箱入りSister


 真田家の朝はとても早い。
「お早うございます、弦一郎お兄ちゃん。鍛錬は終わった?」
「うむ」
 いつもの様に朝の剣術の稽古を終え、水浴びをした後に制服に着替えた真田が居間に行くと、妹である桜乃が長いおさげを揺らしながら二人分の食事を卓上に揃えてくれていた。
 自分より二つ年下である彼女は、多忙な両親達に代わり真田家の台所事情含めた家事をほぼ一手に引き受けている。
 十を過ぎたばかりの年頃とは言え、その自立振りは流石、この真田家に生きる女性というところだろう。
 しかし普段見せる表情は、同年代の女子と何ら変わるところはない無邪気なそれだった。
「む、俺達だけか?」
「昨日遅くまで仕事していたからかな、お父さん達はまだ寝てる。御飯、よそってあげるね。あと、お弁当は鞄の中に入れておいたから」
「すまんな」
 真田弦一郎は、今日、中学三年生になる。
 つまり、この日は彼の通う立海大附属中学校の始業式なのだ。
 そして、同じく桜乃にとっても非常に重要な、人生にとって一つの節目の日でもある。
「…あ、新聞の地方版に、お兄ちゃんの学校のことが載ってる」
「食事中に読むな、はしたない」
「はぁい」
 さらりと注意を受けて素直に答えた桜乃だったが、その表情はにこにこと実に嬉しそうだった。
「今日からお兄ちゃんと一緒の学校だね、楽しみだなぁ」
 そういう彼女の着ている制服は、確かに立海の女子生徒のそれであり、着慣れていない所為もあるのか見た目が実に初々しい。
 妹の素直な感想に、味噌汁を啜った後で兄もまた素直に相手を評価した。
「合格したことは、流石俺の妹といったところだ。しかし、立海のレベルは決して低くはないぞ、受かったからと言って気を抜かない様にな」
「はい、頑張ります、先輩」
「……」
 箸を咥えたままに笑う妹に、真田は小さな咳をごほんと一つしたところで無言になり、食事に集中する。
 真田は普段、中学生とは思えない程に己にも他人にも厳しく、どれだけ高みに昇ろうとも決して満足することを知らない男だ。
 それは武道でも学問でも、学校で副部長を務めているテニスであっても同じことであり、もし弱点があれば率先してそれを克服しようという気概に溢れている。
 しかし
 そんな彼でも十年以上、克服出来ていない弱点が一つだけある。
 それが、今、目の前にいる実の妹、桜乃だった。
 幼い頃より多忙な両親に代わり面倒を見、立ち居振る舞いから礼儀作法、護身術に至るまでの全てを教えてきた妹は、兄が予想していた通り…いや、それ以上によく出来た娘として成長している。
 厳格な家であればそれだけ反抗心も強く育まれたり、最悪性格が歪んだりしそうなものだが、生来おっとりとしていた桜乃には縁が無かった様だ。
 更に、真田が両親よりも長い時間彼女の世話を焼いたお陰で、桜乃はすっかりお兄ちゃんっ子になってしまったのだった。
 小さい頃から「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕われ、後ろをちょこちょことついて回られ、懐かれては、如何に厳格な男であっても情が湧く。
 それに「女を泣かせるべからず」という祖父の教えもあり、己と同様の厳しさを相手に求める訳にもいかなかった。
 無論、人として犯してはならない事は厳しく禁じ、妥協してはならないところは心を鬼にして叱ってきたのだが…彼も今や妹に負けず劣らずの兄バカになってしまっていた。
「うむ、美味かった」
「お粗末様でした、片付けますね」
 かちゃかちゃと小気味いい音をたてながら食器を片付ける桜乃の脇で、真田はすっくと立ち上がって居間から退出してゆく。
「では、俺は学校に行くぞ」
「ええ!? もう?」
 当然の真田の発言だったが、桜乃は驚いた様子で片付けの手を止め、兄に縋るような目を向ける。
「こんなに早く!? だって今日は始業式だけでしょう? もっとゆっくり…」
「始業式でも立海テニス部が休む言い訳にはならん。そういう理由が、惰性となって気の緩みを生むのだ」
「で、でも…」
「お前は始業式から出たらいいのだから、後から来ても大丈夫だ。どの道、新入生は保護者同伴という事だからな」
 鞄を持って玄関に向かおうとする兄に、桜乃は未練たっぷりといった様子で拗ねてみせた。
「え〜〜〜〜? お兄ちゃんと腕組んで一緒に登校するのに憧れてたのに〜〜!」
「行って来る!!」
 鞄を抱え、無情にも真田はすたすたと振り向かずに妹を残して去ってしまう。
 『んも―――っ 相変わらずなんだから』と後ろから声が追いかけてきたが、彼は振り向かずにさっさと玄関をくぐって外に出てしまった。
(でっ…出来る訳がなかろうがっ!!)
 祖父から受け取り、長年愛用している帽子を目深に被って顔を隠しつつ、真田は早足で学校へと向かった。
 何とかコートに着く前に、この動揺を抑えなければ…!


 真田の必死の努力が実を結んだのか、彼が立海のテニスコートに到着した時には、普段どおりの厳格な副部長の顔に戻っていた。
「やぁ、お早う、弦一郎」
「ああ、お早う精市、今日はお前が先だったか」
 真田が到着した時、一足先に部長である幸村精市が部室でテニスウェアーに着替えたところだった。
 彼らは、もう一人「参謀」と呼ばれる柳という男と共に、テニスを通じて知り合い、切磋琢磨しあう親友であり、好敵手だった。
 一見した限りでは幸村の方が明らかに真田より華奢な体つきに見えるのだが、テニスに関するセンスは幸村が上らしい。
 珍しく、真田が目指し、越えようとするに相応しいと看做している男は、着替えたウェアーを肩を回して馴染ませながら穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、今日は新しい学期の始まりだからね。流石に部長である俺がちゃんとしないと」
「お前らしいな」
 では俺も着替えるか…と真田が自分のウェアーを取り出したところで、他の部員達も次々と入室してくる。
「よ、はよー」
「お早うさん」
 そして皆がそれぞれ着替えて、準備も整ったかというところで、幸村は柳に今日の予定を確認した。
「今日のスケジュールは変更なしで?」
「ああ、今日の始業式に別段変更予定はないとの生徒会の話だったからな。こちらにも支障はない筈だ」
「そうか…そう言えば」
 不意に思い出した様に、幸村が真田へと身体を向けて笑顔で尋ねた。
「今年は、弦一郎の妹が入学してくるんだよね…桜乃ちゃん」

『!!!!!』

 幸村の一言に、柳と真田を除いた全てのレギュラーが硬直し、言葉を失った。
「…へっ?」
「……い、妹?」
 切原が唖然とする隣で、聞き違いではないのかとジャッカルが確認作業を行った。
「初耳じゃのう…知っとったか? 柳生よ」
「いいえ、私も初めて聞きましたが」
「〜〜〜〜〜〜」
 皆が揃って意外そうな顔を向けるのに対し、真田が仏頂面になって仕方なく認める。
 正直、これは知られたくなかったのだが…
「まぁ、な…後で親と来る筈だ」
「…けどさぁ、俺達これまでも何度か真田ん家へ遊びに行ったけど、妹さんなんて見かけなかったぜぃ?」
 いたっけ〜?と悩む丸井に、幸村はくすくすと楽しそうに笑いながら答えた。
「そりゃあね…桜乃ちゃんは弦一郎にとって箱入りのお姫様だもの。悪い虫がつかないように、誰かが来る時には予め、女友達の処に遊びに行かせてたんだよね」
「マジでーっ!?」
 普段はあんなに厳しい男が、何という溺愛っぷり!
 うっひゃ〜と驚く切原の視線が痛いのか、真田は暴露してくれた部長に鬼の形相で迫った。
「今日はやけに口が軽いな、精市…」
「だって俺も会いたかったのに、最近は全然会わせてくれなかったんだもの。独り占めはずるいよ」
「独り占めではないっ!!」
 何となく周囲のメンバーの視線が微妙に何かを勘ぐっている様なものに思われ、真田は必死にその誤解を解こうと躍起になっているようだ…今更手遅れだが。
「ん…じゃあ幸村は、その話題の妹さんに会った事があるのか?」
 まるで知っているような彼の口ぶりにジャッカルが問うと、幸村はバツが悪そうに視線を逸らしている親友の方とちらりと見て頷く。
「ああ、小学生の時、初めて弦一郎とクラブで会った時について来ていたんだよ。あの頃の彼女は人見知りが激しくてね、弦一郎の後ろに隠れてたっけ…初々しかったよ」
「…えーと、ちょ、ちょっと聞いてみたいんスけど」
 非常に真剣な表情、且つ、やや顔色を青くして、切原は触れるべきか否かと悩んだ疑問を遂に副部長にぶつけてみた。
「…妹さんって、もしかして副部長に似てるんスか?」
(おお、直球…)
(こういう度胸は、見上げるべきところですがね)
 詐欺師と紳士が妙な感心をしている脇で、真田は、質問に対し何ら迷う事もなく…頷いた。
「無論だ」
(聞くんじゃなかった〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!)
 うわーんっ!と泣きが入ってしまった後輩の嘆きを他所に、真田は無意識に妹を褒め始める。
 ここからでもその可愛がり振りが分かろうというものだが。
「俺が親代わりになって修身道徳を叩き込んだからな…そこらの娘よりは余程出来た女だと思っている」
 どうやら、切原の似ている、という質問が「性格」でなく「外見」に拠るものだとは思わなかったらしい。
 もしそこ辺りをしっかりと念押しされていたら、当然、答えも違ったものになっただろうが、最早それも叶わぬ望みとなってしまった。
(真田と〜〜…?)
(そっくりな妹〜〜〜…?)
 ジャッカルと丸井の脳内で、真田と瓜二つの少女が、一輪の花を持って『ふははは、綺麗な花だわっ!!』と叫んでいる様が想像される。
「嫌だ――――――っ!! 絶対に会いたくね〜〜〜〜っ!」
「この年でショック死なんてゴメンだ〜〜〜〜〜っ!!」
 勝手な想像に頭を抱えて叫びまくっている二人を眺めつつ、真田がぐっと拳を握った。
「何故かは知らんが、今無性にアイツらを殴りたい…」
「まぁやらせておいてあげなよ……けど、そうか…あんなに小さかった桜乃ちゃんも、もう中学一年生か…」
 ふぅ…と感慨深そうに溜息をつき、幸村が真田に背を向けて暫く沈黙……
「…転んで擦りむいた膝を、舐めて手当てしてあげた日が昨日の事の様に…」
「俺の預かり知らぬトコロで何してくれとるんだ貴様は〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
 爆発した兄の怒りを、親友はあっさりと笑っていなした。
「時効時効」
「イヤミなぐらいにお前らしいカミングアウトだな、精市…」
 それまで黙っていた参謀がぼそりと呟いた素直な感想を聞き、詐欺師が相手に興味深そうに尋ねた。
「そう言えば、参謀は知っとったんか? 真田の妹について…いや、知らんということはないか、お前さんに限って」
「…確かに、情報としてはかなり以前より掴んでいたが」
 予めそう断り、その上で参謀の柳は軽く息をついて補足した。
「下手に情報漏洩すると、弦一郎が妹の保護の為にテニスを捨てかねなかったからな…逆に秘密保持してもこちらにはデメリットはないと判断し、伏せておくこととした」
「ほうほう」
 つまり、あれだけのテニス好きを覆す程のネタということか…
「仁王君…食いつきがいいですね」
 面白そうなものは大好きな相棒が、熱心に参謀の言葉を聞いている姿を、柳生はやれやれといった様子で眺めていた。


「はー、無事に終わった〜〜」
 そんな話題が男子テニス部で繰り広げられていたとは知る由もなく、桜乃は無事に始業式を終え、自分の教室でのホームルームも終わり、今日の予定の全てから解放されたところだった。
「うーん、午前中だけで終わっちゃったんだ…部活紹介、今日だと思って、お弁当持って来ちゃったんだけど…」
 いつものうっかりさんの悪い癖が出てしまった、と、桜乃は鞄に忍ばせていた自分用のお弁当を取り出して苦笑した。
 兄から厳しく道徳観念を教え込まれてはいたが、それは桜乃のおっちょこちょいの素質を矯正するまでには至らなかった様である。
 今日の始業式の後に部活の紹介があると思っていたのだが、どうやら桜乃の予定表の読み間違いであったらしい。
(うーん…食べて帰ってもいいんだけど…ちょっとだけ学校の中見て回ろうかな、お母さん、先に帰っちゃったし…)
 一人で学内を色々と見ていこうと決めた桜乃は、鞄の中にお弁当をしまい直して、とことこと廊下を歩いて行った。
「お兄ちゃんの教室はここなんだ…もう終わって誰もいないみたい…」
 先ずは大好きなお兄ちゃんが普段勉学に励む事になる三年生の棟を見て、兄の姿も他の生徒のそれも見当たらない事を確認すると、今度は一階へと降りて、ある場所へと辿り着いた。
「あ、ここが学食と購買部なんだ…へぇ、結構広いんだなぁ…」
 きっと自分もこれからお世話になるだろう場所だから、しっかり覚えておかなくちゃ…と思っていた時、その場所から賑やかな声が聞こえてきた。
『ええ〜っ!? 全部売り切れなのおばちゃん!』
『ごめんね、今日は始業式だったから、仕入れを大幅に抑えていたのよ』
 ん?と振り返ると、いつもはパンなどが入れられるのだろう空のショーケースの前で、くせっ毛の若者と色黒の男が立っていた。
 どうやら騒いでいるのはくせっ毛の若者の方らしい。
「マジ〜〜〜? 俺もう早弁しちゃったから弁当もねぇし…これじゃあ午後の練習、力入らねぇよ〜〜」
「そりゃあお前の責任だろうが、赤也」
(アカヤ…!?)
 色黒の若者が口にしたその単語に、桜乃がぴくんっと鋭く反応した。
(アカヤ…って、もしかして、赤也さん…?)
 その聞き覚えのある名前は、確かに自分の実の兄である真田から繰り返し聞かされたものだった…



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