兄妹ヘアケア前線
「う―――――ん……」
或る日の夜、一人の少女が洗面台の前で、鏡を覗き込みながら唸っていた。
彼女の名は真田桜乃。
今年の春に立海大附属中学に入学したばかりの、腰より下まである長い黒髪を持つ華奢な娘である。
その見た目に違わず性格は至って素直で温和、少しばかりドジっ子の面もあるが、それもまぁご愛嬌。
真田家においては男性陣は厳格で剛毅な者揃いであり、日常生活からしてお堅いのだが、女性陣は比較的温和で和やかな日々を愉しんでいる。
それは偏に男性陣の方が、自分達より女性陣に対して惜しみない愛情を注いでいるからだろう。
特にこの真田桜乃は末っ子であり、非常によく出来た娘の為、例外なく家人達から可愛がられていた。
この真田家の次男で桜乃の兄である真田弦一郎という若者がいる。
どんな人間か、と問われたら、文武両道、質実剛健を地でいっているというのが一番らしい表現。
桜乃と同じ中学校の三年生で男子テニス部の副部長を務める男だが、家人の中で最も桜乃を溺愛しているのが、実はこの男だった。
幼い頃より両親が多忙であり、家の中で一番年が近かったという事もあった為か、彼は親からも妹の面倒を見るよう、よく頼まれた。
生来責任感が強く、祖父の影響で早々に自立心を育まれていた真田は、子供らしく家族に甘えるという行為も早々に忘れ、文句も言わず妹の世話を始めた。
それが、彼の妹溺愛人生のそもそもの発端となる。
親よりも長いこと妹と接する機会を持った真田は、妹を真田家の女性として恥ずかしくない様みっちりと躾け、無論、兄としても優しく接した。
厳しくはあったがそんな真田に対して桜乃自身もよく懐き、見事なお兄ちゃんっ子に育った現在は、実質両親よりも実兄の彼に相談事を持ち込むことの方が多くなっている。
この家の中で、桜乃と最も強い家族の絆で結ばれているのは、間違いなく兄の真田だろう。
「…? どうした、桜乃」
洗面所の傍の廊下をその兄である真田が通り過ぎた際、桜乃の声に気付いた彼が声を掛けた。
既に入浴を済ませていた男は、浴衣をぴしりと着た姿で、相変わらずその佇まいには一分の隙もない。
居間に行こうとしていた兄の声に、少女は振り向いて細い眉をひそめながら答えた。
「あ…最近、髪が傷んでいるみたいで気になって…」
「髪?」
答えながら鏡の前を離れ、兄と一緒に居間に向かいつつ、桜乃は握った一房の髪の毛先をじっと見つめる。
風呂から上がったばかりの髪はしっとりと湿っており、その色は闇の如く深い。
「櫛の通りも最近今ひとつだし…」
「…俺にはよく分らんな」
真田も言いながら相手の髪を一房持ち、じっと眺めてみる。
こういう事を自然にやってのけ、やられた妹本人も何の文句も言わないところが凄い。
数秒間程眺めていたが、結局、妹の主張を理解する事は出来ず、真田はそのまま房を握っていた手を離した。
元々お洒落に疎い男にとって、女性の髪質などよく分かる訳もなく、兄としては妹が最近の若者が何気なく行っている脱色や染髪といった浮ついたことさえしていなければ、別に文句はないのだ。
「お兄ちゃんはいいよね、髪サラサラで」
「…同じだろう? 兄妹なのだから」
「違うよー」
鈍感な兄にぷーっと頬を膨らませながら、桜乃は居間に入って座椅子に座る彼の隣で、相手の髪にさらりと触れる。
「男の人の髪って綺麗だもん、コシもあるし」
「うどんや蕎麦みたいだな」
「そーいう意味じゃないの」
それからも羨ましそうにさわさわと自分の髪を撫で続ける桜乃に苦笑しながらも、真田は相手の好きな様にさせてやる。
他人に触れられることが実は苦手な真田だったが、妹の桜乃に関してだけは平気の様だ。
溺愛もここまできたら天晴れである。
習慣となっている、夕刊に目を通す一時の間、真田は髪を弄る妹に尋ねた。
「手入れをしていない訳ではないのだろう? 俺など、散髪以外では入浴の時に洗う他は何もしていないが」
「うーん…シャンプーも同じなのになぁ…別のに変えてみようかな」
「……どうでもいいが、幾ら撫でてもご利益はないぞ?」
それからも、桜乃はさわさわさわ…と触り心地のいい兄の髪に触れて遊んでいた…
それから約一週間後…
「只今戻りました」
帰宅し、玄関から上がった真田の耳に、居間の方から妹の声が聞こえてきた。
ここからあの部屋までは距離があり、それなりに大きな声を上げなければ届いてはこない筈。
もし悲鳴の類であれば即座に駆けつけただろうが、どうやらそうではなさそうだ。
『きゃ〜〜〜〜! いいのお母さん!? 有難う! 嬉しい〜〜〜っ!!』
詳しくは分からないが、母親と何かを話しているらしい。
取り敢えず、危険な事ではなさそうだと判断して、真田は彼女たちのいる居間へと歩いていった。
「桜乃、大声を出すな。玄関にまで筒抜けだったぞ、はしたない」
「あ、御免なさい、弦一郎お兄ちゃん。お帰りなさい」
無事である事はしっかり確認した上で、叱るべきところはきっちり叱る。
正に、兄の鑑である。
そんな兄の苦言に謝りながら相手を迎えた少女は、謝る一方で非常に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
てっきり母親とその場で話していると思っていたのだが、居間にいたのは桜乃一人だけで、どうやら母親は入れ違いに台所に向かった様だ。
「何かあったのか?」
「あ、うん。叔母さんから送られてきた荷物があったんだけど、お母さんが私にくれるって」
「ほう…叔母上が」
家族の絆も深く、親戚付き合いも深い真田家では、よく親族間で贈り物のやり取りが行われている。
真田もこれまで幾度となくその恩恵に預かってきており、無論、それに対しての感謝の気持ちも忘れていない。
よく見ると、喜ぶ妹の座っている前に小さなダンボール箱が一つ、蓋を開けられた状態で鎮座していた。
どうやら、これがその送られてきた物の様だ。
「何を貰った?」
「えへへー」
嬉しそうな相手に純粋に興味をそそられ、真田が尋ねると、彼女はにこにこと笑いながら箱の蓋を開けて中から一本の瓶を取り出してみせた。
ガラス製のもので、蓋は黒いプラスチック…中身は黄色がかった液体の様だ。
「ん?」
「天然ものの椿油でーす。三本も貰っちゃった!」
「椿油?」
そう声高に宣言されても、真田には椿の油だという事ぐらいしか分からない。
ただの油程度に、何をそこまではしゃいでいるのだろう?
「…それがどうかしたのか?」
「うわ暴言。そんな事言ってるとお兄ちゃん、恋人と上手くいかないよ?」
「いないから心配するな」
ささやかな嫌味に対してふんと鼻を鳴らして即答した兄に、桜乃は苦笑いしながら手にした瓶へと視線を移した。
「お母さんが、私が髪の事気にしてたって叔母さんに話したら、送って下さったんですって。椿油って、髪のお手入れに凄くいいの。品質がいいものだと、結構高いのよ?」
「髪…? ああ…」
言われて、ようやく合点がいったとばかりに真田が笑った。
「そう言えば、そういう事を言っていたな…しかし、髪に油とは…べたつく気もしないではないが?」
却って不潔になるのでは?と不安そうな目で瓶を見る兄に、妹はお洒落の豆知識を惜しげもなく披露する。
「少量をとってなじませる分には問題ないの、それに、水で薄めてリンスみたいに浸してもいいし…早速今日から使わせてもらおっと」
余程嬉しかったのだろう、ほくほく顔で箱を抱えて自室へと持って行く妹を、真田は見送りながらやれやれと笑った。
(まぁ、女性である以上、多少の身嗜みには気を遣ってほしいのも本音だからな…髪の手入れ程度なら、問題なかろう…)
そして早速その日の夜から、桜乃の椿油作戦が決行され始めた。
「は〜〜〜〜…いいお湯でしたぁ」
入浴時間は女性にとっては至福の一時。
それを思うままに堪能した後で、桜乃は身体の水滴を拭き取った後に髪の水分もバスタオルで吸わせた。
入浴中にも椿油入りのお湯で髪を浸してみたが、勿論すぐに効果が見られる訳ではない。
(あ、でもやっぱり、心なしかしっとりしてる感じがするなぁ…)
わくわくとこれからの効果に期待を膨らませながらパジャマに着替えると、桜乃は改めて鏡の前に立ち、持っていた椿油の瓶から少量の油を手に取ると、ゆっくりと丁寧に髪に馴染ませ始めた。
「ん〜〜、いい香り〜〜…アロマテラピーにもいいみたい」
椿油というのは本来独特の香りをもつのだが、最近はローズの香りなど、精製過程で様々な香りを持つものがあり、桜乃が貰った椿油もどうやらそういう類のものらしかった。
髪が長く量も多い分、桜乃は念入りに髪をケアしていたが、ようやくそれも無事に終了し、よしと鏡の前で頷いた。
「……」
頷いたところで…少女は自身の両手を掲げてみた。
小さな掌に、てらてらとしたツヤが光っている。
言うまでもなく、先程まで自分の髪に馴染ませていた椿油の名残であるが、何となくそれを洗い流すのは勿体無い様な気がして、桜乃はどうにかして有効利用出来ないかと考える。
「ん〜〜〜〜〜……あ、そうだ」
何やらアイデアを思いついたらしく、桜乃はにこっと笑うと、脱衣所から出てその足で居間へと向かっていった。
居間では、いつもの様に真田が夕刊を開いてくつろいでいた。
その様子を、少しだけ開かれた襖の隙間から、桜乃がこっそり〜〜と覗き見る。
大和撫子にはあるまじき姿だが、そんな事にはお構いなく、少女は相手がその部屋にいる事を彼の背後から確認すると、うふふふ〜と悪戯っぽく笑った。
「……っ?」
不意に、びくんっと真田の肩が跳ね上がり、彼はせわしなげに辺りの様子を伺う。
何だ? 今の怪しい気配は…
(殺気ではないが……妙な視線を感じるような…)
もし殺気だったらすぐにそれに反応を返せただろうが、悪意とも取れない微妙な気配だった為に男は首を傾げて考え込み、もう一度周囲を見回そうとしたところで…
ぺた…っ
「!? さ、桜乃?」
「うふふ、隙あり〜、弦一郎お兄ちゃん」
後ろから、相手の両手で頭部を軽く押さえられた真田は、驚いた様子で背後の彼女を見遣った。
気配に敏感な筈の男だが、心を許している妹のそれには鈍感になってしまっていたらしい。
「な、何だ、いきなり…」
久し振りに他人の接近を許してしまった真田が動揺しながら尋ねると、彼の妹はにこっと笑って、手を相手の頭に置いたまま答えた。
「お兄ちゃんにも椿油のおすそわけしてあげる」
「お裾分け?」
訝しむ相手に、桜乃は微笑んだまま手を動かして、彼の髪に手の椿油を馴染ませ始めた。
幸い彼も風呂から上がってそう時間が過ぎていないので、髪も程よい湿気を保っており、油が上手い具合に浸透してゆく。
「べ、別に必要ないぞ。男の髪にやっても仕方なかろう」
「いいのいいの、じっとしてて?」
「〜〜〜〜〜」
好意もあるが、兄の髪を弄るのも妹にとっては非常に楽しいものらしく、全く引こうとしない相手に真田は仕方なく息をついた。
別に何かの作業の邪魔をしている訳でもないので、取り敢えずは自分は再び夕刊を読む事に専念し、彼女の好きにさせてやる。
一日ぐらいなら構わないし、実は他人に髪を弄られるのが結構気持ちのいいものと感じ始めていた真田は、結局最後まで妹の気紛れに付き合っていた。
ところが…実はこれが一日では済まなくなったのである…
翌日の夜…
「お兄ちゃん、おすそわけに来たよー」
「またか!?」
今日はこっそり作戦ではなく、堂々と兄の部屋に殴り込んで(?)の押し売り作戦だったが、それでも相手を驚かせるには十分だった。
びっくりしている兄に妹は早速近づいて、背後にちょこんと座る。
「有効利用だもん、身体に悪い訳じゃないからいいでしょ?」
「全く…仕方のない奴だ」
苦言を呈しながらも、既に逃げる事は不可能と悟っていたのか、真田は椅子から離れる様子も見せずに相手のするがままに任せた。
「じゃ、始めまーす」
「ん…」
また髪を弄られるだけ、と思っていた真田だったが…
むに〜〜…
「っ?…ん?」
髪ではなく、頭部を相手の複数の指でじんわりと押される感覚。
昨日とは明らかに違う感触に首を傾げた真田に、桜乃はにこっと笑って後ろから説明した。
「今日はマッサージも勉強してきました!」
「は!?」
「頭皮マッサージって、ストレスとかにもいいんだって。お兄ちゃん、テニス部とか委員会とかで忙しそうだから、やってあげる」
「そ、そこまでやる必要はないだろう、塗るだけで十分…」
面食らい、断ろうとした真田だったのだが…
「えー? でも折角だし、ちょっとだけ練習もしたんだから…ね? いいでしょ、お兄ちゃん?」
「う…」
お願い、と後ろからねだられて、妹に弱い兄は渋い顔をしながらも結局相手に白旗を振ってしまう。
「べ、勉強時間に支障のない範囲でだぞ?」
「はぁい」
許可を受けた桜乃は元気な返事を返して、早速本格的にマッサージを開始し、被験者になってしまった彼女の兄は、仕方ないと読みかけていた文庫本でも読もうと、それを取ってページを捲った。
最初は諦め半分で受けていたマッサージだったのだが……・
むに〜〜〜…むに〜〜〜…むに〜〜〜…
(……む? これはなかなか…)
桜乃の手加減が良いのか、痛くもなく物足りなくもなく、程よい手揉み感…
意外にもそのマッサージが心地良く、真田は最後の方では上機嫌で妹の手厚いサービスを受けていた。
その後、マッサージをする桜乃も面白かったのか、毎日お風呂上りに椿油を分けがてら、兄のマッサージをする事が日課となってしまった。
そして本来、椿油は桜乃の髪への気遣いを聞いた親戚が送ってくれたものだったのだが、その効果は彼女だけに留まらず、別の場所でも着実に表れていたのである。
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