「ふわぁ…良い場所ですね」
「人も多いが、ここは飲食禁止区域だからな。性質の悪い酔っ払いがいないだけでも落ち着いて花を見る事が出来るぞ」
 道を歩き、その先の開けた場所にも、多くの桜が植えられていた。
 芝生も青々と美しく、春の景色に心が浮き立つ。
 二人は道から外れてその広場へと足を運び、幸いに根元が空いていた一本の桜の根元に落ち着くことにした。
「ここに座るか」
「そうですね…」
「ああ、少し待て」
「え?」
 真田に促され、座ろうとしていた桜乃に声を掛けた相手は、ばさりと着ていたジャケットを脱いで、根元に敷いた。
「お前はここに座ればいい」
「え、でも…」
 相手のジャケットの上に座るとそれを汚してしまう事になり、当然桜乃は躊躇ったのだが、真田は頑として譲らなかった。
「服に泥がついたら大変だろう? 折角可愛い服を着ているのだから遠慮するな」
「!!」
 きょとんとこちらを見る桜乃に、何か変なコトを言ったかと真田が眉を顰めた。
「どうした?」
「…今、『可愛い』って言いました?」
「!!」
 今度は真田の方がはっとした。
 確かに…言ってしまったかもしれない。
「どっ…どうでも良かろう! 早く座らんかっ!」
 照れ隠しに少しきつい口調で促したものの、少女には全く効いていない。
「真田さんが『可愛い』って言うの、凄く新鮮です〜っ!」
「たっ、たるんどる!!」
 きゃあきゃあと喜ぶ桜乃をもう一度照れ隠しに叱りつけ、男はようやく彼女をジャケットの上に座らせた。
「お邪魔しまぁす」
「全く…」
 苦言を呈しながらも、内心はようやく座ってくれたかと安堵していた真田は自分もゆっくりと腰を降ろしたところで…その視線が何気なく相手の頭に向いた。
「ん…?」
「え?」
 何かに気付いた様子の若者を見上げると、楽しそうに笑っている相手の視線が自分の頭上に注がれている。
「何ですか?」
「随分と降ったな」
「?」
 まだよく分かっていない桜乃の頭に、真田がゆっくりと右手を伸ばし…ちょい、と何かを摘まみ上げてそれを相手の目前に持って来た。
 一枚の桜の花弁…
「あ…花弁…」
「あの桜並木の下を通って来たからな…当然と言えば当然だ。だが、まだ随分と付いている」
「そ、そうなんですか? えっと…」
 確かに、桜乃の艶やかな黒髪に幾枚もの薄桃色の花弁が鮮やかに映えていた。
 勿論自分の目でそれを確認する事は出来ないので、桜乃は両手を上げて適当に払い落とそうとしたのだが、それは相手によって止められた。
「いや、いい…俺が取ってやる」
「え…」
「じっとして…」
 優しい口調でそう言われてしまい、桜乃は動きを完全に封じられてしまった。
(わ…真田さんの指が触ってる…)
 髪に触れてくる男の指の感触…
 しかしそれは、普段の相手が見せる力強さとは裏腹にとても優しく、気遣いに溢れたものだった。
 さわ…さわ……
(…気持ちいい……)
 最初は目を開いていたが、余りの心地良さにうっとりとそれが閉じられる。
 目を閉じると、他の感覚はより鋭敏になり、真田の指の感触、その動きが更にリアルに伝わってきた。
(手も指も大きいなぁ…なのに、どうしてこんなに優しく触れるんだろう…)
 やっぱり優しい人だからかな…厳しそうに見えても、凄く良い人だもんね…
 そんな事を考えている内に、ふ、と指の感触が遠くなり…
「と、取れたぞ」
「ふぁ…」
 呼びかけられ、目を開くと、何故か視線を横に逸らしている真田がいた。
「あ、終わったんですか? 有難うございました」
「いや…」
「?」
 何となく…真田の態度がぎこちない。
 どうしたのだろうと見上げてくる視線から必死にそれを逸らしながら、彼は必死に心を落ち着かせるべく努力していた。
 まさか、花弁を取ってやっている間…瞳を閉じて微笑んでいる桜乃の姿があまりにも魅力的で、ずっと見蕩れていたなど…それどころか、唇を重ねたいと思ってしまったことなど、言える訳がない!
(は、春とは言え、浮かれすぎだぞ! 弦一郎っ…)
 今日は帰ったら、いつもの鍛錬に素振りを百本追加しよう、と心に固く決めていると、桜乃が目の前で膝を立て、大きく伸び上がった。
「ん…?」
「うふふ、真田さんの頭にも一杯降ってますよ」
「む…そうか?」
 何が、というのは既に分かっている事だったので、真田はそれを聞いて何気なく右手を頭にやり…それを桜乃によって止められる。
「竜崎…?」
「じゃあ、今度は私の番ですね。取ってあげますから、じっとしてて下さい」
「!」
「ほら、動かない動かない」
 思わず身を引いてしまったところで桜乃にやんわりと戒められ…真田は柔らかな感触を頭に感じて再び動揺してしまった。
「う…」
 落ち着こうと思いつつふと視線を前にやると、間近に相手の上半身が見えて、そのシャツの白さと、胸のふくらみに思わず目を瞑る。
 何もやましい事はしていない筈…なのに、この焦りは一体何なのか…
(や、やむをえん…ここは終わるのを待つしか…)
 そう思いつつ、真田は桜乃と同じ様に瞳を閉じ、相手にされるがままに任せた。
 さわ…さわ……
「………」
 早く終われ…と最初こそ願っていたが、相手の優しい指の感触に触れる内に、徐々にそんな思いが霧散してゆく。
 遠慮がちに…花弁だけに触れようとする気遣いが感じられる。
 さわりさわりと髪に触れる指先の形までもが、脳裏にまざまざと思い浮かんだ。
(心地良い…)
 触れたかと思えば離れてゆく、そのもどかしさに心が揺らぐ。
 柔らかな羽毛が触れている様な錯覚を覚え、真田はその心地良さに眠気さえ感じてしまった。
「……」
 いかん…本当に眠くなって……
 うつらうつらとしかけたところで、不意に相手の指先が離れていくと同時に、
「はい、取れました」
と、元気な声が響き、真田を夢から現へと引き戻した。
「む…」
 真田はその場でしっかりと覚醒したつもりだったのだが、桜乃は相手の瞳に眠気が残っている事を見抜いていた。
「…お疲れなんですか?」
「い、いや、そういう事はない」
 軽く手を振り否定した相手だが、普段がしっかりとしている若者だからこそ、その相違は明らかになるものだ。
「……お休みになります?」
「え?」
 問われ、そちらへと目をやると、桜乃がにこりと笑って座し、ぽんぽんと自分の足を叩いていた。
「膝枕、しましょうか?」
「!!」
 あまりにも魅惑的な誘いをあっさりと言葉に乗せた乙女に、相手の若者の方がたじろいでしまった。
「な、な、なっ…! そ、そういう事はそのっ…」
 嫌なら即行で拒絶すればいいものを、なかなか言葉が継げずにいるのは、内心では非常に心惹かれる誘いだったからだ。
 その言葉のままに行動出来たら、どんなにいいだろうか…しかし、今の自分は…
「遠慮しないでいいですよ、ジャケットのお礼です」
「あ、いや、しかし…」
 少女の好意にそのまま頷きそうになる己を押し留めながら、真田は、必死に立場を弁えるべきだと思い、強い口調で言った。
「恋人でもないのにお前に甘えるなど…!」
「…え?」
「…」
 小さな少女の声に、照れ臭くて見られなかった相手を久し振りに見ると…その表情が強張っていた。
 さっきまで健康的だった肌の色も、何となく血の気を失っているよな…気がする。
(竜崎…?)
 どうして、そんな顔をしている…?
 戸惑う真田の前で、桜乃は青ざめた顔のまま口元に手をやり…強張った顔の筋肉を必死に動かして……かろうじて笑っていた。
「…そ…そう、ですよね…ごめんなさい、私、つい調子に乗っちゃって」
「!!」
 その時、ようやく真田は気付いたのだ。
 そのつもりではなかったとしても、自分がどんなに心無い、相手を傷つける発言をしてしまったのかを。
 『恋人でもないお前に、甘えるとでも思ったのか?』
 そう取られても仕方ない程に冷たい言葉を、自分は言ってしまったのだ。
 この少女に。
 決して言ってはならない相手に。
「あ…りゅうざ…」
「あの…私、帰ります…」
「!!」
 立ち上がり、その場を去ろうとした桜乃を見た瞬間、真田の中で何かが切れた。
 がし…っ!
「!?」
 桜乃が膝を立てたところで相手に腕を掴まれ、見ると、尋常ではない程に逼迫した表情の男がこちらを見ていた。
「真田、さん…?」
「…行くな」
 一言、言うと同時に彼は珍しく女性に対して力を揮い、半ば無理やりに相手を再びそこに座らせる。
「きゃ…」
「俺は…」
 俺は何を言いたいのだ…?
 俺は何を言わねばならないのだ…?
 引き留めながら、尚迷いを抱いていた男の視界に、不意に風に舞う花弁達が鮮やかに映った。
 まるで彼の心の中に漂う暗雲を振り払う、白い嵐の様に。
(……ああ、桜が…)
 散っていく…何という美しさで…何という潔さで……
 こんな小さな桜の花々でさえ、散り時を知り、美しいままに凛として散ってゆくのに、この己の醜悪さは何だ…!
 ただ伝えたら良かった…偽らずに伝えるだけでよかったのに、どうして今まで下らない言い訳をつけて逃げていたのか…
 尤もな事を言って、結局自分がやってきた事は…
「…意地を張っていただけか……未熟だな、俺も」
「真田さん…?」
 腕を掴まれたまま、自分を呼んだ桜乃に、相手は何かを心に決めたようにしっかりと目を合わせてきた。
「……お前には迷惑な話かもしれんが…言わせてくれ」
「…はい?」
「…俺は…お前に甘えたい…」
「!!」
「他の誰にも弱さなど絶対に見せられん…が、好きなお前にだけは甘えさせてほしい、と…そんな気持ちが、俺の中でどうしても消せんのだ」
「〜〜〜〜」
 真っ赤になって声もない少女だったが、同じく頬を紅潮させている真田も似たような心情だっただろう…しかし、既に彼の心の中には迷いはなかった。
 ここまで言ってしまったのだ、今更何を恥じることがある。
「だが俺は、お前の恋人、と認められた訳ではないからな……俺が勝手にそう決め付ける訳にもいかんだろう……その、申し出は凄く…嬉しかったが…」
「……」
「…すまん、どうにも口下手だな、俺は…こんな話をするなど、生まれて初めてだ」
 これで相手に拒絶されても仕方がない…最初に向こうの心に傷を付けてしまったのは自分なのだから。
 しかしこれで少しでも、彼女の傷が癒えてくれるのなら…
「…迷惑だろう? 正直に言ってくれて構わんぞ」
 覚悟を決めていた若者に、暫く黙っていた少女が、ゆっくりと口を開いた。
「じゃあ……お願いが」
「?」
「…私にだけは、遠慮しないで下さい」
「!…」
「私にだけは…真田さんが望んでいる事を、言って下さい」
「りゅう、ざき…」
 怒っていないのか…? 許してくれるのか…?
 まるで、地獄の罪人が神の赦免を聞いたかの様に、真田は目を大きく見開き…身を乗り出して夢中で願っていた。
「……俺の…恋人に、なってくれ」
「…はい」
「…名前で、呼ばせてほしい」
「はい…じゃあ、私も名前で呼びますね」
「……膝枕を…あ、いや…その、前に…」
「…?」
 この桜の木の下でずっと抱いていた願いを、真田は遂に言葉に乗せた。
「……恋人のキスを、したい」
「!!…」
 これまで彼がするとは考えられなかった率直な願いに、桜乃はぽっと顔を赤くしたが…少しだけ照れながらも優しく微笑み、
「…いいですよ」
と応えた。
「桜乃…」
 感動の余りに微かに声が震えている真田の前で、その恋人はそっと瞳を閉じた。
 儀式の『合図』に倣う様に、男の顔がゆっくりと相手のそれに寄せられていく。
 そして、直前で男も瞳を閉じ、互いは互いの唇の柔らかさを唇だけで感じていた…




「そろそろ夕方ですね…帰りますか?」
「…もう少し」
 互いを恋人としてから後、桜乃はずっと真田に膝枕をしてやっていたが、徐々に辺りは暗くなり始めていた。
 普段なら、率先して帰りの事を考え、行動する筈の若者が、一向に桜乃の膝から頭を離す様子がない。
「もう少し…って…あまり遅くなると、風邪ひいちゃいますよ?」
「そんなヤワな身体ではない……ああ、だが、お前に風邪を引かせる訳にもいかんか」
 それなら仕方がない、とようやく真田は身を起こし、二人は久し振りに立ち上がった。
 帰る支度を整えているところで、桜乃の肩に男のジャケットがふわりと掛けられる。
「あ…弦一郎、さん…」
「冷えてきた…着ていろ」
「あ、りがとうございま…」
 ぎゅう…
「!」
 抱き締められて思わず声を止めて見上げると、真田が酷く嬉しそうな、安らいでいる表情で、すり…と自分の頭に顔を擦り付けてきている。
 まるで…獰猛な虎がマタタビで酔って甘えている様に。
(うわ…っ)
 真田さんって…こんな顔するんだ……
(……もしかして真田さん、思ってる以上に甘えんぼさんなのかも…)
 それが仮定ではなく真実であったことを、桜乃はその後、たっぷりと思い知らされることになるのである……






前へ
真田main編トップへ
サイトトップヘ