「それは真田さんがいけません」
「う…」
その後、立海男子テニス部活動中に、真田はあの事件について相談した別の人物からも注意を受けていた。
「頭ごなしに決め付けられたら、弁解しようにも話しづらくなっちゃいます。もう少し、ゆっくりとお話を聞いてあげるべきでしたねぇ」
鬼の副部長に全く物怖じすることもなく苦言を呈しているのは、何と相手よりかなり幼い印象で、小さな身体の少女だった。
長いおさげを揺らしながら真田の隣に立つ彼女は、にこにこと笑顔のままで相手を見上げる。
「真田さんらしいと言えばそうですけど…卒業式の日には気をつけないといけませんよ」
「ま、あ…それは無論気をつけるつもりだ。しかし今回のことがあって正直良かったと思う。もし当日に乞われるままにバッジを与えていたら、恐ろしいコトになるところだった…」
「うふふ……流石に取り消しとは言い辛いですからね。でも、奪ってでもモノにしろなんて、真田さんも結構厳しいですよ」
「あ、あまり笑うな竜崎…」
「はい…ごめんなさい」
「……」
照れた男が呼んだ竜崎と言う少女は、名を桜乃と言い、立海ではなく同じ関東圏にある青学の一年生である。
縁あって夏から立海男子テニス部との交流をもつことになった彼女は、こうして放課後にはよくここを訪れ、テニスの見学をしたり自分たちレギュラーと談義をしたり、親睦を深めていった。
素直で優しく…しかし華奢な娘は、真田の目から見たら非常に危なっかしい存在に見えて、それ故に彼は彼女を妹のように気に掛けていた。
女子にはその厳格な性格が敬遠されたりすることも少なくないのだが、この娘は真田の優しさを感じ取り、恐れることもなく相手と正面から向き合う事が出来る。
自分でも知らない内に最も近い距離にいることを許した女性…真田にとってはそれが正に竜崎だった。
しかし、許したとは言え元々が厳格な性格に加えて純情な若者は、なかなかその少女に対して踏み込んだ接し方が未だに出来ずにいた。
本当に妹として接するだけなら容易かっただろう…しかし、最早今の真田にはそれは不可能だった。
「お前の処では…やはり、同じ様な習慣があるのか?」
「第二ボタンのことですか? ええ、ありますよ、ウチはちゃんと詰襟学ランですから…でも、似たような習慣はきっと、どこの学校でもあります」
「…奇妙な慣習だな」
どうしても納得できないのか、真田は渋い顔でそう判断し、桜乃はそんな男に優しく笑った。
「御存知ですか? 第二ボタンが欲しがられる理由は、それが一番心臓に近いからなんだそうです」
「心臓…?」
「はい、詰襟の場合は、ですけど。立海の皆さんの様なブレザーだと、ボタンは下になりますから、だからきっと襟の校章バッジになったんでしょうね」
「ふむ…」
確かにウチの制服の場合、心臓に近いと言えば校章バッジが一番相応しい、と真田は頷く。
「好きな人の心が欲しいけど、心は目に見えませんから…だから、代わりに見えるものが欲しいんです。私は好きですよ、こういうの…凄くロマンティックじゃないですか」
自身の左胸にそっと手を当てて微笑む少女の仕草に、若者がどきりとする。
まるで彼女自身が、恋する乙女の様な…いや、もしかして…まさか…
「…お前は、その…」
「はい…?」
「……そういう物をねだる相手が…いるのか?」
「はぁ…一応いますけど」
「!」
「でも、結構手強そうなんですよ、どうやらライバルも沢山いるみたいです」
勝率低いですよーと笑う桜乃を目の前にして、真田はもう彼女の言葉は耳に入らなかった。
(いる…のか…?)
お前が…そういう告白をするような相手が。
「…そう、か……その、青学か? それとも…」
俺と同じ…立海の三年生なのか?
ありえる最悪の可能性に、真田の言葉尻が僅かに震えたが、少女はふるっと首を横に振って回答を拒んだ。
相変わらずの無邪気な笑顔で。
「うふふ…それは秘密です。流石にそこまで言うのは恥ずかしいですから」
「……」
「あ、でも心配しなくても、ちゃんとした人ですよ。凄く真面目な人ですから、信用していいと思います」
「そ、そうか……お前が、選んだのなら…間違いはなかろう」
「はい」
どんなに信用のおける人間であっても、心の底から喜ぶなど出来なかった。
真田は、当たり障りの無い言葉で誤魔化しつつ、帽子を深く被って表情を隠す。
おそらくいつもと同じ顔をしているとは思うが、もしこの心の中に渦巻く黒い感情が現れていたらと思うと、見られたくなかった。
(…ああ、馬鹿だな、俺は……)
今、ようやく思い知った。
色恋になど興味はない、と思っていたけれど…本当は興味を持つ必要を感じていなかっただけだ。
この子が、これまで傍にいてくれたから…
そしてこれからも、自分の傍にいてくれると錯覚していたから…
今まで自分が彼女に向けていた感情そのものが……恋だった。
それなのに、向こうはきっとこちらの気持ちなど分かっているとばかりに、言葉でも行動でも何も顕すことはなく、ただ己の都合を相手に当て嵌めようとしていた。
それに胡坐をかいていたから、最後には見ず知らずの他人に奪われることになったのだ。
抱き締めていたらよかった、好きだと言っていたらよかった、しかし、全てはもう遅い……
(精市の言う通りだな、俺は人の心の機微に鈍すぎる…)
もし少しでも敏ければ…この娘の心が誰に向いているかも察することが出来ただろうに。
「真田さん?」
「…ん? なん、だ…?」
心が折れそうになるのを必死に堪え、真田は桜乃にいつもと同じ厳格な顔を向ける。
「私も、立海の卒業式の日に来てもいいですか?」
「ここに…? まぁ…来るのは自由だ、それは構わんだろうが…」
「じゃあ必ず来ますね、私も皆さんの卒業をお祝いしたいですから」
「……」
別の意味で…感情を抑えるのが辛い式になりそうだな……
立海大附属中学校卒業式は、特に何のトラブルにも見舞われること無く粛々と執り行われた。
式が終われば、部活に在籍していた三年生達はそれぞれの部室に集まり、後輩達からの餞別を受けるのだが、真田も他の三年生達の例に漏れず、馴染み深い部室に顔を見せていた。
「赤也、後を頼むぞ。高校に行っても俺たちもたまには顔を出すが、もし部員達のやる気を蔑ろにしているような真似をしていたら…」
「や…やっぱり鉄拳ッスか?」
「介錯は俺がしてやろう」
「切腹〜〜〜〜〜〜っ!!??」
更に厳しくなった先輩の指導にあわわわっと切原が慄いているところに、部長の座を退いた幸村が笑いながら歩いてきた。
「盛り上がっているところ悪いんだけど…弦一郎、ちょっといい?」
「ん? どうした精市」
「君に客が来ているんだ。部室の外で少し話したいって」
「…客?」
「ふふ…まぁ、行けば分かると思うよ」
思わせぶりな笑みで部室の外へと送り出された元副部長は、外に出たところですぐに相手の意図するところを察した。
ああ…彼女か……
「…竜崎?」
「あ、真田さん…御卒業、おめでとうございます」
名を呼ばれて、真田を待っていた少女はくるんと振り向いて、小首を傾げて笑った。
いつもの笑顔だ…あの告白さえ聞いていなければ、自分もいつもの様に笑顔を返せただろう。
「有難う…どうした? お前も中に入ればいい、みんな歓迎するだろう」
せめていつもの様に…兄のように気遣いを見せながら言葉を紡いだが、相手は首を横に振った。
「いえ…ちょっと真田さんと二人でいたかったので…」
「俺と…?」
それより、お前の意中の人物とはどうなったのだ…と聞きたい気持ちを抑えている間に、桜乃はててっと真田のすぐ前まで走り寄ると、相手の襟を見上げ、そこに校章バッジが付いているのを確認した。
「…真田さんは…結局誰にもあげなかったんですか? バッジ」
「……ああ」
本当にあげたい人物が望んでいない以上…誰にも渡すつもりはない。
「まさか、本当に挑んだ人を投げ飛ばしたりしてないですよね…?」
「幾ら俺でもそんなことはせん。まぁ、譲るように頼まれはしたが、断った」
「そうですか…」
そう言って、桜乃はこそりと『やっぱり手強いなぁ』と呟いたが、それは真田に聞かれることはなく、彼女は続けて相手を見上げた。
「真田さん…卒業の記念に、一つお願いしていいですか?」
「願い…? 何だ?」
「ええと…ちょっと私を抱き上げてほしいんですけど…」
「お前を!?」
まさかの願いにぎょっと驚いていると、向こうは別の心配をしたのか慌てて彼に断った。
「あの、そんなに重くはないと…思うんですけど…む、無理そうです?」
「い、いや…お前如きの重さなど、苦もなく持ち上げられるだろうが…その、何故?」
「えーと…ですから、記念に」
「?」
記念にそういう事をするのが流行っているのか…?
悩みつつも、真田は出来ない事ではないからと、それを受け入れることにした。
正直、女性の身体にそういう風に触れるのは初めてなのだが…
「じゃあ、お願いします」
「わ…分かった…」
頷いて、真田はそ、と両手を相手の腰に回してしっかりと掴んだ。
テニスの道具などであれば遠慮なく力を込められるのだが、こんなに柔らかいと力の加減一つにも苦労してしまう…
「上げるぞ」
断ってから持ち上げると、思ってもみなかった軽さに真田本人が驚愕した。
まるで見えない羽を彼女が出して、自分を手助けしてくれている様だ……
「うわ、高いですね」
嬉しそうに笑う桜乃の笑顔が、太陽の輝きに負けないくらいに眩しい。
「……その…これが、記念…なのか?」
こんなに軽いのならいつまでも抱き上げていられるだろうな、と思いながら男が尋ねると、桜乃は不意に、くっと首を前に曲げて真田へと顔を近づけた。
「…ごめんなさい、真田さん…真田さんの心、貰いますね」
「…え?」
すぅ…と桜乃が両手を前に伸ばし、真田の襟から校章バッジをあっさりと外すと、自分の手の中に握り締め、してやったりとばかりに微笑んだ。
「こうしたら真田さんの手が塞がるから、武術の心得のない私でも取れるんですよ」
「っ!!」
驚きのあまりに腕から力を抜いてしまった所為で、桜乃の身体が一気に重力に引かれて落ちる。
「きゃ…っ!!」
「う!」
いかん!と再び腕に力を込めた結果、図らずも真田は胸の中に彼女を捕らえる形になってしまった。
「竜崎!? 大丈夫か?」
「あ…びっくりしました…ふふ、でも良かった」
ほら、と誇らしげに桜乃は真田の校章バッジを掲げて見せた。
「真田さんの言う通り…宣戦布告して取りましたよ? 私が貰って…いいですよね?」
「竜崎…お前が…ねだろうと思っていた相手というのはまさか…」
呆然とする真田に対し、桜乃は頬を染めながらこくんと頷いた。
「…真田さん…です」
「!!」
「本当は普通にお願いするつもりだったんですけど、宣戦布告の上に凄く強い真田さんから奪わないといけないって聞いて、かなり悩んだんですよ? ちょっとだまし討ちっぽかったですけど、正攻法では勝ち目ないですからね」
「お前は……まさかそれを本気で…?」
「遊びや冗談で人を好きになんかなれません」
微笑を打ち消し真剣な顔でそう訴えると、バッジを握り締めたまま、桜乃は真田の胸の中で力強く訴えた。
いつもの朗らかで穏やかな笑顔ではない、必死な表情だった。
「真田さんが望むやり方なら、そうしようと思ったんです……ずるいやり方だったかもしれません、真田さんの気に入らないやり方だったかも…でも、私にはこうする他に方法はなかった…『返せ』と言われたら、そうするしかないけど…私は…」
想いを吐き出す程に潤んでくる相手の瞳を見て、真田は思わずその小さな身体をきつく抱いた。
「すまん、竜崎…心無いことを言った」
俺は知っていた筈なのに…お前がいつも俺の言葉に真剣に向き合ってくれていたことを。
今もこうして…無謀とも言える条件を本気で受け取り、やり遂げてくれたのに。
「それはお前のものだ…喜んで、お前に俺の心をやろう」
「真田、さん…」
「好きだ、竜崎…ずっと前から、お前だけが好きだった…」
今度はもう間違わない、後悔もしない…言葉に出して、行為で示そう…
「!…」
真田の指が桜乃の頤に触れて優しく顔を上向かせると、彼は遠慮がちに己の唇を相手のそれと重ねた。
二人の唇が互いの柔らかな感触を伝え合ったかと思うと、それらはすぐに離される。
「…あ…」
「す、すまん…俺はその…初めてだから…勝手がよく分からん」
口元に手を当てて、真っ赤になっているのだろう顔を隠しつつ真田が言うと、桜乃もまた頬を染めつつ相手の胸に顔を埋めた。
「…私も初めてですから…今は凄く、嬉しいだけです…」
「竜崎…」
少女の嬉しい言葉に、真田の頭がくらくらと眩暈を訴える。
人は嬉しくても、こんな風に気を失いそうになることがあるのだろうか…いや、気を失うより、もっと厄介なことに…心の歯止めが掛からない……
「真田さん…?」
徐に耳元に顔を寄せてきた真田に、桜乃が不思議そうに尋ねると、ささやかな…しかし、熱のこもった声が小さく聞こえてきた。
『…もう一度…キスをしてもいいだろうか』
「!」
どうやら我慢が出来なくなったらしい男のおねだりに、少女は再び顔を朱に染めながらも…やがて幸せそうな笑みを浮かべてゆっくりと頷いた。
二度目の口付けは、最初より少しだけ長く、そして深かった……
了
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