親友の心配を他所に、結局その日も、真田は桜乃に指一本触れることもなく部活動を終了した。
 冬になると日がすとんと落ちるように、世界はすぐに暗くなる。
 その日も例に漏れず、空は理に従って闇のベールに覆われようとしていた。
「じゃあな」
「お疲れさん」
 皆がそれぞれ帰宅しようと急いでいる中、真田はやはり桜乃の姿を目で追ってしまっていた。
 駅までの道程はさほど距離は無いが、もしもの事が無い様に、付いていた方がいいだろうか…いや、しかし、とまたも悩みながら見ていると…
(む?)
 何となく、相手の様子がおかしい事に気付く。
 何度も鞄の中や、コートのポケットを探っては首を傾げている。
 何か、見つからないものがあるのだろうか…?
「竜崎?」
「あ…真田さん」
 背後から呼びかけると、何となく沈んだ表情の桜乃が振り返ってこちらを見上げる。
 やはり、何事かあったらしい。
「どうした?」
「あの…手袋が片方見つからないんです…多分、コートのポケットに入れてたと思うんですけど」
「手袋…」
 桜乃が見せてくれた左手の手袋は、白の毛糸で編まれたもので、甲の部分にチェックのポイントが入っていた。
 その右手のが、見つからないのだという。
「…何処で失くしたか、当たりはつけられるか?」
 真田の問いに、少女は必死に過去を辿っていく。
「ええと…ここに来る電車の中では確かに嵌めていたんですけど、降りて切符を出すのが難しくて、取ってしまってたと思います。だから、落としたとしたら多分…」
「…駅からここに至るまでの道程の何処かだな」
「はい」
 こくんと頷いた少女に、真田は殆ど考えることもなく頷いた。
「では、帰り道で注意しながら探そう。俺も手伝うから、一緒に行くぞ?」
「え…でも、迷惑じゃ」
「その程度の事なら、迷惑でも何でもない…さぁ、暗くなったら探すのも難しくなる。行こう」
「…はい、有難うございます」
 真田は桜乃を促して、駅への道をゆっくりと辿り始めた。
「こちら側に寄ってあるいていたんだな?」
「はい、そうです」
 なるべく忠実に来た道を辿ろうと、少女に繰り返し尋ねながら、いつもなら背筋を伸ばして歩いている道を今日に限っては下を向きながらゆっくりと歩く。
 店などの植え込みの中も念の為に覗き込んだり、結構入念に探したのだが、目当ての白い手袋は見つからないまま駅へと着いてしまった。
「むぅ…」
「見つかりませんでしたね…」
 気落ちした桜乃の声を聞き、真田は空を見上げ、続けて腕時計で時間を確認した。
 まだこの時間ならば……
「…まだ時間はいいか? 竜崎」
「はい?」
「もう一度、学校へ戻ってみよう。もしかしたら、向かった道の方が正確に辿りやすい分、見つかるかもしれん」
「え…でも…」
「……あの手袋は見覚えがある。以前お前が、竜崎先生に買ってもらったととても喜んでいたものではないのか?」
「!」
 自分でも忘れていた…立海で、そんな話をしていた事を…
 なのにこの人は…そんな事まで覚えてくれている…
 覚えてくれてたから、こんなに親身になって探してくれているんだ…
(ああ……やっぱり、凄く優しい人だなぁ)
 厳しい面ばかりが目立っているけど、奥にはこんなに優しい心を持っている人。
 そういう心遣いを、当たり前の様に行えてしまえる人。
 あまり近くに寄ってくれないから、時々不安にもなるけど、真田さんって…やっぱり凄いなぁ。
「竜崎…? 時間が無いか?」
 都合が悪いのかと首を傾げた相手に、桜乃ははっと我に返って手を振る。
「あ、いいえ、大丈夫です…そうですね。本当に甘えていいんですか?」
「勿論だ、俺が言い出した事なのだから」
「じゃあ…もう一度思い出しながら、歩いてみます」
「ああ、頼むぞ」
 こうなったら責任重大である。
 桜乃は数時間前に辿った道を必死に思い出しながら、更にゆっくりと歩き出す。
「人はそんなにいませんでしたから、ここの通りは向こう側に寄って歩いた事は無かったと思います。信号機を渡ったのは…あそこの横断歩道で…」
 過去を一つ一つ確認し、桜乃と真田は学校への道程をゆっくりゆっくり辿る…
 しかし…結局、手袋は見つからないまま、彼らは門をくぐってしまった。
 往復しても、見つからない…何処かもっと見つけづらい場所に落としてしまったか、誰かが戯れに持ち去ってしまったか…
「はぁ…駄目でしたね」
「これでも見つからないとは…」
 腕を組んで思案していた真田だったが、それよりもっと重要な事実に気付いて空を見上げる。
「ああ、もう空が…」
 すっかり暗くなり、星まで見え出してしまった。
 こうなってしまっては、道の両側の住宅の明かりを頼りにしても、探すことそのものが困難だ。
「これ以上は難しいな……残念だが、今日はもう帰った方がいい」
「仕方ありませんね…」
 桜乃も少しだけ残念そうにしていたが、憂い顔はすぐに笑顔の奥へと押し隠された。
 見つからなかったのは確かに残念ではあるけれど…この人の優しさを知ることが出来たから、良かったかな……
「真田さん、今日は本当に有難うございました」
「うむ…あ」
「?」
 真田に対して礼を述べていた桜乃の胸に、彼女の右手が置かれているのが見えた。
 赤い指に痛々しい白い包帯の色がやけに映える。
 そうか、右手の手袋を失ってしまったのだったな。
 あのままでは、やはり寒いだろうし、痛みもするだろう……
「……」
 どうする?と逡巡する。
 触れることそのものは恐くはない…ただ、拒まれることだけが恐ろしい。
 しかし、彼女の手を守るには、今はこうするのが一番良いことだと知っている。
 相手がこの子でなければ、こんなに惑うこともなかっただろうに…しかし、やはり看過することは出来ん、か…
 真田は、自らの左手を掲げて掌をじっと見つめると、思い切って相手へと差し伸べた。
「竜崎…」
「はい?」
「手を…そのままでは辛かろう」
「え…!」
 差し伸ばされた手の意図するところに気付いた桜乃が、頬を赤らめ、こちらを見つめる。
「……」
 やはり、拒まれてしまうのだろうか…?
 絶望が一瞬、彼の心に暗い影を落とした…すぐ後で、
 ふわ…
「…・っ」
 差し伸べていた掌に、柔らかな何かが触れる。
 見ると、桜乃が少し照れた様な、はにかんだ笑顔を浮かべてこちらを見つめながら、右手を自分の掌へと乗せていた。
 自分で差し出しておきながら、今更真田は戸惑い驚いた様子で相手を見たが、向こうは乗せた手を離すこともなく微笑んでいる。
「…あの…ちょっと、恥ずかしい、です」
「あ…! す、すまん!」
 ついまじまじと見つめてしまった男は、更に赤くなってしまった桜乃に慌てて詫びながら視線を逸らし、その代わりに静かに指を曲げて、少女の小さな手を己のそれで包み込んだ。
「…!」
 声も無く、若者は驚愕した。
 外見から想像していた以上に、小さく、柔らかい…
 年下であるとは言え、こんなに差があるとは…まるで大人と子供…別世界の人にすら思えてしまう…
(…冷たいな)
 丸井が言っていた通りだ、いや、これだけの時間外で探し物をしていたから、あの時よりもっと冷えてしまっているのかもしれない。
 決して哀れみではないが、自分に出来ることを何かしてやりたいという気持ちが、真田の心に強く湧き上がった。
「行こうか?」
「はい…」
 出来る限り優しく、しかし決して逃すことのないように、男は少女の小さな手を握り締め、熱を分け与えながら歩き出した。
 ゆっくりと…桜乃の歩幅に合わせて、ゆっくりと…
(わぁ…あったかい)
 じんわりと滲んでくる熱が、あかぎれの手を癒すように染み込んでくる。
(私の手がすっぽり包まれちゃう…大きい手…いいなぁ、何だか守られてるって感じ、する…)
「すまんな、竜崎」
「はい?」
 不意に掛けられた言葉に顔を上げると、苦笑している真田と目が合った。
「…俺はその…どうにも気の利いた話が出来ん…手も…その、お前の様に触り心地がいいものではないからな…暖を取らせてやるぐらいが関の山だ」
「真田さん…」
 切なくなる程に嬉しくなり、桜乃はぎゅ、と真田が手を握ってくれている左腕に縋りついた。
 当然、真田にとっては初めての経験である…そして桜乃本人にとっても。
「り、竜崎!?」
「十分です…私、もう十分ぽかぽかですよ…真田さんがあったかくて、とても優しいですから」
「!!」
 臆面も無くそう断言され、一瞬、真田の脳が沸騰する。
 落ち着け落ち着けと心で呪文の様に繰り返して、意識を保ちながら、男は遠慮がちに尋ねた。
「そ、うか…? し、しかし、この格好は…その…お前は嫌ではないのか?」
 こんな自分と一緒にいることは…こんなに身体を寄り添わせるのは、嫌ではないのか?
 真田の心からの問い掛けに、桜乃は笑って即答する。
「大好きですよ? 真田さんは、嫌いですか?」
「い、いや! 嫌いではない!…断じて、そんな事は…ない」
「…良かった…」
「……」
 桜乃の安堵の声が、自身の心の中の何かを解き放とうとしていた。
 止めるべきなのか…放つべきなのか…
 答えは出せぬまま、二人はゆっくりゆっくり歩き……二度目の駅前に到着した。
「有難うございました……え?」
 ここでお別れ…と思っていたのに、桜乃の手を真田が離さない…
「?」
「竜崎…その…頼みが、ある」
 お前の柔らかな手に触れて、今まで目を背けていた欲望が目を醒まし、どうにも我慢がならなくなってしまった…
「…はい?」
 視線を脇へと逸らせながら、真田がいつもより小さく張り詰めた声で、遠慮がちに願った事、それは…
「一度だけでいい…俺の我侭を聞いてくれるか?…その、お前を…抱き締めてみたい」
 もっとお前を近くに感じて、触れて…腕の中に捕らえてみたい…
「……嫌です」
「!」
 拒絶の言葉に一瞬、顔が強張った真田に、しかし桜乃はにこりと笑って続けた。
「一度だけ、なんて嫌です」
「!?…そ、れは…」
 それは、どういうことだ? 自分にとって都合の良い様に解釈してもいいのか…?
 惑う若者の前で、乙女は微かな声で伏目がちに告白する。
「…真田さんになら…私、何度だって…」
 抱き締めてもらいたいのに……
「!!」
 瞬間、真田の中の何かが暴発した。
 それは、今まで厳格な自身の戒めにより封殺されていた、もう一人の真田…武士である前に、男としての彼だったのかもしれない。
「竜崎…っ!」
 無我夢中で、男は桜乃を掻き抱いていた。
 小さな身体、柔らかな身体、傷ついた手と同じ様に儚げで愛おしい…
 拒まれることをあれ程恐れていたのに、今、少女は己の腕の中にいる…彼女の意志で。
 良かったのか……俺はお前に触れても、良かったのか…?
 ならば随分と回り道をしたものだ、お前に許されるのであれば、俺は躊躇いなどしなかっただろうに…
「…好き、だ」
「……私も…大好きです」
 一世一代の告白なのに、あっさりと受け入れられ、更に告白を返され、思わず笑ってしまう。
 俺は…自分でも気付かない程に臆病だったのだな…
 だが…それももう終わりに出来るだろうか……?


 翌日
 昨日は立海に行っていた桜乃も、流石に連日の訪問は難しく、その日は大人しく学校の授業と女子テニス部の活動に勤しんで帰宅していた。
(…真田さんに会いたいなぁ……あの手袋、何処にいっちゃったんだろ…)
 昨日、色々と未練を残してしまった所為で、何となく心が落ち着かない…
 そんな彼女に、家族から声が掛かった。
『桜乃――――っ! お客様だよ―――――っ!!』
(お客様…? 誰…?)
 不思議に思って玄関に行ってみると…
「っ!? 真田さん!?」
「あ…その、すまんな、連絡もなしに」
 殆ど立海のコートでしか会わない相手が、玄関口に立っているという珍しい光景に、桜乃は大いに驚いた。
「どうしたんですか? 何か…」
「いや、これを届けに来た」
 真田が差し出したのは、あの白い手袋だった…失くした右手の方の手袋だ。
「え!?」
 どうして…と思いつつそれを受け取る桜乃に、真田が視線を逸らしつつ簡単な説明をする。
「…道の途中の店に、届けられていたらしい…店先に落ちていたからと…」
「そうだったんですか…あれ、じゃあ、もしかして真田さん…お店を訪ねて回って…?」
 一軒、一軒…手袋について尋ねてくれたんじゃ…!
「よ、用件はそれだけだ、じゃあな」
「真田さん!?」
 本当に用件だけを終えると、真田は追求を避けるようにそそくさと玄関から出て行ってしまった。
(駄目だ…まともに顔が見れん!)
 昨日のあの時には、あんなに大胆な告白までしておいて…家に帰った頃から凄まじい羞恥心が湧き上がってきた。
 後悔ではない、それは断言できる。
 しかし、ちょっとした拍子でもあの瞬間が思い出されてしまい、正直昨日は、殆ど眠れていない状況だった。
 自分としても心残りだった彼女の手袋をようやく巡った店で見つけ、こういう自分を打破し、桜乃との距離をまた少し縮める切っ掛けを掴めるかとも思い訪ねてみたのだが…
「…全く、女一人誘うことも出来んとはな…」
「何処にですか?」
「いや、映画にでも……え!!」
 ごく自然に呟きに割り込まれ、つい答えてしまった直後に、真田は隣を歩く桜乃の存在に気付いて驚愕した。
「り、竜崎!!」
「映画ですか、いいですねぇ」
 真田のうろたえ振りを完全に無視して、桜乃はのほほんとした答えを返す。
「なっ、何でここに!?」
「あ、追いかけて来ました。しっかりお礼言ってませんでしたから…わざわざ届けて頂いて、有難うございました」
「れ、礼など…別に…」
「駅まで行くんですよね? 私も一緒に行きます」
「いや、わざわざお前まで…」
「折角ですもん…一緒にいたいです」
「〜〜〜〜〜〜」
 ことテニスに関しては何倍も真田の方が上手だが、こういう会話になると、実は桜乃の方が勝っているのかもしれない…色々な意味で。
 結局、反撃も出来ないまま、真田は彼女と暫く連れ立って歩いていたが、不意に落とした視線の先に、彼女の右手の指先が見えた。
「…包帯、取れたのか?」
「はい、まだちょっと赤くてがさがさしてて恥ずかしいですけど…」
「……」
 手を擦り合わせながら微笑む少女に、ちょっとだけ悩んだ後に、真田がおず、と手を差し出した。
「……その…繋ぐ、か?」
「! はい」
 昨日の様に、二人の手が繋がれ、再び真田の手の熱が少女の手を優しく包む。
「…俺は」
 照れ臭そうに視線を逸らしつつ、真田が言う。
「……俺は、お前の手は…荒れてても、好きだがな」
「!…あは、じゃあ、もう気にしません…私も、真田さんのあったかい手、好きですよ」
「そ…そうか?」
「はい」
「…その…竜崎、お前さえ良ければ…次の日曜に…」
 無垢な少女と、不器用な若者は、それでも仲睦まじく手を握り合って、一つの道を行く。
 冷たい風が吹こうとも、互いの温もりにふれあい、心を満たしながら……






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