「あ、しまった」
「? どうした、精市?」
 部活動が終了して桜乃を駅まで送った後になり、急に幸村が声を上げた。
「何か忘れ物か?」
 振り向いた真田に、明らかに困った顔をして幸村が頷いた。
「うん、俺とした事がすっかり忘れてた…竜崎さんは、もう電車に乗ったよね、多分…」
「竜崎に用があったのか?」
「いや、彼女にじゃないんだけど」
 言いながら幸村が鞄から出したのは、封筒に入った書類だった。
「竜崎先生に持っていってもらおうと思っていたのに…今日に限って打ち合わせの後はずっとコートにいたから、すっかりそっちに集中して失念していたよ」
 封筒に一度視線を向けた後、柳が立ち止まって駅を見遣る。
「急ぐものか?」
「出来たら早い方がいいんだけど…今からでも追いかけようかな」
「届けるだけならばお前がわざわざ行く必要はなかろう。分かった、俺が行く」
 名乗り出たのは真田だった。
「竜崎先生に届けたらいいのだな?」
「うん…渡したら分かってくれると思うよ、話は済んでいる書類だからね。けど、本当にいいのかい?」
「気にするな。道も分かっている」
 封筒を受け取り、早速駅へと身体を向けた真田に、幸村がにこっと笑って言った。
「竜崎さんに会えるといいね」
 想い人のことをいきなり切り出され、思い切り良く真田が慌てた。
「っ! な、何をいきなり、そんな…俺は…」
「書類、預けられるじゃないか」
「…」
 誤っていない事実をさらりと言われ、男ははた…と気付くと、憮然とした表情で駅へと向かう。
「よろしくね」
「〜〜〜〜〜」
 最早振り向かずにずんずんと歩を進めていった親友を、手を振りながら見送った幸村に、隣の柳が渋い顔をして進言した。
「…あまりいじめてやるな、精市」
「いや、微笑ましいから、つい…」
 どうやら親友達には、桜乃と相思の仲であることを完全に見抜かれている男は、そのまま暫くはむすっとした顔で電車に乗り込み、他の大人達すらも無自覚の内に威嚇していた。
(全く…温厚な性格だけならいいのだが)
 困った性癖を持つ親友の所業に大いに悩みながら移動した所為か、然程時間の流れを感じることなく、真田は竜崎家の最寄の駅に降り立った。
 そして、記憶している道を辿り、竜崎家へと歩いてゆく。
 その途中の道にある公園に差し掛かった時だった。
『あ〜、お久し振りだね〜』
「!?」
 聞き覚えのある声が自分に呼びかけた様な錯覚を覚え、真田がはっと公園へと目を遣ると、そこでおさげを揺らした少女が、背を向けてベンチに座っていた。
 帰り道の途中での寄り道か…
 しかし、声を掛けられたと思われるのは自分ではなく、そしてそう思われる人も彼女の周囲にはいない。
(…ん?)
 座っている相手の膝元をよく見ると、ふわふわとした毛玉が揺れており、どうやら彼女はそちらへと呼びかけているらしい。
「ん? リョーマ君はまだ帰ってないの? カルピン」
(カルピン…ああ、越前の飼い猫か)
 ようやく合点がいったと頷いた真田だったが、さて、呼びかけていいものかどうかと悩む間に、桜乃のカルピンとの会話(?)が続く。
「今日は寒いけど、カルピンはぬくぬくだね〜…ねぇねぇ、聞いて? 今日ね、真田さんに会ったの。でね、ホワイトデーのプレゼントについて聞かれたんだよ」
「っ!!」
 思わず顔を赤くした真田は、掛けようとしていた呼びかけを咄嗟に抑えた。
 相手が自分について話している…
 盗み聞きなどするものではないと思いながらも、掛ける声がどうしても出ない上に足が動いてくれない。
 男性が背後にいるのも気付かず、桜乃はくすくすと笑いながらカルピンの背中を優しく撫でていた。
「プレゼントなんて、気にしなくていいのにね。好きな人と一緒にいられたら、それだけでいいのに…だからね、今度試合の話を聞かせてもらうようにお願いしたの。そしたらその間だけは、真田さんが私の為に傍にいてくれるでしょ? カルピンもリョーマ君から試合の事とか聞いたりしてる? ねぇ…」
「……」
 少女の声が胸の奥へと滑り込み、炎を生んだ気がした。
 更に顔が赤くなってしまったことを自覚しながら、真田は足早にその場から離れる。
 どうにも…声を掛けることは憚られてしまった。
 仕方ない、やはり彼女の家に行って封筒は渡すしかなさそうだ、しかし…
「……」
 真田はその場で自身の携帯電話を取り出し、メモリーに入っていた人物への連絡を取り始めた。
「…もしもし? 蓮二か?……ああ、もうすぐこちらの用件は済む。それより、一つ頼みがあるのだが…」


 休日の立海の練習試合
 相変わらず、立海は絶対的な強さを誇り、ダブルスは二試合とも完璧なまでの試合運びで終わった。
「クソ、やっぱり強いな、向こうは…」
「次はシングルス3だろ。向こうからは順当にいけば二年生のレギュラーが出るって話だったが、そいつなら何とか…」
「……ん? おい」
 敵側のベンチでそんな会話が交わされていた時、一際大きなどよめきが向こうから湧き上がった。
『嘘だろ!?』
『何であの人がシングルス3に!?』
『こんな所で、直にプレーを見ることが出来るなんて…』
 ざわざわと、やたらと騒がしい。
「ん…?」
 相手方のレギュラー達が、コートへと目を遣ると、そこには次に試合を行うシングルスの選手が足を踏み入れていた。
 鋭い目と、深く被られた黒の帽子…竦んでしまう程の威圧感を纏った男がそこにいた。
 まるで荒野に放たれた一頭の獣の様に…
 正体を認識した途端、相手方が思わず腰を浮かせて叫んだ。
「真田―――――っ!? 副部長の真田かっ!?」
「冗談だろ!? 何でよりにもよって奴が!?」
 騒ぐ敵方の都合は全くの無視で、真田はぎろりと彼らの方を睨みつけ、肩に置いたラケットをトントンとゆっくり動かしている。
 それですら、追い詰めた獲物を前にした獣の舌なめずりに見えてしまい、シングルス3の相手は早くも心が震え上がってしまった。
「あーあー…無理だわ、ありゃ。も、完全に駄目」
 ベンチに戻ってガムを噛んでいた丸井が、逆に敵方の方を心配している様子で呟いた。
「物凄ぇ気迫だな…俺でも恐えよ、今の真田とやるのは」
 ジャッカルもごくりと唾を呑む。
「…何か心境の変化でもあったんか? 参謀?」
 笑いながら柳に呼びかける詐欺師の隣では、切原がぶすっとした顔で頬杖をついている。
 もしこの勝負で勝ったら、シングルス2の自分まで回ってこなくなる…しかし、既に勝負は見えており、結局自分の出番はなさそうだからだ。
「分からん…先日、いきなり電話が掛かってきて、強行に予定の変更を求めてきたのだ。勝負に支障はないことと、一応部員全員の承諾を得たので許可とした」
「そういう事なら、ゴネるのは止めんとなぁ、赤也」
「副部長に言われて、誰が反対出来るッスか」
 むっとしている切原に笑いながらフォローをしたのは部長の幸村だった。
 早速始まった試合は早くも真田が優位に立っており、レベルの差からも引っ繰り返ることなど有り得ない。
「次の試合では出してあげるから…それに三年生になったら、君が主導してウチを引っ張っていくんだ。たまには大人しく、先輩の試合を見学するのも後輩の務めだよ」
「…それはそうッスけど…」
「きっと、弦一郎は自分の力で勝ちたいと思ったんだろうね、今回の試合。傍観者として勝利を得るんじゃなくて、自分自身が戦って勝ったという事実がほしかったんだろう」
「そんなに強い相手とも思えないッスけど…何でそんな」
「……さあね」
 部長の笑みは、あくまで優しいまま、しかし何かを察している様子だった。


 ホワイトデー当日…
 桜乃は部活を終えた後に真っ直ぐ家に帰っていたが、それから暫くして或る一人の客人を迎えていた。
「…すまんな、急に訪ねて」
「いいえ、でも驚きました」
 夜の道を歩き、二人はある小さな喫茶店へと入っていた。
「…家の人には?」
「ちゃんと言ってきました。早く帰るようには言われましたけど、おばあちゃんが、真田さんなら大丈夫だろうって」
「む…そう、か?」
 何が大丈夫なのか少し気になるが、それについては深く追求せずに真田は桜乃と空いている席へと座った。
「えへ、こんな時間にこういう場所に来るのって滅多にないから、少しどきどきします…真田さんも、わざわざどうしたんですか?」
「う…うむ…別に、大した用事ではなかったのだが…な」
「? はい…」
 照れを隠すように視線を横に逸らしつつ、真田は桜乃に微笑みかける。
「…お前に約束していた、試合の勝利報告だ。今回は、俺もシングルス3で戦った」
「わ! 珍しいですね…でもそれなら聞かなくても分かります、完勝、ですね?」
「無論だ…お前と約束したのだ、例え勝つにしろ、無様な真似は出来ん」
「!」
 自分との約束を果たしたのだという相手の事実を知り、桜乃はとても驚き、しかしすぐに本当に嬉しそうに微笑んだ。
「覚えててくれたんですね、真田さん…」
「あ…当たり前だ」
 相手の笑顔が眩しくて、しかし自分も嬉しくて、真田はどういう顔をしていいものかと迷いながら、結局仏頂面になってしまう。
「うふふ…でも、ここに来てまで知らせてくれるなんて、思いませんでした」
「…今日は」
「え…?」
 囁くように、真田は言った。
 今日は試合の報告もあったが、しかし本当の目的は…そういうものではないのだと。
「…今日という日は、お前と一緒に過ごしたいと思った……短い時間でも、お前と二人で…」
 どんな贈り物より、お前が願ったもの…そして、俺が望んだこと…を。
「!!…真田、さん…」
「……その…」
 言葉を失う桜乃の前で、真田もそれ以上の言葉が継げずに困惑する。
 こういう気持ちを、一体どういう言葉で表せばいいのだろうか?
 国語は得意だという自負はあるが、実践となると机上のものとはやはり違うな……
 悩む若者だったが、その迷いはすぐに吹き飛んでしまった。
「…有難う、真田さん……凄く、凄く素敵なプレゼントです!」
「あ……」
 何て…嬉しそうに笑うのだろう…
 悩みや迷いを一瞬で忘れさせる程の笑顔を向けられ、真田が完全に言葉を失い、黙する。
 世界の幸せを全て手にしたかのような笑顔で、少女は目の前の男だけを見つめていた。
「い、いや……」
「…真田さん…我侭言っていいですか?」
「え…?」
「……やっぱりちょっとだけ…ここで、ゆっくりしていきたい…です」
 早く家に戻らないといけないのは分かっているけど、それでも、ちょっとだけ長く、ここにいたい。
 桜乃の我侭は、それでもやはり奥ゆかしく、ささやかなものだった。
 叶えないわけにいくだろうか、そんな相手の願いを。
「心配するな、ちゃんと帰りは送ってやる……俺も、お前と一緒にいるのは嬉しい」
「…真田さん」
 それから恋人達は、限られた短い逢瀬を、それでも心行くままに楽しみ、心に刻み付けていた。



 後日談
 ホワイトデーには訪れることが出来なかった立海に桜乃が久し振りに行くと、約束していた通りにレギュラー達が彼女に遅い贈り物をしてくれた。
 様々なお菓子やアクセサリーを貰う中で、桜乃は銀髪の詐欺師に問い掛けられた。
「何じゃ、真田からはまだ貰っとらんのか?」
「あ、いえ…その、もう、頂きましたから」
 あの日の夜に…素敵な時間を…
「……ほう」
 赤くなって無言になってしまった少女の様子に何かを察したのか、仁王は含んだ笑みを浮かべると、まぁええかと言いながら薄い紙袋を手渡した。
「じゃあ、これは俺からな。因みに他言無用じゃ、誰にもバラすなよ?」
「え…」
 そんなヤバそうなモノ…?とちょっと引きつつ、桜乃ががさりと袋の中の物を取り出すと…
「名づけて、真田の雄姿マル秘激撮セット」

『キャ―――――――――――――ッ!!!!』

 心の中で狂喜の叫びを上げた桜乃は、複数の写真に写されたテニスの試合中らしい真田の姿に釘付けになった。
「ま、お前さんはあの試合には行けんかったからのー。データ守秘の面からビデオを回す事は柳が許さんが、まぁ、写真ぐらいならええじゃろ」
「有難うございますー!!」
 嬉しーっ!!と大はしゃぎで仁王からの贈り物を受け取った桜乃は、それから何度も礼を言ってコートに向かう相手を見送ったが、その後で…
「おい、仁王?」
「ん? 何じゃ、真田」
 先程から、どうやら二人のやり取りを見ていたらしい真田が、明らかに気にしている素振りで彼に尋ねた。
「お前…竜崎に何を贈ったんだ?」
「ん?……内緒じゃ」
「……」
 やはり応えてくれない相手に、憮然とした顔を向けると、真田は再び桜乃の様子を伺う。
 どうやら、あんなに喜んでくれる贈り物があるのなら、自分も贈ってみたいと思っているらしい。
 それを簡単に見抜いた詐欺師は、くくっと笑って首を横に振った。
「あー…お前さんには多分出来んよ、真田」
「?」
「…安上がりで済むから好都合ではあるがの。ま、そっちは俺が引き受けてやるきに、お前さんは彼女の傍に付いとってやりんしゃい」
「なっ……」
 言い返せずにいる副部長を置いてさっさとそこから離れた仁王の表情を見て、他の部員達がこそこそと囁きあう。
「うわぁ…物凄く何かを企んでる顔だぜぃ? アレ」
「いや、もう完遂しているんじゃないですか?」
「…やっぱ、あの人が一番分からないッスね」
「謎は残ったか…」
 あの詐欺師は…普段何を基準にどんな贈り物をしているんだろう……

 何は無くとも、不器用な男のホワイトデーは無事に過ぎていった……






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