男女七歳にして…
「ええと、ええと…でんしんばしらをまがって…」
小さな足を必死に動かして、ぱたぱたとその子は忙しなく走っていた。
口で常に何かを呪文のように呟いて。
それは、自分の行為一つ一つを、辿るように、戒めるように、自分自身に言い聞かせる為のものだった。
何故、そんな事をしているのか…それは例え彼女に問うても、彼女自身分からなかっただろう。
ただ、そうするしかなかったのだ。
自分の今置かれている立場から、せめて不安というものを取り除く為に…いや、自分の今の状況を一時的にでも忘れ…認めない為に。
(おかあさん…あそこのかどをまがったら、きっともとのばしょにもどれる…そしたら、おかあさんにも…)
また、すぐに会えるよね…?
少女は縋る思いでそう必死に念じ続けた。
彼女の手にしている小さなバッグには、小さな名前欄があり、そこにはひらがなで『りゅうざきさくの』と書かれていた。
隣の簡素な住所欄には東京都、とある。
因みに、彼女が今彷徨っている場所は少なくとも都内ではなく、神奈川県に属する土地だった。
勿論、彼女は一人でここまで来た訳ではない。
本来、都内に住み、他の子供と何ら変わらない幼稚園児だった少女は、今日、母が出掛けるのに一緒について来たのだった。
母の目的は、よく分からない、覚えていない。
確か、お友達に会うとか言っていた…
少女にとっては、久し振りに遠くにお出かけ出来るチャンスだった。
いつもよりおめかしして、長い髪もしっかりとおさげにして、お気に入りのバッグを持って、いざ出発!
電車を乗り継ぎ、駅を降り…母が誰かと話しこんでいる時に少し退屈になっていたところで、少女を誘うように蝶が視界に飛び込んできたのだ。
時は丁度春の始まりの頃…全ての命が芽吹き出し、心も浮き立つ季節。
例に漏れず、その少女の心も、美しく舞う蝶を見て大いに浮き立った。
だから、少しだけ…ほんの少しだけ、蝶を追いかけてみたくなったのだ。
少しだけ遊んで、すぐにまたここに戻ってきたらいい、お母さんはまだ誰かと楽しそうに話しこんでいるし…だから、ちょっとだけ。
そして、彼女は…竜崎桜乃は、その場から一人で離れてしまったのだった。
子供の戒めなど、気休めにもならない、その子の興味が他にあったのなら尚更に。
桜乃は、ちょっとだけ…と思いながらも、蝶を追いかける内に時間を忘れ、歩いた道も覚えられないまま、何処かの小路に迷い込んでしまったのだ。
ふと気がつくと、辺りに溢れていた喧騒は失われ、人もあまり通らない様な道が続いている。
両脇には高い壁…いや、片方は何処かの家の塀だろうか?
我に返った時には、自分をここまで連れて来た蝶も、何処かへと消えてしまっていた。
ここにきてようやく、少女は己の軽率な行動に気が付いてしまったのだが、過ぎてしまった時間は戻す事は叶わない。
彼女は一人、元の場所に戻るべく努力を始める。
しかしそれも、自分が辿ってきた道を記憶を辿りつつ戻るという、実に不確かなもの。
どの道も似たような舗装がなされ、似たような電信柱が立ち、似たような壁が立ち並び…蝶ばかりを追っていた娘にはそのどれもが見覚えのあるような景色ばかりだった。
誰か頼れる他人がいたら、大声で泣いていたかもしれない。
しかし、誰もいない場所では、意外と子供は強くなる。
頼れる人間がいないから、自分で何とかするしかない事を知っているからだ。
今の少女もそうだった。
引っ込み思案で、内気な子供でも、ここで立ち止まってばかりいられない事ぐらいは分かる。
母親を探し、見つけないことには、自分は家にも帰れないのだ。
だから、桜乃は頑張って、恐怖を堪え、自分なりに正しいと思う道を辿っていったのだ。
そして、何度目かの曲がり道に差しかかり、そこを曲がった瞬間…
「!」
少女の足が竦んだ。
視界の先…見えなかった曲がり道の向こうに…犬がいた。
彼を繋ぎとめるリードなどはなく、飼い主と思しき人間も見えず…野放し状態の一匹の犬が、道の中央を塞ぐように立っていた。
見つからなければまだ見なかったものとして、二度とそこに来なければよかったのだが、桜乃が硬直している間に向こうも少女の気配に気付いてしまう。
視線が合った…
「う…っ」
硬直していた足が、無意識の内に数歩下がり…犬の攻撃的な鳴き声を聞いた瞬間、桜乃に掛けられつつあった金縛りの術は一気に解けた。
「キャ――――――ッ!!」
普段は大声を出すことなどない少女も、この時ばかりは別だった。
後ろから追いかけてくる犬の声が、どんどん近づいてくる。
幼稚園児の動きなど、犬の速さに比べたらたかが知れている。
それでも逃げるしか選択肢のない桜乃は必死に走って逃げ切ろうとしたのだが、慌てるあまりに足がもつれたか、それとも小石にでもつまづいたのか、途中で彼女は派手にこけてしまった。
「きゃあんっ!!」
転んだ拍子に地面にしたたかにぶつけた手と足が痛む…が、今の桜乃は痛みよりも自分の後を追いかけてくる犬の方が怖かった。
痛みになど、気を向けている暇も無かった。
(やだやだ!! こないでぇ!!)
本当は叫びたかったのに、恐怖が喉を凍らせてしまう。
どんどん犬の鳴き声は近くなり、それと共に桜乃の身体は転んだまま竦んで完全に動けなくなってしまった。
「〜〜〜〜〜!!」
息を止め、両手で頭を庇い、ぶるぶると震える桜乃は、いつ犬が自分に噛み付いてくるかと恐れ慄いていたが、その彼女の耳に意外な音が聞こえた。
ぎゃんっ!!
「…?」
何か妙な音が一つ大きく響いたかと思うと、後に、犬の鳴き声が続いた。
その鳴き声はさっきまでの威嚇する様なものではなく、明らかに怯えや苦痛を表すもので、直後、犬のものと思しき足音が、慌てた様に遠ざかってゆく。
すぐに顔を上げる事は出来ず、桜乃はそろ…と辺りを伺うように瞳だけを開き、こそ…と背後を振り返ってみると…
一人の子供が、背中を向けて立っていた。
白のシャツに黒の半ズボン…手にしているのは竹刀だろうか。
顔は見えないが、黒の帽子を被っており、自分よりは明らかに年上の印象だ。
「…大丈夫か?」
凛とした声が、掛けられた。
子供の桜乃でも、『子供らしくない』と思う程に大人びた口調で、彼は言いながら振り向いた。
笑顔はない。
きりっとした顔立ちの少年は、身体は明らかに子供のそれでありながら眼光は鋭く、その年齢相応の子供らしさというものは、およそ失われてしまっていた。
振り返りざま、軽く竹刀を振った仕草に不自然さはなく、彼がその獲物を扱い慣れているという事がすぐに分かる。
きっと彼が、手に持つ竹刀で、あの犬を追い払ってくれたんだ。
まるで、テレビの時代劇に出てくる人みたい…見た目は普通の服なのに…
一種、異質にさえ見えた彼の姿は、この時、初対面の桜乃の脳に深く刻み付けられた。
「おい…?」
いつまでも返事がない相手に、不安に思った少年が近づき、膝をついて覗き込みながら身体を反転させるのを手伝ってくれた。。
その時初めて、彼は桜乃が転んだ時に出来た手足の傷に気がついた。
膝と、左手の手首の部分からの出血が特に酷い。
「血…怪我をしたのか?」
「あ…」
指摘され、桜乃はその時ようやく自分の負った傷に意識を向ける事が出来た。
肌に流れる真っ赤な血が、幼い心に時間差のカウンターを食らわせ、同時に痛覚をも呼び起こしてしまう。
「う…っ」
嫌な予感を感じて、少年が身を僅かに引いた直後…予感は的中し、目の前の少女がわっと声を上げて泣き出した。
迷子になってしまった恐怖と、傷を負ってしまった痛みと、犬から助けてもらった安堵感と…様々な感情がない混ぜになり、軽いパニックを起こしてしまったのだ。
「あ…な、泣くなっ! その、痛いかもしれんが、もう大丈夫だ! だから泣くなっ!」
相手の少年は、泣き出した桜乃を明らかに持て余した様子だったが、それでも見捨てることはせず、必死に慰める。
しかし、大声はすぐに治まったものの、痛みと心細さは消えてなくなる訳でもなく、少女はめそめそと絶えず涙を零し続けていた。
「し、仕方ないな…ほら」
ぺろっ…
「!」
ちり、とした痛みを感じて閉じていた瞳を開くと、少年が自分の膝の傷口を舐めている姿が映った。
一度だけでは舐め取れなかった血の跡を、何度か繰り返して舐め、傷口が見た目清められたところで、今度は左手首の傷口にも唇を付けてくる。
力を込めると痛むだろう事を考え、遠慮がちに舌で傷に触れてくる少年を、少女は泣くことも忘れてじっと見つめていた。
(てあて…してくれてる…)
ちょっとだけ痛いけど…凄く安心して、心が落ち着く…
「ほ、ほら…血も止まっただろう。犬も追い払ったから、もう大丈夫だぞ」
「…うん」
傷を舐め終わった少年は、黒の帽子を深く深く被って顔を隠すようにしながら立ち上がり、桜乃にも手を貸して彼女を立たせた。
「また犬が来ない内に、家に帰れ。帰れるか?」
「……まいご」
「……」
あまりに分かり易い一言に、却って戸惑った様子で少年が首を傾げる。
「……迷子?」
「うん」
「……道、分からないのか?」
「うん」
「……親は?」
「いなくなっちゃった」
「……」
多分、いなくなっちゃったのではなく、はぐれたんだろうな…とは予想はついたものの、自分に出来ることは最早ないと踏んだのか、彼はぐい、と少女の手を取り、引いた。
「?」
「仕方がない…近いから、ウチに来い」
それからその子は桜乃を連れて道を行き…一軒の大きな屋敷へと入って行った。
「母上、迷子です」
どうやらその子の家であるらしい屋敷に着くと、彼は玄関を抜けてすぐに家人にそう伝えた。
まだ若く美しい彼の母親らしき女性が奥から出てくると、彼女は桜乃を見てあらあらと声を上げた。
そして彼女はすぐに少女の持つバッグに注目し、名前欄と住所を確認すると、中を検めてそこから幼稚園の連絡帳を見つけて頷いた。
「この子のご自宅に連絡を入れて、どなたかに迎えに来てもらいましょう。弦一郎は怪我の手当てをして頂戴」
「はい」
母親の言いつけにすぐに頷いて、弦一郎と呼ばれた少年は桜乃を改めて見下ろした。
「手当てをしよう」
「はぁい…」
見ず知らずの者の家の中に招かれ、不安げな面持ちだった桜乃だが、少なくとも弦一郎と呼ばれた少年に対しては信頼の情が芽生えてきた様だ。
彼に言われるままに、彼女は居間らしき部屋に通され、そこに収納されていた救急箱を相手が持ち出し、傷の手当を受けた。
「じゃあ、消毒をするぞ。少し染みるが我慢するんだ…泣くなよ」
「う…」
痛いのは嫌だったが、やらないといけない事だとも理解している。
怖くない、怖くない…このお兄ちゃんは怖くない…!
ぎゅ〜っと目を閉じて我慢の準備をした少女を見て、その微笑ましさに微かに笑みを浮かべた少年は、出来るだけ迅速に、痛みを長引かせないようにして桜乃の傷口を手当し、最後に絆創膏を当ててやった。
弦一郎の言いつけ通り、桜乃は必死に痛いのを我慢して、最後まで泣かなかった。
「よし、終わり」
相手の宣言に、はふ〜〜っと桜乃が息をついていると、彼の手が頭に伸びてきた。
「よく我慢したな…偉いぞ」
「!…うん」
優しく頭を撫でられて喜んでいるところに、先程の少年の母親が居間に来た。
「今はどなたも出られないみたいね…また後で掛けなおしましょう」
「そうですか」
「……」
事態をまだ完全には理解していない桜乃は、今やぺったりと恩人の弦一郎の身体にひっついている。
「お、おい…?」
呼びかけても一向に離れようとしない少女に弦一郎が戸惑っていると、また母親があらあらと笑った。
「弦一郎が懐かれるなんて珍しいわね…お迎えの方が来るまで、ちゃんと面倒を見てあげて頂戴。お兄ちゃんなんですから」
「は、母上…」
照れた様な、困惑した様な顔で母親に応じるものの、反対することも出来ず、弦一郎はそれからも甲斐甲斐しく桜乃の面倒を見た。
とは言っても、おままごとなどの遊びは道具もないので出来る筈もなく、せいぜい庭の中を案内して遊ばせるぐらいしか出来なかったのだが。
それでも、幼い少女にとっては池に鯉が泳ぐ様子などは非常に面白いものであり、桜乃はずっと退屈もせずに大きな箱庭の世界を楽しんでいた。
最初こそ戸惑っていた様子の弦一郎も、桜乃の世話をする内に多少は慣れてきたのか、徐々に表情も砕けたものになっていった。
「あれなぁに? おにーちゃん」
「ああ、あれはな…」
それからどれだけの時間が過ぎたのか…
「ねぇ、おにーちゃん、おにーちゃん…」
この花は何と言う花だろうと、庭に咲く花を覗き込みながら相手に声を掛けた桜乃は、返事がないのを不思議に思い、振り返った。
「あ…」
眠っている…
桜乃の様子を見る事が出来る縁側に座っていた少年は、その心の隙を睡魔に襲われたのか、ぽこぽこと心地良い日光を受けながらそこに倒れ込むように横になってしまっていた。
実は、桜乃を助けた時、弦一郎は剣術の外稽古の帰りであり、既にある程度の疲労は溜まっている状態だった。
それから彼女を犬から守り、怪我の手当てをして、面倒を見て…子供には結構な重労働だったに違いない。
それでも文句一つ言わず泣き言一つ漏らさなかった少年は、かなり責任感の強い性格らしかった。
(おにーちゃん、おねんねしてる…)
起こさないようにこっそりと彼の寝顔を覗き込んだ後、桜乃はきょろっと辺りを見回して、庭に丁度干されていた手が届くところにあったバスタオルを一枚、取り込んだ。
日光をたっぷり浴びて、もうすっかり乾いているそれを持つと、彼女はそれをこそこそと少年の身体に掛けてやった。
(おかぜひいたらたいへん……あ、もっとあったかくしてあげなきゃ)
あったかくするには…と少し考えた後、桜乃はいいアイデアを思いつく。
これなら、間違いなく相手を暖めることが出来るし、火も使わないから安全!
「えへへ…」
起こさないようにそーっとそーっと…
桜乃は、弦一郎の隣に同じくバスタオルの中に潜り込んだ。
よいしょ、と定位置についたところで不意に横を見ると、すぐ傍に相手の寝顔がある。
「!」
幼心に動悸を感じながらも、桜乃は静かに彼の横になり、寝顔を見つめながら自分も昼寝の体制に入った。
傍で見る少年の寝顔は、厳格な顔立ちでありながら、非常に端正で整っている。
(…さくの…このおにーちゃん、だーいすき)
厳しそうに見えて、実は非常に優しかった少年にメロメロになってしまった少女は、それから微かに伝わってくる彼の温もりを感じながら、同じくこてんと安らかに寝入ってしまった。
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