「…ん」
それからまた少し時間が経過した頃…今度は弦一郎が居眠りから目を覚ました。
「…!!!」
薄目を開け、直後にくわっと最大限の大きさに瞳を開き、硬直する。
目の前に、あの娘の寝顔がアップで迫っていたのだ、それは当然驚くだろう。
声もなく跳ね置き、ばくばくと一気に激しく脈打ち始めた心臓を必死に抑え込みながら、彼はまじまじとまだ眠っている桜乃を見下ろした。
(なっ、なっ…!! 何が起こったんだ!?)
自分は確かここに座っていて…気がついたら横になっていて…いや、おそらくつい居眠りをしてしまったのは間違いない、それは己の不覚で、大いに反省すべきところだ、しかし…
「〜〜〜〜〜!!」
ふるふると震えながら、何かを恐れるように彼は自分に掛けられていたバスタオルを握り締める。
(だ、男女七歳にして席を同じうせず…! な、のに…なのに…っ!!)
思いっ切り、同じくしてしまった!!
不可抗力とは言え、そもそも自分が気を抜いてしまった所為で、あろうことか行きずりの女子ととんだコトに〜〜〜!!
かなりテンパっている様子の弦一郎を他所に、桜乃はまだすぴすぴと安らかな寝息を立てている。
(こ、これはやはりアレか? せ、責任を取って、俺がこの子を嫁に貰わないとならんのか!?)
どうやらこの家には今も尚、古風な風習が息づいているらしい。
そうしている内に、周囲の変化を敏感に感じ取ったのか、桜乃もまたもぞりと起き出した。
「ううん…」
「!…あ…」
「…おはようございますふ〜」
「お、おは…よう」
自分が何を言っているのかも分からなくなってきたらしい少年は、どぎまぎしながら相手の娘に呼びかけた。
「す、すまない…お前に、言っておかなければ」
「? はい?」
「その…ほ、本来、男子と女子は、七歳になればもう一緒の場所で寝るなどしてはいけないのだ…俺はもう七歳を過ぎてしまっていて…だからその…将来お前は、この事で責められるかも、しれない…」
「え…?」
「もし責められたら…その時には、お、俺が責任を取って…お前を嫁にする」
「!!」
「そのっ…だから、心配するな」
この時、弦一郎は小学二年生。
まだまだ現実の、大人の社会を知らない子供でもあった。
祖父の教えを第一として頑なにそれを見つめ、守り続けてきた彼にとっては、今の世には通じない昔の教えも遵守すべきものだったのだ。
そして桜乃は、彼よりも幼い幼稚園児…相手の時代錯誤な言葉を疑うことも否定することもなく、純粋にその言葉を心から信じた。
「うん! さくの、おにーちゃんのおよめさんにしてもらうっ!」
「えっ!?」
もう決定事項なのか!?と驚く弦一郎に桜乃がきゃ〜っと大喜びで抱きついていったところで、丁度弦一郎の母が、桜乃の迎えが来たと呼びに来たのだった。
それから数年の年が刻まれ…
あの日、小学二年生だった若者も今や中学三年生となり、身長も随分と伸びていた。
幼い頃からストイックだった性格はまるで変わっておらず、厳格で努力家肌の若者は、今や全国中学テニス界における強豪校、立海男子テニス部においても副部長という立場である。
「今日の試合も楽勝だったな」
「そうじゃの」
同じレギュラー部員である仲間達と試合からの帰途にあった真田は、そんな彼らの雑談を聞き、時には会話に加わりながら、道を歩いていた。
そんな彼らの傍を、向こうから歩いてきた同じ年頃の女性のグループがすっと通り過ぎてゆくと、不意に真田の頭が動き、彼女達の姿を目で追った。
しかしすぐに目的が済んだとばかりに、彼は頭の位置も視線も元に戻す。
「…真田ってさ」
そんな仲間の姿に気付いた丸井という赤い髪の若者が、相手に声を掛けた。
「色恋に興味ないって言いながら、たまに女に注目したりするよな。好みの顔の奴でもいたの?」
「なっ…! ば、馬鹿な、そんな事ある訳…」
幼い日と同じ様に被っていた、黒の帽子の下の素顔を隠しつつ、真田が相手の言葉を否定した。
しかし、隠された顔に浮かんだ表情は明らかに狼狽している。
「何じゃ、知らんかったのか? 丸井よ」
一緒に歩いていた仲間の中でも、『詐欺師』と呼ばれ警戒されている若者が、面白そうに会話に割り込んできた。
「真田はのう…おさげっ子が好きなおさげフェチなんじゃよー」
「えええっ!? 副部長にそういう趣味がっ!?」
「仁王―――――っ!?」
二年の後輩である切原の痛い視線を受けながら、真田が仁王に怒声を浴びせるが、向こうは少しも怯む様子もなく、逆に自分が掴んでいた事実を突きつけた。
「ちょっと注意して見とればすぐに分かる事じゃよ、真田…お前さん、おさげの子がいると絶対にその子の方を見るんじゃ。けど、つまらん顔ですぐに目を逸らすって事は、お眼鏡に適った子はおらんかったってコトじゃな…自分の癖、分からんかったかの?」
「〜〜〜〜!!」
ぶるぶると震えながら相手を睨み付けたものの、真田は否定の言葉は発さない。
それは明らかに、自分自身に確かにそういう習慣があると認めた事に他ならなかった。
しかし向こうの言い分を完全に認めたという訳でもなく、彼は否定はしなかったが、一つだけ断りも入れた。
「だ、黙れ! 俺は、そこまで節操なしではない! おさげだったら誰でもいいという訳ではないぞ!」
「ふぅん」
「!」
言い切った後で聞こえた合いの手に、ざぁっと真田の顔色が青くなる。
しまった…身の潔白を証明したいと思った筈が、逆に一番厄介な男に新たな餌を投げ入れてしまったかもしれん…
その予想の通り、彼の傍で騒動を見守っていた部長、幸村精市が薄い笑みを浮かべつつ彼を見つめていた。
「…つまり、君にはおさげの気になる子がいるということだね? しかも、今はその相手が何処にいるとも知れず、探している様に聞こえるんだけど」
ほらやっぱり…と思ったが、発言はもうなかったことには出来ず、真田は他の部員の視線を浴びながら必死に言葉を探した。
「き、気になると言うか…小学生の時に一度だけ面倒を見た事があるだけだ。ウチの近くで迷子になっていて…その日の内に親が連れ帰って、それきり会っていない……ただ、あの子が元気でいるのか、ちょっと気になっているだけだ」
「小学生…俺も知らないな、そんな話」
「二年生ぐらいの時だ。お前にもまだ会ってなかったからな」
幸村との会話を聞いていた部員達が一様に驚愕の表情を浮かべる。
(ちょっとって…)
(二年生って事は、もう十年近いじゃんか…)
(一度しか会ってない子に、そこまで…!?)
ただ気になるだけなら、そこまで執着がある筈がない…本人は果たしてそれに気付いているのか?
「弦一郎、それって何て言うか知ってる?」
「?」
幸村の問い掛けに、厳格ながらも色恋に疎い男はやはりと言うべきか、眉をひそめて首を傾げた。
「…一目惚れって言うんだよ」
「っ!!!」
『わー、純情―――――っ!!!』
「黙れ黙れ黙れ〜〜〜〜〜〜っ!!」
仲間達の冷やかしの声に、真田が大声で喚いた。
「どうせ向こうは俺のことなど覚えてはおらん! 会うことも叶わんのなら、一目惚れだろうが何だろうが成就する筈もなかろう!…行って来る」
そう言って、真田は丁度通りかかった駅の方へと足を向けた。
「りょ? 副部長、何処に?」
「バカ、赤也、朝言ってたろうが。真田はこれから青学に行くんだよ、向こうの顧問と打ち合わせだ」
切原の疑問にジャッカルが答えている間に、彼はずんずんと駅の中へと入っていってしまった。
もうこれ以上この件については答えないと背中が思い切り拒絶している。
「…相変わらず不器用な男だな。自分で自分を傷つける事を言って」
参謀の柳が呟いた台詞に、うーむと若者達は渋い顔をした。
しまった、少しからかい過ぎただろうか…?
「真田副部長の性格から、一度想った女性ならば、そう簡単に忘れられるとは思えません…向こうが別の男性と恋仲になってでもいたら、諦めもつくのでしょうが」
「その前に、都内だけでもどれだけおさげの女がおると思っとるんじゃ…それに、都内におるとも限らんじゃろ」
「俺達が諦めるように言ったところで聞きやしないよ、弦一郎は…せめて、いつかは会えるように願うしか出来ないだろう…でも俺は、早くそれが叶えばいいと思っているよ」
そこまで親友が思いつめているのなら、成就させてやりたいと思うけど…と部長の幸村は言い、それには誰も反論しなかった…
(全く…下らん話をした。もう二度とあいつらにはあの件については答えんぞ)
結局、青学に到着するまで、真田はむっと唇をへの字に引き結んで不機嫌も露だった。
しかし、流石にこれから向こうのテニス部顧問と会う予定がある以上、そんな仏頂面を見せる訳にもいかず、彼は目的の相手と会う時には普段の表情に戻っていた。
まぁ、見た目あまり変わらないのは仕方ないことだったが。
「よく来てくれたね、真田。幸村達は元気かい?」
「はい、お陰さまで…竜崎先生」
テニスコートの脇で青学の顧問である竜崎スミレと会い、挨拶を交わした真田は、それから少し相手と会話をしていたが、その途中でとある練習試合に話が及ぶと向こうがぽんと手を叩いた。
「ああいけない。持って来ようと思っていた書類が部室の中だった。少し待っててくれるかい、すぐに戻るよ」
「分かりました」
顧問がいなくなってから、手持ち無沙汰になった真田は何とはなしに、コートへと視線を遣り、そこで練習をしている青学の生徒達へと注目した。
向こうも色々と厳しいメニューをこなしている様だが…立海とて負けてはいない。
しかし、相手を知る事でこちらの役に立つこともあるだろう。
見たところ、手塚は今は席を外しているようだな…
「…ふむ」
顎に手をやり、何かを思案している様子の真田だったが、不意に背後に何者かの気配を覚えた。
ちら、とそちらへ視線を向けるが、顔ではなく、服装だけが見えたところで、彼は相手が青学の女子生徒であることを知る。
この学校指定の制服が見えたからだったが、もう一つ、真田が目を留めるものがあった。
向こうの女子生徒の後ろに揺れるおさげだ。
いつもなら染み付いた癖で相手の顔を見上げたのだろうが、先程の仲間達とのやり取りが思い出され、彼はついまた機嫌を損ねそうになってしまった。
「…あれ? お祖母ちゃん?」
「…?」
向こうの女子は、そこにいた筈の誰かを探しているのか、そんな声を漏らした。
ここで「お祖母ちゃん」という台詞が出てくるという事は…竜崎先生の身内か?
そう思い、真田はごく自然に振り返りながら女子に答えてやった。
「竜崎先生なら、今、部室に…」
振り向きざまに、彼は初めて相手の顔へと目を向け…
「…!」
向き合った瞬間、真田は身体も息も止めてしまう。
ほんの少し離れた場所に立っていた少女の姿を見た途端、動けなくなってしまったのだ。
(似て…いる…)
あの日の子…迷子になっていた少女に…面影が似ている…?
これまで出会ってきた女性には何も感じなかったのに、この子を見た瞬間、自身の心の中で何かが激しく揺らされた様な…いや、しかしそんな…
求めていた筈なのに、見つけたと思っても今度は懐疑的になってしまい、真田は自分を落ち着かせようと帽子のつばに手をやりながら俯いた。
(落ち着け…初対面の相手だ、勝手にうろたえていたら怪しまれかねん)
ここは自然に、と思いつつなるべくそうしながら再び相手に目を遣り…真田が再び固まる。
「…え?」
「……」
相手の少女が…こちらをじっと見つめてきていた。
訝しむのではなく、まるで感極まった様子で、食い入る様にこちらを見つめてきている…
よく見ると、彼女の身体は微かに震え、瞳は潤んでさえいた。
「あのっ……お、ぼえて…ますか…?」
「え…」
か細い声でそう問いながら、その娘は己の左腕を掲げ、手首を見せる。
そこには、過去に傷つけたと思しき小さな傷跡が残されていた。
「…わたし…は」
「…っ」
まさか!!
いや、しかしこの記憶に間違いはない。
幼かったあの日、少女を助けた…膝と手を怪我した娘を…覚えて、いる。
「お前は…!」
やはり、見間違いではなく、思い込みでもなく、お前はあの日の…あの子なのか?
あの時、俺が手を引いて歩いた…あの子なのか!?
思わず数歩歩き出し、そのおさげの少女の前に立った真田がじっと見つめて言葉を失う中、彼女はぽろっと一粒の涙を零しながら目を伏せた。
「私、あの日の…迷子、です……お、にいちゃん」
「!!」
武者震いではなく、恐れでもなく…唯、何故か全身が震えた。
震えが伝染した手でそろりと相手の肩に触れると、確かな感触と温もりが伝わってくる。
現実…夢ではない、明らかな現実の世界に、この子が存在している。
何年…この時を待ち望んでいただろうか…?
お前の事が気掛かりだった…いや、そんな軽い理由ではない。
俺は……そうだ、お前に会いたかった、本当に会いたかった。
今思えば、共に眠った責任とかそういう理由は、お前に会う為の言い訳に過ぎなかった…
「…そう、か…」
すぐにでも叫びたい相手への気持ちを必死に押し隠しながら、真田は言葉を探した。
「……お、大きく、なったな…もうあれから随分経つから…それも当然か」
当たり障りのない台詞を言い、それ以上何を言っていいのか分からない男に、少女はまだ瞳を潤ませながらもくすりと笑った。
「…お兄ちゃんの方が、ずっと大きい…まるで、あの時と同じ…」
「そ、そうか…?」
「うん……ねぇ、お兄ちゃん」
「?」
「あの日の約束…覚えてますか?」
「っ!!」
忘れた訳はない…が、直接的な質問に真田が言葉を詰まらせ、微かに顔を紅潮させると、察した様に相手が言った。
「…あの、ね…私、忘れてない…忘れてないけど…お兄ちゃんの迷惑になるなら、忘れるように、するから…」
だから…責任とか、気にしないでいいですから…
「…」
自分の為に枷にならないようにそう言ってくれた少女に、男は沈黙していたが、やがて照れ臭そうにふいっと顔を横に向けた。
忘れていないのなら…お前の気持ちも、俺と同じだと思っていいのだろう?
「…その…お前の…」
「…?」
「お前の名前を…改めて、教えてくれ。これから『長い』付き合いになるだろうに、名前も呼べんのは…困る」
瞬間、驚いた表情を浮かべた少女は、それからすぐに花が綻んだ様な笑顔を見せた。
「!!…はい」
そして、そろそろと遠慮がちに手を差し出す。
「…桜乃…竜崎、桜乃…です」
「桜乃…そうか…ああ、確かに懐かしい響きだ」
嬉しそうにそう言いながら、真田も手を伸ばし、相手のそれを優しく握った。
十年近い過去にも、こうして自分はこの子の手を握っていたのか…それぞれの姿は随分と変わってしまったが、この手は相変わらず自分の掌の中に納まってしまう程に小さい。
「…真田、弦一郎だ…随分、探したぞ」
「…弦一郎さん」
探して探して…ようやく見つけた。
もう俺は…道行く女性達の中でお前を探す必要は無いのだな…
お前だけを、見ていたらいい…それがどんなに嬉しいか、お前には分かるだろうか?
「…桜乃」
久し振りに呼ぶ、少女の名前。
それに応え、微笑む娘の姿を見つめながら、真田はようやく己の願いが成就した瞬間を噛み締めていた……
了
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