欲しい愛なら奪い取れ


「真田先輩。ちょっとお話が…」
「む?」
 或る日の立海大附属中学の校舎…
 三年生の教室が並ぶ廊下の一角…時は授業が終わった放課後に二人の人物が向き合っていた。
 後輩らしい女生徒一人と、長身の三年生と思しき一人の男子生徒。
 女子は相手を前にして非常に緊張しているのか、俯いてなかなか視線を合わせようとせず、声も非常にか細い。
 対する男子は、何にも物怖じしない風格と厳しい性格を顕した様な大人びた風貌で、先程から腕組みをして相手を見下ろしていた。
「何だ? 話とは」
「あの…」
 二人が会話を始めて間もなくその廊下の曲がり角に銀髪の若者が差し掛かり、二人の姿を認めた瞬間、ひゅっと見事な身のこなしで壁の向こうに隠れた。
 真田先輩と呼ばれた男と同年の三年生…仁王雅治だ。
 実はこの二人、共に立海の中学男子テニス部のレギュラーである。
 『コート上の詐欺師』と呼ばれている仁王は、異常な程の観察力を備えており、それは最早、天賦の才と呼んでもいいだろう。
 彼は二人の様子を見た瞬間、そこに只ならぬ面白さを感じ取り、速効で陰から様子を見て楽しもうと決断したのだ。
(何じゃ何じゃ、何やら面白そうなコトになっとるのう〜〜〜)
 こっそりと様子を伺う笑みは正に悪魔!
 ここで見たネタを今後どうやって利用してやろうかと考えていたその時だった。
「仁王君? 何をして…」
「っととと…!」
 背後から呼びかけた自分の相棒に半ば慌て、仁王は彼の口元をばふっと手で押さえて人差し指を自分の口元に立てた。
「うぐ…」
『し――――っ! 今いいところなんじゃ、静かにせぇ!』
(……また何か悪巧みを考えていますね…)
 やれやれ、と思いつつ頷いて答えとした相棒…柳生比呂士は、解放された口でこっそりと改めて相手に話しかけた。
『…で? 何してるんです?』
『あれじゃよ…なかなか面白い現場じゃろうが…』
『…?』
 仁王が屈んで様子を伺っているその上部から、同じく柳生も頭をにゅ、と突き出し、真田と女子の姿を確認すると、ほう、と息を吐きながら眼鏡の縁に手をやった。
『あまり良い趣味とは言えませんが…確かに興味深い光景ですね』
『じゃろ?…さーて』
 廊下から二つの頭が覗き込んでいるのにも気付かず、真田と女子は相変わらず互いに向き合っていた。
 真田に促され、女子がゆっくりと、しかし意を決した様に唇を開く。
「…卒業式の日に…先輩の校章バッジを、頂けませんか…?」

 キタ―――――――――――ッ!!!!

 予想通り…そして期待を裏切らない展開に、仁王が頭を突き出したまま、陰でぐっ!と親指を突き出す。
 実は、この何気ない願いは、立海の学生にとっては非常に大きなイベントなのである。
 『校章バッジ』
 それは普段、立海の制服の上着、その襟元に付けられる鈍色の円形のバッジである。
 日常生活ではあまり注目されないアイテムであるのだが、卒業式の日には一気にその株は急上昇するのだ…或る一部の男子生徒にとっては。
 それは何故か…答えは『第二ボタン』この一言に尽きる。
 卒業式における『第二ボタン』というのは、詰襟学ランの制服の男子が、慕う女子から求められる愛の証明。
 つまり、女子がそれをねだるという事は、相手の男子に好意を抱いているという意思表示…告白になるのである。
 しかし前述した様に、『第二ボタン』というのはあくまで詰襟学ランでの場合。
 制服がブレザーである立海の場合は、その『第二ボタン』に値するアイテムが校章バッジになっているのだ。
 つまり、真田が女子に卒業式でそれを求められたという事は…
『ほほ〜〜〜、真田も隅に置けんのう…さて、どう返す? 鬼の副部長』
 あの朴念仁の純情男が、どんな顔で女性に答えるのか…
 実に嬉しそうに反応を見ている仁王の頭の上では、眼鏡の縁に手をやったまま柳生がじっと観察を続けている…実に真面目な表情で。
 但し、二人ともやっているのは、『覗き』という行為であることには変わりない。
 そこに更に新参者達が現れた。
「おりょりょ?」
「何やってんだ? 二人とも…」
 二人がいる曲がり角にある階段から、同じくテニス部レギュラーのジャッカルと丸井が降りてきて、相手方の異様な姿に目を留めた。
 彼らの呼びかけに、仁王と柳生はほぼ同時に振り向き…そしてほぼ同時に人差し指を口元に立てた。
『静かに』
「……」
「……」
 怪しさ極まりないリアクションに、ジャッカルと丸井は互いに顔を見合わせると…
『…なになに?』
『面白そうだな…』
 同じく『覗き』の犯罪に手を染めるべく、にゅっと陰から頭を突き出した。
『おっ…』
『うお! 真田に愛の告白かぁ?』
 察した瞬間、これは見ずにおられようかと興味津々の態でジャッカル達が耳を澄ますと同時に、いよいよ真田がその口を開いた。
「卒業式に? 校章バッジを紛失したという事か?」
「え…」
 真田の返答に女生徒は戸惑った様に顔を上げたが、戸惑ったのは彼女だけではない。
『……』
『……』
『……』
『……』
 何か、空耳を聞いた様な気がするのだが…と仁王達が互いに覗き見野郎同士顔を見合わせるのだが、みんなが同じ台詞を聞いたと認識したところで、再びがばっと頭を突き出す。
『アホか! 全っ然違うじゃろうが!』
『全く的外れな返答です! 採点にも値しません』
『相手は告白してんだよぃ!』
『早く気付けっ、気付いてくれ〜〜!』
 『違う、違う、違う〜〜〜』と壁の向こうからぶんぶんぶんと激しく首を振って念を送ってはみるものの、真田にその意志が通じることはなかった。
 そんな処に…
「あれ?」
「…また何を始めているのだ…」
 また階段を下りてきたのはテニス部レギュラー…そのトップでもある部長の幸村と、参謀の柳だった。
 四人が揃って一つ処に固まり、壁の向こうに首だけ出している姿は、傍から見ていて非常に不気味である。
 しかし、その様子から大体みんなが何をしているのか察した二人は、軽く視線を交し合った。
「…事件かな?」
「…データを取るに値するものであればいいのだが」
 それを確かめるには、やはり見るしかないだろう…という事で、躊躇いもなく部長と参謀までもが『覗き』に参加。
 遂に壁の向こうから六人分の頭がにょきにょきと突き出されているというホラーな展開になってしまった。
『あれ? 弦一郎じゃないか…』
『このシチュエーションから、女子から弦一郎への告白の現場である確率、八十九パーセント…』
 二人が反応を示している間に、更に向こうの現場は新たな展開を見せる。
「バッジを紛失したということであれば、職員室に行け。落し物の保管をしてくれているから、もし届けられているのなら返してもらえるだろう。流石に名前までは書いていないだろうが…」
「い、いえ…そういう意味ではなくて…その…」
『…バッジ?』
 訝しむ部長の呟きに、丸井が渋い顔で答えた。
『あの子、卒業式に真田の校章バッジが欲しいって頼んでるんだよぃ』
『え……ええ!?』
 当然、それが何を意味しているのか分かっている幸村は、親友のあまりに的外れな回答に驚き、真田と、周りのレギュラー達との間でせわしなく視線を動かした。
『ちょ…それはマズイよ! 物凄くマズイ!』
『ダメだな…弦一郎の思考回路には、もうすっかり紛失物という意味が定着している』
 柳は、最早諦めるしかないという表情で冷静な分析を行った。
 そして、現実は残酷にも彼の予想した通りに流れていく。
「そういう意味でないとはどういうコトだ? まさか、当日にバッジを忘れること前提に卒業式に出席しようと言うのではないだろうな?」

 ヤバイ――――――――――ッ!!

 覗き魔達の心の中で一斉に同じ悲鳴が響いた。
『いかん! 説教モードにスイッチが入りおった!』
『何という暴挙に…!』
『気付けー! 今からでも遅くないから気付いてくれーぃ!!』
『無実だっ! その子は無実なんだぞ〜〜!!』
 あわわわわっ!!と壁の向こうで阿波踊りを始めてしまった男達の慈悲の心に、真田は一向に気付かない。
「制服の乱れは心の乱れ。卒業式という重要な節目である日に、忘れ物をしそうだからと他人を当てにするとは何事だ。先輩を送り出そうという重要な日に…」
「あのっ……!」
 これ以上の放置は最早不可能!!
「強制排除にかかります」
「許可する」
 柳生に幸村が速効で許可を下すと、隠れていた男達が一斉に真田に向かって突進していった。
「む…?」
 何かがこちらに向かってきた…と真田が認識した次の瞬間、
「うわ―――――――っ!!!」
 彼の身体は同じレギュラー達の手によって拘束され、頭上に抱え上げられると、そのままえっさえっさと連れ去られていってしまった。
 如何に武道の達人とは言え、同じく身体を鍛えているレギュラー複数に人海戦術で責められては、真田も為す術はない。
「……」
「ごめんっ! 弦一郎が本当に済まないことをした。俺がよく言い聞かせておくから、どうか許してやって!」
 見事に告白を説教で切り返され、放心状態になってしまった女子に、部長の幸村は心から謝罪を繰り返していた。
 朴念仁の親友を持つのも、なかなか楽ではない様だ……


「お前達、一体何のつもりだ――――――――――っ!!!」

『そりゃこっちの台詞だ――――――――っ!!!!!!』

 部室に無理やり連れ込まれた真田は、当然相手方の暴挙に怒りの声を上げたが、向こうはそれ以上の激昂を以って返してきた。
 確かに自分達は『覗き』をした!
 しかし、もししていなかったら、どんな惨事が引き起こされていたことか…
 先輩達のいきなりの訪室とその異様な光景に、遠巻きで見ていた切原が何事かと大きな瞳を更にぱちくりと見開いている。
「最っ低最悪の態度じゃ! 世の中、知らんからと言うて何でも許される訳じゃないぜよ、副部長」
「淡い恋心は、応えられずとも大事に扱うものですよ、真田副部長」
「あの子、殆ど泣きかけてたぞぃ! 何も悪いことしてないのに〜〜」
「真田…今回ばかりは、俺もお前に少し物申したい気分だ…」
 仁王達の相次ぐ批判に対し、怒りを露にしていた真田が徐々に戸惑いの態度を見せると、そこに幸村と柳が入って来た。
「……ちょっと疲れたな」
「無理もない、あれだけ大泣きされては」
「?」
 うわちゃ〜〜〜!と、幸村たちの言葉からその後の女子の様子を察した男達は空を仰いで嘆息した。
 やっぱり…彼の娘の恋心は無傷ではいられなかったか…
「何の話だ?」
 相変わらず何も理解していない副部長に対しては、最早殺意さえ覚える……
「何があったんスか?」
 唯一その場にいなかった切原は当然事件の詳細は知らず、不思議そうに先輩達を見回した。
 どうやら、自分にとっての鬼門、真田副部長に大いに関係がありそうだけど……
「…弦一郎…君はもう少し、人の心の機微に敏くならないといけないよ」
 やれやれ、と幸村は疲れた顔で苦笑する。
 こういう事で叱ってもどうしようもない…相手にも悪気はないのだから……
「弦一郎、あの娘はお前に対し、恋の告白をしていたのだぞ」
「な…!」
「ええ!!」
 柳の端的な指摘に、予想通り鬼の副部長は硬直し、目だけをせわしなく動かした。
 切原も、その言葉を聞いてあからさまに驚きの視線を真田へと送る。
「ば、馬鹿なことを言うな! そんな事は…何も…」
 およそ色恋というものには無縁であった若者が、慣れない単語を聞いて激しく動揺しながらも、何とか必死に心を落ち着けようとしている。
 普段から心を平静に保つようにと指導しているだけに、その根性は見上げたものである。
「校章バッジを卒業式にねだるってのは、お決まりの告白パターンだろぃ! 立海のオメーが何で分からないんだよぃ!?」
「!」
 丸井に指摘され、真田がはた、と身体を止めて暫く沈黙した後、バツが悪そうに横へと視線を逸らした。
「…そう言えば、そういう慣習があったな……すっかり忘れていたが」
「男じゃねーな」
 例えバッジをねだられない男子でも忘れない重要儀式だというのに…とジャッカルがしかめっ面をすると、真田がむきになって反論した。
「む、だ、大体バッジのやり取りがそのまま告白になるというのが納得できん! そんな行動がそもそも何の意味があるというのだ! 訳の分からん行動で意志を示すより、口があるのならそれを使えば良かろう!」
(うわ〜〜、世の中の女を敵に回したいのかウチの副部長…ってか、女に恨みでもあんのか?)
 流石の俺でもそこまで女心を無視した発言は出来ないな〜と切原が思っていたところで、真田の発言を耳にした幸村がふぅんと頷いてにこりと笑った。
「じゃあ弦一郎は、相手がしっかりと口で意志を伝えたら、自分でも行動ではなく言葉で答える意志があるってコトだね…原稿用紙十枚分でも百枚分でも、愛の言葉を語る覚悟があるってコトか」
「そういう意味ではない!! 訳の分からん行動を起こすぐらいなら、いっそ宣戦布告して奪ってでも手に入れるぐらいの覚悟を見せろというのだ!!」
「…お前さんはもう一生独身でおるがええわ」
 呆れ果てた詐欺師が、好きにしろとばかりによそ見をしつつ言い捨てた。
 一体何処に、愛の告白が果し合いに摩り替わる要素があるのだ……



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