていない。
 真田の性格から快諾することは目に見えており、彼が引き受けたら実質上、この話は決着するからだ。
 教師の言葉を聞き、真田は手にしていた書類を机に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「……お断りする」
「!…なに?」
「嫌です」
 てっきり彼が引き受けると思っていたのは教師だけではなく、その場にいた委員達もだった。
 だからこそ、この時起こったどよめきは、最初のそれとは比較にならない大きなものになった。
『委員長が断った…!』
『どういう風の吹き回しだ…!?』
 円卓の動揺は完全に無視して、真田はきっぱりと教師に断る。
「刃物や薬物が持ち込まれるとあれば、幾らでも手をお貸しする。しかしたかがチョコ程度のもので、風紀委員の手を煩わさないで頂きたい。たった一日のチョコぐらい、持込みたければそうさせたら宜しい」
「し、しかしだね、チョコなんて勉学に不必要なものなど持ち込ませては、教育の現場が…」
 風向きが一気に変わった事で焦った教師は、何とか相手を懐柔しようと言葉を繋げたが、真田は一向に首を振る様子は見せなかった。
 寧ろ、自分が生徒達の最後の盾、とばかりにしっかりと踏ん張っている。
「チョコで崩れるほど、立海の教育現場は脆くはない筈。寧ろチョコさえ持ち込ませない懐の狭さは、逆に生徒達の反発や疑心を招き、それこそが今後の教育の崩壊に繋がりかねない。俺は男ですから、チョコの作り方については知る由もありませんが、年に一度、それだけ努力をする女子の心意気ぐらい認めてあげてもいいでしょう」
『かっ…』
『かっこいい〜〜〜〜〜〜!!!』
『惚れたーっ!!』
 無言の喝采が響く中で、真田は最後に教師に付け加えた。
「無論、先生が俺達生徒の為を思って主張されていたことは十分に理解しています。今回は助力出来ませんが、また別の形で力になります」
「む…そ、そうかね」
 言われっぱなしでは面目も潰れていただろうが、真田が上手く取り成した事で然程大きな騒ぎにもならずに、教師はそのまま去って行った。
「…では、次の議題に」
 移ろうと言う前に、今度こそ部屋中に大きな拍手喝采が響き渡った。
「委員長! 凄いです!!」
「俺達、感動しました!!」
「ちゃんと私達のこと、分かってくれてるんですね!?」
「え……」
 それから暫く委員会の進行は中断し、真田風紀委員長は理由も分からないまま、呆然と全員の賞賛を受けていた…


 バレンタインデー当日
 例年通りの光景が今年もまたあちらこちらで見られる中、真田には例年以上の数のチョコが届けられていた。
 例の委員会での彼の武勇伝が校内に広がり、それが結果として男を上げる結果になったらしい。
 しかし本人は相変わらず、『全く理解出来ん』と頭を捻りながら、いつもと変わらず部室へと向かっていた。
「真田さん」
「ん?」
 部室に行く途中の外の道で不意に呼びかけられ、振り向いたところで見慣れた顔に会う。
「竜崎…」
「聞きましたよ、真田さんが今年のバレンタインデーの立役者になったって」
 笑いながらとことこと歩いてくる少女に、真田は決まりが悪そうに視線を逸らした。
「べ、別に大した事ではない…みんなが騒ぎすぎているだけだ」
「そんな事ないです、格好いいですよ。それに相手が分かってくれてるって事は、凄く嬉しい事なんです」
「それは…お前のお陰だ」
「え?」
「…お前の言葉がなければ、引き受けていたかもしれん…本当の立役者はお前だ」
 誰にチョコを渡そうと、お前のあの時の表情が、何より俺を動かした……
 気恥ずかしい事を言いそうになって口元を押さえる真田に、彼を見上げていた桜乃はちょっとためらいがちに下を向いてから、赤い小箱を差し出した。
 ピンクのリボンが掛けられた、明らかに贈り物と分かる化粧箱。
「良かった…取り上げられる形で渡すなんて、嫌でしたから」
「え…?」
「…義理じゃ、ないですよ」
「!!」
 赤い顔を恥ずかしそうに伏せて、ひそりと囁く相手にどきりとする。
 義理ではないチョコを貰ったのはこれが初めてではなかったが、胸が苦しくなったのは今だけだ。
「あ…その……竜崎…?」
 震えそうになる手を何とか押さえながら、真田は化粧箱を受け取った。
「…今日、渡す意味…分かってくれますか?」
「あ…ああ」
 お前に教えてもらったからな…
 答える真田に、桜乃はほっとした様子で顔を上げると、そのまま照れ臭そうに首を傾げた。
「あの…他に決めた人がいたら、気にしないで下さい…ちゃんとその覚悟もしてますから」
「……」
 無言で真田は数歩踏み出す。
 そして前に立つ少女の背中にぐいと腕を回すと、優しく抱き寄せた。
「っ…!!」
「…今日、俺がお前だけにこうする意味が分かるか?」
 まるでなぞなぞを返すように問いかける言葉。
 ゲームの主導権が男に移り、少女はどぎまぎしながらこくこくと首を振った。
「え、と…あの……わ、かります」
「…そうか」
 ふ…と微笑み、真田が少女の耳元に唇を寄せ、何事かを囁く。
「      」
 それを聞いた桜乃はぼっと頬を真っ赤に染め、それを見た真田は満足そうに笑っていた…






前へ
真田main編トップへ
サイトトップヘ