不器用に潔く
「いい季節になりましたね」
「ああ、ようやく春が来たという感じだな」
その日、立海大附属高校のテニスコート脇で、そんな会話が交わされていた。
今年、同校に入学を果たした真田弦一郎と、青学の二年生となった竜崎桜乃である。
元々立海は中学からエスカレーター式の学校でもあり、或る程度の学力があれば進学は可能だが、それでも有数の進学校である為レベルはかなり高い。
難なく進学をした真田は、普段から勤勉実直が服を着て歩いている様な人となりなので、それについては何ら不思議な事ではなかった。
そして、それはかつて彼と同じテニス部レギュラーだった同学年の者達も同様だった。
そんな若者達だが、実力だけではどうにもならない事もある。
例えばそれは、一年生に上がった事で、高校のテニス部に入った時にこれまでのレギュラーの立場と肩書を失うという現実。
しかし、それはさして男達にとって問題ではなかった。
一年生ではあるが、既にテニスの実力では他の先輩達より抜きん出ているという事実も、また明らかだったからだ。
実力至上主義の立海であれば、それが伴っているのであれば、相応の評価を受けることが出来る。
入学して間もない今は流石に時期尚早とも言えるだろうが、遠くない未来には、レギュラーの座を得られるだろうと、真田は内心確信を抱いていた。
尤も、そんな確信に自惚れることなく日々己の研鑽に励む姿勢があってこその、この男の強さなのだろう。
本当に、高校生に上がったばかりとは思えない程の自律心。
その意志は既に大人とほぼ変わらない…特に真田はそれは外見も含めてのことだった。
何かにつけて成人と勘違いされがちな風貌の彼は、高校に上がった当初もかなりそれで煩わしい思いをしたらしいが、最近はそれも落ち着いてきた様子である。
更に、最近ようやく桜の開花が始まってきたということで、その花を風流と好む若者は、ここ数日は機嫌がいい。
そして、今日は更に彼の機嫌を良くする理由が一つ…それが隣に立つ少女だった。
「陽射しも、もうすっかり春です」
そんな少女は、今は頬に当たる心地良い風を感じて、気持ち良さそうに目を閉じていた。
「……」
声を掛けるでもなく、真田はじっとそんな彼女の横顔を見つめる。
中学生三年の時から縁を持ち、立海元レギュラーと懇意にしている桜乃は、以前からよく見学に立海を訪れていた。
最初こそ少々ぎこちない様子だったものの、今はすっかり打ち解けてくれている。
普段からその強面の所為で女性達からはとかく畏怖の対象になりがちだった真田ですら、彼女にとっては優しいテニスの先輩なのだ。
恐れもせずしかし媚びもせず、あるがままに接してくれる自然体の少女の姿は、豪胆で頑固な若者の心の何かを変えてしまった。
それを何と呼ぶのか…実は薄々と気付いている本人だったが、生来の堅物の為、それを相手に口にする事はまだ出来ない様子だ。
「…真田さん」
「!…あ、ああ…何だ?」
不意に呼びかけられてはっとすると、向こうが無邪気に微笑みかけてきていた。
どうやら、見蕩れるあまりに僅かな間でもぼうっとしてしまっていたらしい。
(む…いかん…春とは言えたるんどるぞ、弦一郎)
心で己を叱咤していた若者に、桜乃はその心の内を知る事もなく問い掛けた。
「高校はどうですか? 慣れましたか?」
「うむ…校舎こそ違えど、殆ど同じ場所に併設されているのでな、通学そのものにはそう違和感はない。だが、先輩と呼ぶ存在があるのはやはり大きいし学ぶべき事も多い…お前も先輩という立場でも後輩という立場でも、周りの人間を大切にするといい」
「はい」
素直に頷いた桜乃にうむ…と頷いて…直後、真田は我に返った様に目を見開き、苦笑した。
「いかんな、俺は話すとどうも説教臭くなる。こんな事は、お前はもう十分に理解しているだろうに…」
「そんな事ないです。私、真田さんのお話、好きですよ」
「!」
『好き』という言葉を聞いて、一瞬、どきりとしたが、すぐに自分を戒める。
(ち、違うだろう…彼女は俺の話が好きなのであって…俺の事では…)
俺の事が好きなのでは…ない、のだろうな、やはり。
「……」
戒めるついでに自分の言葉で凹んでしまった真田がこっそりと落ち込んでいると、桜乃は相手がまだ彼自身の癖を気にしているのかと思い、話題を変えようと声を掛けた。
「あ、あのあのう…真田さん」
「ん…?」
「真田さんは桜はお好きですか?」
「ああ…好きだな」
その質問には、悩むこともなくすぐに頷いた。
荘厳な眺めでありながら、あの花弁の一つ一つの繊細さ…散りゆく美しさと儚さ…
艶やかに咲き、その姿のままに散ってゆく潔さは、現代人でありながら武士道を重んじる真田から見ても好ましいものだった。
「桜を見ると、その度に自分が日本人であることを誇らしくさえ思う」
「他の国の人に自慢したくなっちゃいますよね……そう言えば、ここ辺りで桜の名所って言えば何処なんでしょうか?」
都内なら、有名な場所は幾つか知っているけど…と考え込む少女に、真田は簡単に一つの公園の名を挙げた。
「そこなら桜の木も多いし何より環境がいい。散策のコースによっては、花見客の邪魔もなく静かに桜を愛でることも出来るからな」
「そうなんですか…綺麗なんでしょうねぇ」
「ああ…俺の知る一番の穴場だ」
頷いて答えを返しつつ、真田ははっとした。
これはもしかして…彼女との距離を縮めるチャンスではないだろうか?
幸い、今度の日曜までは天気もいい、桜も丁度満開だろう。
あの公園で、一緒に桜を見ようと誘ってみようか…
「…り、竜崎」
「はい?」
今までは何気なく話していたのに、いざこういう話題となると、途端に真田の様子が落ち着かなくなる。
今まで女子とこんなに言葉を交わした事もなく、しかも相手が密かに好意を寄せている桜乃とあれば、根は純情そのものの若者だったので無理からぬことではあった。
「その…」
「? はい…」
それでも、小首を傾げて『何でしょう?』と目で問い掛けてくる相手に、真田は必死に勇気を振り絞って言葉を継ごうと、唇を開く。
「……良かったら、今度」
『真田―――!! ちょっとこっちに来てくれ! 相手頼む!!』
「………」
いよいよ言うぞと溜めた気力が途端に萎えていく。
先輩の呼び声を聞き、彼は思わずその場に膝を付きそうになってしまった。
何でよりによってこういう時に…っ!!
せめてあと一分、待ってくれていたら…と思っても詮無いこと。
「あ…呼ばれてますよ、真田さん。試合みたい…」
「…うむ」
「一年生で指名されるなんて凄いです、流石ですね!」
いつもなら心地良く聞こえる筈の少女の賞賛も、今日この時に限っては空しく聞こえた。
「…行ってくる」
「頑張って下さい!」
それから部活動が終わるまでも、そして終わってからも、真田が再び桜乃に個人的に声を掛ける機会には残念ながら巡り合えず…
一度放出してしまった気力を再び溜めることも難しく、結局彼は少女を日曜の公園に誘う事は出来なかった……
そして日曜日…
「…一人で見ても桜は桜だからな」
自分に言い聞かせるような言葉を呟きながら、真田は一人でその公園を歩いていた。
周囲にはやはり満開の桜目当てに多くの人々が集っており、わいわいと和やかなムードに包まれている。
家族連れや恋人達の姿が殆どで…自分の様に一人で回っている人の姿はあまりない。
しかしそこでも、人は人、自分は自分と思いつつ、彼はすたすたと散策コースに設定されている道を歩き続ける。
頭上には桜の花々が咲き誇り、いわば桜の天井の様な眺め。
確かに、彼が桜乃に紹介したのも頷ける程に壮観だった。
「………」
例年、この場所に来るのはいつも一人だ。
だから、今年も変わらない…筈なのに。
気がついたら自分の手は、ポケットに入れている携帯を握り締めていた。
今日、起床してからここに来るまで、何度この動作を繰り返しただろう。
(俺もたいがい未練がましい…)
簡単な誘いの文を打ち込み、それをあの少女の携帯に送ったらいいだけの話なのに…午前から何度も画面を開いては、適切な言葉が思い浮かばず、結局未遂に終わっている。
人生で初めての経験なのだから仕方がない…と思ってはみるものの、それが態のいい自己弁護だということぐらい分かっていた。
「……ふぅ」
美しい筈の桜並木が、今年に限っては何処かくすんで見えてしまう…しかし、それは桜たちの罪ではない。
癖になってしまった様に取り出した携帯を見つめ…真田がそれをポケットにしまおうとした時だった。
ヴヴヴヴ…
「む?」
マナーモードにしていたそれがいきなり手の中で振動を始め、真田は慌てて画面を開いた。
「…メール?」
届けられていたのは一通のメール。
差出人は…あの少女からだった。
「!?」
更に慌てて彼がそのメールの内容を見ると…
『今、何処ですか?』
と短い一文のみが入っていた。
「?」
何でそんな事を?と思いつつも、メールをくれたそれだけでも嬉しくなり、真田は公園の名を挙げてそこにいると打ち込み、返信した。
相手の質問に答えるだけなら、こんなに簡単なのに…つくづく自分はこういう事には奥手なのだな…
(…それにしてもどうしていきなりあんなメールを…)
そう思っていると、再び携帯が振動を始める。
「っとと…」
思わず声を上げてそちらを見ると、今度はメールではなく通話モードだった。
発信者には、やはり少女の名前があった。
「…もしもし」
『こんにちは、真田さん』
聞こえてきたのは、紛れもないあの娘の声だった。
「竜崎…どうした?」
『ええと…真田さん、その公園の何処にいらっしゃるんですか?』
「? 何処と言われてもな…」
『何でそんな事を訊く?』という質問は後にしようと思いつつ、真田はきょろきょろと辺りを見回した。
道の途中で、あるのは桜並木ばかり。
めぼしい目印や、記念碑の様なものも見当たらないし…どうにも説明に困る場所だ。
どう言えばいいものか、と悩んでいると、向こうから少しはしゃいだ様子の桜乃の声が聞こえてきた。
『あ、いいですいいです。もう分かりましたから』
「? 分かった? 何がだ?」
『真田さんの居場所です』
「なに?」
自分はまだ何も言っていないのに、場所が分かった?
一体どうやって?と思いつつ、真田は自分の携帯をまじまじと見つめた。
(そう言えば、最近の携帯には居場所を確認する為の機能を備えたものがあるとか…しかし、俺の機種にそういうのはあったのか? と言うより、そもそも他人の携帯でそういう事がそうそう簡単に分かるものなのだろうか?)
どうにも理由が導き出せず、真田は素直にその疑問を向こうへとぶつけてみた。
「…どうして分かる?」
『うふふ、それはですねぇ…』
彼女の声が楽しそうに…少し勿体ぶってそこまで言った…一秒後、
ぽすん…
「ん?」
背後から、何か…いや、誰かが優しく抱きついてきていた。
思わず振り向いて下へと視線を下ろした真田が今度こそ驚愕する。
「竜崎っ!?」
「私もここにいるからでーす」
取り落としそうになった携帯を必死に握り締めながら、真田は私服姿の桜乃を見下ろし、その場で固まった。
「なっ、何でお前がここに!?」
「ふふ、多分真田さんと同じですよ…本当にここの桜、綺麗ですね」
するりと真田から離れ、くるんと首を巡らせながら、桜乃は咲き誇る桜を眩しそうに見上げた。
そして、改めて目の前の若者に向き直る。
「この間ここの事を聞いて、どうしても見たくなったから来ちゃいました。歩いていたら真田さんらしい人が見えたんですけど、人違いだったら嫌だなって思ってメールして…」
「俺の行動で察した訳か」
「はい」
桜乃はにこ、と笑ったが、真田はその時の自分の不審な行動を思って苦笑いを浮かべた。
「意地が悪いぞ、竜崎」
「え? ダメでしたか?」
「いや…まぁ、当たったから良かったがな」
と言うより、当ててくれて良かった…と内心思う。
ここで出会った幸運を思いながら、真田は相手の珍しい私服姿をまじまじと見てしまった。
春の色でもある薄桃色のスカートに真っ白なシャツ、薄地のカーディガン。
女性らしい清楚な姿は、見ているだけでも心が和らいでくる。
そんな若者の耳に、相手の朗らかな声が届けられた。
「真田さんは、お一人ですか?」
「ああ……お前もそうか?」
「はい」
「そうか……」
あの日、ここに彼女を誘おうと思っていた時の様に、喉がやたらと渇いてくる。
どうしようか…今からでも誘ってみようか…
湧き上がる希望に、しかしまた自分の余計な遠慮が邪魔を仕掛けてきた。
(いや、しかし彼女は一人で来たという事なら、一人で桜を楽しみたいのかもしれん…俺が下手な誘いをして、楽しみを邪魔する訳には…)
「…あの」
「え…?」
不意に呼びかけてきた少女が、ほんのりと頬を赤く染めて、上目遣いで見上げてきていた。
そんな桜乃の姿を見るのは初めてで、真田は立ち止まっているにも関わらず激しい動悸を自覚した。
(な、何だ…心臓が…治まってくれん!)
見ていると、自分まで頬が熱くなってきたが…気付かれてはいないだろうか?
「一緒に回っても…いいですか?」
「え?」
「あ…ご迷惑なら別に…」
問い返したことで向こうが辞退しそうになったところを、真田が物凄い勢いで引き止めた。
喉は相変わらず渇いていたが、今までの躊躇は消え失せている。
「い、いやっ! 迷惑ではない! その…」
一度言葉を切り、そしてゆっくりと深呼吸の後に真田はようやく言いたかった言葉を口にした。
「…お前さえ良ければ、一緒に回ろう」
「!…はい!」
ほころんだ笑顔は、まるで桜の花そのものだった。
その魅力に誘われた様に、つい真田の口元もいつになく緩んでしまう。
「では行こうか、この先に座って桜を楽しめる場所もある」
「わ、本当ですか?」
そして二人は並んで、仲良く歩き出していた……
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