憑いてる?
「おはよー」
「おはよ」
その日も朝から快晴で、しかも都内は連日猛暑。
ようやく夏休みというひとときのバカンスを得た生徒達は、ゆっくりとクーラーの効いた自室に引きこもり、涼しい夏を満喫出来る…と思いきや、現実はそこまで甘くなかった。
「も〜嫌、も〜沢山…何で夏休みにまで学校に来ないといけないのよー」
「文句言わない。午前中だけで解放されるだけマシだってば。それに朝から家にいたって、どうせお母さんから『勉強しろ』って言われるんだし」
「そりゃそうだけど…」
夏休みの筈の、青学の一年生の教室がある棟では朝からそんな会話が複数飛び交い、日常と似たような光景が広がっていた。
正規の授業ではないが、夏期講習というものが実践されているのだ。
ここ青学は、勉学とスポーツの双方を両立させる事も大きな目標として掲げているだけあり、例え一年生でも、休み中でもこうして期間を限定して講習を行っている。
一応名目上は希望者のみの参加ということになってはいるが、周囲の人間が参加して、自分だけ不参加になればどれだけの差が夏休みの間についてしまうか…という人間の心理を上手く突かれた形で、ほぼ全員が参加という結果になっている。
「こういうのもどうせ学校案内のパンフには、『生徒達も絶賛、参加率九割を超える講義内容』とか書かれたりするのよね」
「嫌よねー、大人って」
「みんな…黒いよ」
やさぐれているクラスメート達の中で、一人、おさげの少女が苦笑しながらその発言を窘めると、彼女達もそちらへと振り返った。
「あ、桜乃、久しぶり」
「何日か講習休んでたけど…どうしてたの?」
「うん、遠縁の人の法事にちょっと遠出してたの。私は覚えてもいない人だったんだけど、お墓に行ったりして色々と」
「そっかぁ」
名字を呼ばれた竜崎桜乃は、彼女達の質問に答えた後、手にしていた鞄をとすんと自分の机上に置いた。
久しぶりの教室の雰囲気は、それだけで心を緩ませる何かがある様だ。
いつになくほんわかとした笑顔を浮かべた桜乃は、ごそごそと鞄の中を探ってノートや筆記用具を取りだしてゆく。
「墓参りって、この時期だと暑くて大変だったんじゃない?」
「倒れたりしなかった?」
猛暑の中、屋外で、日陰もないだろう場所に長時間立つ事を連想したクラスメート達が桜乃を気遣ったが、当人は至って平気な顔で首を横に振った。
「ううん? そんな事はなかったけど…でも、流石にスケジュール的には強行軍だったから、ちょっとは疲れてるかも」
「そうなんだ、気をつけなよ?」
「じゃあ、また後でね、先生来たみたい」
最初の講義の担当である教師が入室してきたことを合図に、少女達を含めた生徒達が一斉に自分の席へと戻っていき、桜乃も流れのままに着席した。
そして、何の問題もなく講義が始まったのだが…
(う…なんか、寒いな)
ふと、講義中に桜乃がぶるっと肩を震わせ、久しぶりに顔をあげた。
横を向いたら青い空を映すガラス窓…燦々と日光が教室の中を照らしている。
見ているだけで『夏の空!』と主張が激しい程の快晴振りだったのだが、桜乃が今感じている寒気とはあまりにそぐわないものだ。
(空調、効きすぎてないかな…他の皆は寒くないのかなぁ…)
きょろっと辺りを見回し、桜乃は自分と同じように誰かが寒がっていないかと無意識の内に探りを入れる。
もし同調者が他にもいたとしたら、空調の温度を上げるように頼んでみるのもいいかもしれない…
しかし、その教室内には寒がっている生徒どころか、
「せんせーい、あちぃよー! 温度もっと下げてくれよ」
「さんせーい」
「今時、設定温度が二十八度ってないよ」
逆に更に温度を下げるように訴える生徒達が、タイミング良く(?)続出したのである。
(えええ〜〜〜っ!!??)
聞き間違いかと思いたくても複数から名乗りを上げられ、内数人は自分と同じ女子となると、そう思い込む訳にもいかなくなる。
(これでもまだ暑いの!? 私なんか震える程に寒いのに…)
信じられないと桜乃が思っている間にも、生徒と教師の会話は続く。
「何をだらしない事を言っているんだ。あまり温度を下げると却って夏バテになるぞ、お前ら。多少は暑い方が身体の調節機構も上手く働いてくれるんだから、我慢しなさい」
「けどさ〜」
「なんか蒸しっとしてて気持ち悪いです」
「この授業中は我慢だ。全員が問題を解けたら講義を早く切り上げるから、休み時間は自由にしなさい、全く、先生の小さい頃は…」
それからも、教師の昔話も込みの話は続いていたが、桜乃は正直自身が感じる寒気に意識を向けるのに手一杯で、その内容の殆どは覚えていなかった…
(どーしたんだろう、風邪かなぁ…なんか身体も重いし…)
何とか午前中の講義を終えた桜乃は、寄り道もせずに真っ直ぐに自宅へと向かっていた。
いつもなら、友人達と一緒に途中で気になる店に立ち寄ったり、ファーストフード店でくつろいだりするのだが、今日はとてもそんな気分にはなれなかったのだ。
とにかく身体が重く、そして寒い。
目の前に広がる街並みは間違いなく真夏の光景で、道行く人々も一様に汗をかきながら暑そうな表情を浮かべている。
それなのに自分は、今にも震えだしそうな程の悪寒に包まれ、一歩一歩の足取りもやけに重い。
まるで、自分と周囲の世界に見えない膜が存在し、自分だけ冬の気候を閉じ込めたカプセルの中に放り込まれた様だった。
(あ〜…何だか冬山で遭難した気分になってきた。でも風邪っぽい症状は全然ないのになぁ、夏に寒気だなんて怪談話でもあるまいし)
そう思いながら、桜乃はふらふらとおぼつかなくなってきた足取りで、丁度道端にあった木陰の空いているベンチに腰を下ろし小休憩を取ろうと試みた。
そこには人間の先客はいなかったが、一匹の野良猫が端の方にちょこんと座っていた。
しかし桜乃ぐらいの人間一人が腰掛ける程度の幅は十分に残されていたので、彼女は何の気なしに、野良猫に断りながらベンチに座ろうとした。
「ごめんね、相席させてね猫ちゃん」
「!!」
人懐こそうな猫だったが、野良猫である以上は人間に対して警戒心を抱いているだろうから、そのまま逃げてしまうのではないかとも考えていたが、その小さな生き物は桜乃の予想とは異なる行動を見せた。
一気に背中を弓なりにしたかと思うと、長い尻尾をぶわっと最大限に膨らませ、くわっと双眸を桜乃へと向けて一気に威嚇したのだ。
更にフーッと思い切り歯まで剥きだされ、人間の桜乃の方がたじろいでしまった。
(うわあぁぁ! もしかして、お気に入りの場所だった〜〜!?…って、あれ?)
たじろぎながらも相手から視線を逸らせなかった桜乃が、ふと妙な違和感に気づく。
この猫…猫の大きな瞳の視線の先が…
(あれ…私の方を見て…ない?)
お互いに向き合っていて、向こうはこちらを明らかに威嚇しているにも関わらず、視線が合わないのだ。
その猫は桜乃ではなく、何故か角度的に桜乃の頭上に向けて睨みつける視線を送っている。
まるで、そこに誰かがいるように。
「…」
何故、と思っていた桜乃が、ある想像に至った時、すーっと彼女の顔から血の気が引いて行った。
まさか…
(わ、私の頭の上に……『誰か』いるの?)
人ではない…でも、人だった誰かが…
そんな事を一度思ったら、どんどん桜乃の脳裏で嫌な想像が広がってゆく。
(そう言えば、私墓参りに行ったもんね…もしかして、そこから誰か、連れて来ちゃった? あ、あはは…よく考えてみたら、あの日も猛暑だったのに私だけ何となく汗が少なかった気もするし、身体が何となくだるいのも…)
これはもしかして、墓参りなどの疲れなどではなく…?
「は…」
ふと、桜乃はベンチから視線を逸らし、道の反対方向に建っているビルの壁に目を遣った。
そこは綺麗な洒落た作りで、一階の壁は全て鏡面ガラスで覆われており、今の桜乃の姿や道行く人々を平面上に映し出している。
その二次元の景色の中にいた自分…その頭上に…白いモヤの様な人影が一瞬見えたのは、疲れの為の幻覚か、それとも現実か。
「…っ」
精神的なショックと、身体の疲労が見事に少女にカウンターパンチを喰らわせ、桜乃はくらっと空を仰いだ。
視界が回り、足の力が抜ける。
太陽の日差しは眩しいのに、闇と光が視界の中で混じり合い、闇の方が浸食してゆく…
二、三歩ぐらいは持ち堪えていたと思うが、そこから身体を立て直す事は到底不可能だった。
(あ…もうだめ)
せめてベンチに座りさえすれば、と思っても、その時には桜乃の身体はもう地面の上へと倒れこむところだった。
『危ない!!』
(…え?)
誰かの叫びを聞いて、テンポが遅れる形で、桜乃は相手が自分について叫んでいるのだと悟った。
確かに、倒れそうになっている誰かを見たらそんな台詞が出てもおかしくない。
こんな道端で倒れたりしたら、皆びっくりするだろうな…意識があれば、転んだって事にも出来るんだけど…身体が重くて起きられるか…
『竜崎っ!!』
意識がいよいよ遠のこうとしていた桜乃に、突然誰かが後ろから手を伸ばし、がしりと力強く彼女を抱きとめた。
(…?)
あったかい…
もう自分の身体の力は全て抜けてしまっている筈なのに…こんなにしっかりと支えてくれているのは…誰?
後ろを振り返る事も適わなかった桜乃だったが、向こうが抱きとめた彼女の身体をぐいと振り向かせ、相手も腰を下ろす形になったところでその姿が明らかになる。
「しっかりせい! どうした、一体…!」
「あ…」
見下ろしてくるのは、射抜く様な鋭い眼光。
普段は相手を容赦なく叩き潰す問答無用の力強さを秘めたその男は、いつもの様に黒い帽子を目深に被りながら、桜乃を覗き込んで声を掛けた。
真田弦一郎。
桜乃とは学校が異なる立海大附属中学三年生で、同校の男子テニス部副部長も務めている。
周囲からはその中学生らしからぬ風貌から畏れられている面もあるが、彼は相応の理由なく人を責めた事は一度としてない。
夏の大会前後より桜乃とテニスを通じて知己となった彼は、どうやら桜乃の異変に気づいてその窮地を救ってくれたらしかった。
いつもなら、惰弱な相手には『たるんどる!』の一喝が飛ぶところが、今の真田はその決まり文句も忘れてしまっている様子で、明らかに戸惑った表情を浮かべている。
「さ、なださん…」
「俺が誰かは分かるか…意識はあるようだな。しかし、随分と顔色が悪いぞ、熱中症か?」
軽く頷き、真田が己の手の甲をひたりと相手の頬に当てたところで、桜乃はすぅっと自身の身体が感じていたあの悪寒が霧の様に消えていくことを自覚した。
(あ…身体、軽く…)
さっきまで感じていた、あの嫌な感じがなくなっていく…
まるで…この人がそれを追い払ってくれたみたいに…不思議…
見えない不安が消えていったことで桜乃の心も軽くなり、安堵に押される様に彼女の口元に淡い笑みが浮かぶ。
「…っ!」
そんな相手の顔を間近で見ていた若者が、急にたじろいだ様子でびくっと顔を離し、慌てて視線を桜乃から逸らした。
その頬が、何とはなしに赤くなっている。
「…その…」
先程までの凛々しさは何処へやら、いきなり口下手になってしまった真田の背後から、どやどやと何やら賑やかな人の声が複数聞こえてきた。
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