一年前…
「お兄ちゃん、二年生になったの、そんなに嬉しい?」
「うん…?」
 丁度一年前、真田が二年生になった日、夕食後にくつろいでいた兄に向かって妹はそんな言葉を無邪気に投げかけていた。
「別に、進級はして然るべき事だ、襟は正してもそこまで喜ぶべき事でもなかろう」
「そう? でも、今日のお兄ちゃん、凄く嬉しそう」
「?」
 にこにこっと自分も嬉しそうに笑う妹の様子に、真田は一瞬どういう事か分からず怪訝な顔をする。
 そんなに嬉しそうな顔をしていただろうか…別に食事時にも親にも祖父にもそんな指摘を受けてはいないのだが…と言うより、これまで妹以外の身内からそういう変化を指摘されたことはなかったかもしれない…
(それはそれで、少し疑問に思うところではあるが…まぁいい)
 あまりよくない事なのかもしれないが、真田はそこはスルーして、改めて今日の出来事について記憶を巡らせ…何かに思い至ったのかこくんと一度だけ首を縦に振った。
「…ああ、もしかしたら、今日の新入生の所為かもしれんな」
「新入生…?」
「ああ…入学早々、俺と蓮二、精市に挑戦状を叩きつけてきた。テニスで勝負しろと」
「一年で!?」
 兄の言葉に、少なからず桜乃は面食らってしまった。
 兄と比べて身体が虚弱だった桜乃は、これまで特にスポーツを嗜んだことはなかったのだが、彼がどれだけテニスが強いかという事はよく知っている。
 年上の生徒ですら敵わない兄に、まさか年下の誰かが挑むなんて……
「そ、それで…?」
「叩き潰した…完膚なきまでにな」
 お茶を啜ってそう言い切った兄に、妹はやっぱり、と心で呟きながら相手の厳しさに苦笑した。
 自分にはとても優しくしてくれる兄だが、普段はとても厳しい事で知られている、だからこそ、相手の返答は概ね予想出来た。
「…しかし」
「?」
 そこで桜乃は、普段はあまり見せない笑顔を浮かべた兄に思わず注目してしまった。
「あいつは…切原という男は、それでも俺達を倒すと宣言した…負けて尚、闘志を失う事無くぶつけてきた…あれ程のヤツはそうおらん」
「……」
「切原赤也…か。先輩や俺達が去った後の立海テニス部を引っ張ることになるかもしれんな」
 本人がいないとは言え、ここまで兄が嬉しそうな表情を見せるのは本当に珍しい…
「…格好良い人?」
「む…」
「…ねぇ、格好良かった? その切原さんって人」
 興味津々といった感じの妹に、真田はむすっとしながら再びお茶を啜った。
「……目は赤かったな」
「あー、それっていじめっこだよ、お兄ちゃん」
「ふん」
 しかしそれ以降も、真田がどれだけ後輩の若者をかっているか桜乃は知る事になる。
 帰宅した兄が「赤也のヤツが…」「またアイツは…」と事あるごとにその後輩の名を口にするようになったのである。
 聞いているとなかなかのやんちゃっぷりの様だが、それでも厳格な兄は最後には必ずこう付け加えていた。
「しかしまぁ、見所はある」
 何だかんだと言って、彼が評価している後輩である『切原赤也』…妹の桜乃が覚えるのも当然の話だった。


(うわーうわー…! もしかして、あの赤也さんかなぁ…珍しい名前だし、もしかして…)
「…ん?」
 じーっとこちらを見つめてくる桜乃の視線に気付いた切原が彼女へ目を向け、ジャッカルもほぼ同時に相手に気付く。
「…?」
 無論、切原は桜乃の素性を知る筈もないし、真田とそっくりだと言われていた彼の妹がまさかこんな華奢なおさげの少女であるなど思いもしない。
「な、何? 俺のファン…?」
 二年生に上がった彼は、既に一年生の時の活躍もあって女生徒からの人気も高くファンも多かった為、どうやらその内の一人かと思われたらしいが、桜乃はそれには答えずに逆に聞き返した。
「あのう…もしかして、切原赤也さん…です、か?」
「へ…っ? あ…ああ、そう、だけど…」
 名前を確認するって事は、俺のファンじゃなかったのか…じゃあ、誰…?
「…?」
 更に疑問に思っている切原の前で、求めていた答えを得られた少女は、更に嬉しそうににこーっと笑った。
(きゃあ〜〜〜、やっぱりこの人がお兄ちゃんが言ってた切原先輩なんだ〜…思っていたより格好良いなぁ…)
「…???」
 にこーっにこーっとこれ以上はない程の朗らかな笑みを浮かべる少女に、逆に切原とジャッカルは不安になる程の違和感を覚えていた。
『何か…お前のファンじゃないって割には、めっちゃくちゃフレンドリーな笑顔じゃないか…?』
『いや…俺もそう思うッスけど…全然見覚えないッスよ?』
 何事だろうと訝しむ二人の前で、桜乃は自分の鞄を開けて余分に作ってきていたお弁当を、ひょいっと切原に向けて差し出した。
「あのう…宜しかったら、これ、食べて下さい」
「え…?」
「お弁当…どうぞ」
 お兄ちゃんが気にかけている後輩さんなら、自分も応援したいし!と思いながら、桜乃は相手にお弁当を手渡す。
「い、いいの?」
「はい! テニス、頑張って下さいね」
「あ、ああ…サンキュ」
 テニスしてるの知っているって事は、やっぱりファンだったんかな…何かしっくりこないけど…まぁくれるって言うなら貰っとくか、腹減ってるのは事実だし…
「それじゃあ…」
 桜乃は渡したら満足したようにぺこりと一礼し、その場を去るべく踵を返した。
「…って、オイ、アンタ! 弁当箱どうすんだよ!」
 不意に気付いた切原が相手を呼び止めたが、少女はおさげを揺らして軽く振り返って微笑みながら手を振った。
「うふふ、返すのはいつでもいいですから」
「は…?」
 訳わからない…と呆然としている間に、桜乃はとことこと歩いてその場から立ち去ってしまった。
「……結局何だ? あの子…」
「さぁ」
 どうにも訳が分からないままの二人は、彼女が見えなくなるまでその場に佇むばかりだった…



 始業式の後で、立海男子テニス部は、いつもと変わらず午後の練習に取り組んでいたが、その中で切原はあのおさげの少女を思い出していた。
(だーれだったんだろうな、あのおさげの子…弁当は滅茶苦茶美味かったけどさ…結局名前も聞けなかったし…)
 弁当箱とかに名前とかも書かれていなかったし…結局、どう返していいのかも分からないし…
 普段はファンに無頓着で、無自覚ながらちょっと冷たいところもある切原だったが、こういうアプローチをされたら気になってしまうらしい。
(まぁ、ちょっと可愛かったしなぁ…)
 あそこまでイイ笑顔見せられるって、俺、何かしたっけか…?
 んーっと何ともなしに空を見上げて考え込んでいた切原だったが…
 ごんっ!!
「ってええええ!!!」
「何をぼーっとしとるかっ、赤也っ! たるんどるっ!!」
「すっ、すんませんっ!!」
 呆けていたところに手痛い一撃を頭に受けて、切原は思わず光速の速さで謝っていた。
 食らわせてくれた相手は…やはり副部長でもある真田だ。
 一年生になって挑んだ時には倒してやるという意気込みに溢れていたのだが、この一年間ひたすらに厳しく鍛えられまくった所為で、すっかり相手に対する苦手意識が芽生えてしまった。
「大体お前はいつも…」
 今日何度目の説教になるのか、既に記憶にないそれをげっそりと聞いていた切原の耳に、何処からか誰かの声が聞こえてきた。
『おに――ちゃ―――ん…』
 誰だろう、どうやら女生徒が兄を探している様だが…
「……ん?」
 いきなり静かになった事に気付いて切原が顔を上げると、先程までの怒声は何処へやら、鬼の副部長が完全に硬直し、その表情を強張らせていた。
「…どうしたんスか?」
 かつてない反応に後輩が声を掛けても、一向に答えようとしない。
『おに――ちゃ―――――ん』
 そうしている間にもまた女生徒の声が聞こえてきて、切原は何気なくそちらの方へと視線を遣り…覚えのある姿にぎょっとした。
「あの子…」
 少し前に購買で、お弁当くれた子だ…
 ぼけーっと見ている切原の少し離れた場所では、同じくその少女の姿を認めた幸村が、何かを察した様に薄く笑みを浮かべていた。
「…へぇ」
 そんな彼らの視界の中で、少女はとてとてと何の迷いもなくこちらへと向かってきた。
「誰? 誰かの妹かい?」
「見たことないな…けど、俺達の方を見てる気がするが…」
 ここにはレギュラーしかいないんだが…と疑問に思っていたジャッカルの言葉に、幸村はにこりと笑って断った。
「部外者は入れないのがウチの決まりだけど、今日は特別だ。どうやら身内の話があるらしい…ねぇ、弦一郎」
「ぐ…」

『っ!!!』

 レギュラー達がぎょっと目を見開く中で、真田が帽子を深く被り直して顔を隠し、そこにいよいよおさげの少女が小走りに駆けてきた。
 まさか…と思っている彼らの前で、その子は明らかに真田へと視線と身体を向け、にっこりと笑って声を掛ける。
「見―つけた、弦一郎お兄ちゃん」
「さ、桜乃! 遊びでは来るなと言っていた筈だっ!」
 明らかに狼狽した様子で真田が少女にそう嗜めたが、相手は全く恐れるでもなく怯むでもなく、ぴっぴっぴ、と右の人差し指を振ってみせた。
「遊びじゃないもーん。さっきお母さんからメールが来て、今日は遅くなるから私が夕御飯も作ることになったの。お兄ちゃん、おかず何がいい?」
「べ、別に何でも…」
 どもる真田の脇から、幸村が口を挟んできた。
「ふふ、相変わらずお兄ちゃんっ子だね、桜乃ちゃん」
「…あ!」
 名を呼ばれて幸村を見上げた桜乃は、その瞳をぱっと更に大きく見開き、嬉しそうに笑顔で挨拶した。
「きゃあ、幸村さん! お久し振りです!」
「久し振り…覚えててくれたんだね、嬉しいな」
「当然ですよ、お兄ちゃんのお友達ですもん!」
 朗らかな会話の最中、ようやく石から生身に戻ってきたレギュラー達が、幸村に向かって確認を取る。
 嘘だろ!? まさか、彼女が…
「あ、あの…幸村…この子って…」
「もしかして…例の真田の妹かい?」
 ジャッカルや丸井の質問に、相手はけろりとして頷いた。
「そうだよ、真田桜乃ちゃん…可愛いだろう?」
「どさくさに紛れてナニをノロケとるんだお前は…」
 青筋を浮かべながら真田が親友に突っ込みを入れている向こうでは、今度こそ大恐慌が訪れていた。
「似てね〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
「ぜんっぜん可愛い方じゃんかっ!! これの何処がそっくりなんだよいっ!」
 騙されたーっ!と訴えるジャッカル達の隣では、仁王と柳生が面白そうに桜乃を見遣っていた。
「…血はもしかして争えるんじゃろうか…」
「しっ、仁王君、聞こえますよ」
「……」
 最早、切原は言葉もないらしく、油断をしたら魂を口から吐き出しそうな顔をしている。
 彼らの騒動の原因になっているとも知らず、桜乃はそこでようやくメンバー達に注目し、小首を傾げて真田に問う。
「…もしかして、こちらの方々が、お兄ちゃんがよく話してくれるお友達?」
「む…うむ」
 渋い顔で肯定した相手の返事を受け、少女はにこ、と微笑んで全員に挨拶。
「初めまして、皆さん。真田弦一郎の妹の桜乃です、いつも兄がお世話になっております」
 そしてそのまま深くお辞儀をする。
「本日、私も立海に入学しました…先輩として、どうかこれから宜しくご指導下さい」

(うっわ――――――――――っ!!)

 礼儀正しい子だーっと皆が感嘆し、確かにこういうトコロはあの男に似ているかもしれないと納得。
「も、もう良かろう! 早く家に戻れ、桜乃!」
 へぇーっへぇーっという彼らの桜乃への視線を感じ、彼女を急かす真田だったが、桜乃はしっかりと食い下がる。
「まだおかずのリクエスト聞いてないもん…何かないの? お兄ちゃん」
「む? う、む…仕方ないな…では」
 これでは言わない限り粘られてしまうと感じ、真田は仕方なくリクエストを述べる。
「すき焼き」
「弦一郎って意外と遠慮しないよね」
 結構な贅沢だよそれって、と突っ込む幸村に、桜乃はくすくすと小さく笑った。
「いいんですよ、お兄ちゃん、普段は滅多に我侭言わないんですもん」
「ふふ、だろうね…今日は可愛い妹の入学式だもの、美味しい食事でお祝いしたいよね」
「え…?」
「精市…お前本当に…」
 いい加減にしろ…と殺気をもって訴えるものの、向こうは相変わらず涼やかにそれを受け流した。
「俺も桜乃ちゃんのことは負けないぐらい可愛がっていたのに、急に会わせてくれなくなって……一体何が君をそうさせてしまったんだか」

(アンタだアンタ!!)

 ふうと嘆息する部長に、他のメンバーが一致団結して心の中で突っ込んだ。
 兄心を考えたら、流石にそこは同意出来る!
 皆がそう考えている中、不意に桜乃の視線と切原の視線が合った。
「あ…」
「…っ」
 切原は依然、何も言えなかったが、桜乃が代わりに優しく微笑みぺこんと頭を下げる。
「先程は、失礼しました…切原先輩」
「う、あ、いや…」
「先程…?」
 ぴくっと反応し、睨んでくる副部長の視線が何時にも増して痛い気がする…!
「お前たち、何処かでもう会っていたのか…?」
 がくがくと震えそうになる身体を必死に抑え込みながら、切原はそつのない答えを返すに留めた。
「いや、購買部のトコロで偶然…!」
「お腹を空かせていらっしゃったから、私のお弁当を差し上げたのー」
「ほう…お前の弁当をな…」
「……」
 更に痛みを増す視線…
(…俺、もしかして、テニス以外でも副部長に目ぇ付けられんの…?)
 どんだけ不幸なんだよ…と思いつつも、無論桜乃を恨むなど出来ず、若者はがっくりと首を項垂れた。
 確かに…美味しく食べたし可愛いって思ったのは事実だけどさぁ……
 その一方で、桜乃は初めて会う真田の「お友達」に興味津々の様子だった。
「でも、お兄ちゃんのお友達って、本当に格好いい人達ばかり…憧れちゃうなぁ」

『いやいやそんな』

 息もぴったりに謙遜する仲間達に混じり、幸村が桜乃に提案した。
「良かったら、たまには見学においでよ。お兄ちゃんの活躍も見られるし」
「わ、いいんですか?」
「精市っ! 私情を持ち込ませる事は感心出来んぞ!!」
 妹をわざわざ彼らの目に晒すなど冗談ではないっ!と真田が阻止するべく威嚇の声を上げたのだが…
「ねぇ、弦一郎…」
 何処か妖しげな雰囲気を醸しつつ、幸村はぽんっと相手の肩に手を置いて、こっそりと囁いた。
『…障害が多い程燃えるって、知ってる…?』
「!!!!!」
 びしっと石化してしまった兄の心など露知らずで、桜乃は既に部長である幸村の許可を受けた事に大喜びだった。
 あそこまで喜んでいるとなると、最早如何に兄の権限があろうとも撤回する事は難しくなる。
 もしやろうものなら恐怖の最終手段『お兄ちゃんなんて大嫌い〜〜〜っ!!』攻撃が間違いなく来るだろうし……
 結局、兄は妹の今後の来訪についても目を瞑るしかなくなってしまう。
「あやつ、桜乃の入学早々にやりたい放題しおって〜〜〜!」
 反撃出来ずぶるぶると怒りで震えていた副部長に、ぼそっと参謀が呟いた。
「久し振りに会えたから嬉しかったのだろう」
「だからと言って、ここに出入りさせずとも!!」
「ではそれは…」
 少しの時間をおいて、再び参謀が一言。
「お前が慌てる様を見て面白がりたい…とかな」
「ああそうだろうとも!!」
 昔からアイツはそういう奴だった!!と苛立ちを隠そうともしない相手を見つめ、柳は一人冷静に自分のノートに何事かをかきかきと書き込みつつぼそりと言った。
「…面白いデータが取れそうだ。ここは中立が吉だな」
 そして、参謀の目論見通りなのか否か…桜乃の入学を契機に、真田の日常生活そのものがかつてないバトルな日々になってしまうのだった……






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