立海大附属中学三年生棟…
その日も真田は朝の部活動を精力的にこなすと、本来の学生の本分、勉学に励む為に自分の教室へと向かっていた。
部活動中にはいつも黒の帽子を被ってはいるが、屋内でまでそれを身につける訳もなく、今の彼は帽子を外して素顔をありのままに晒している。
「おはよう」
がらっと教室の扉を開け、挨拶をしながら男が一歩中に踏み入ると…
『!!』
教室内の生徒…特に女生徒達が、彼の姿を見た瞬間、それまでせわしなく動かしていた口を閉ざし、一様に相手を凝視する。
「……?」
何だ、この微妙な雰囲気は…と怪訝に思いながらも、真田は特に何も語ることもなく、自分の席へと向かった。
彼の席は窓際の前の方に位置していたが、時間的にもう日光がその席全体を明るく照らしている。
席に着き、教科書を鞄から取り出して授業を受ける準備を始めた真田の黒髪が、彼が動く度に艶々と宝石の如き輝きを放っていた。
『ねぇ…やっぱり気のせいじゃないよね…最近の真田君って…』
『うん……あんな綺麗な天使の輪、初めて見る!』
『でも真田君って、積極的にヘアケアするタイプじゃないよね…やっぱりシャンプー?』
『ちょっと、誰か訊いてみてよ』
『えー? でも…』
ひそひそぼそぼそと女生徒達が囁いているのは分かったが、どうしてそんな事になっているのかがどうしても読めなくて、真田は首を傾げるばかり。
自分は何処か…おかしな見た目なのだろうか…?
「???」
訳も分からず、取り敢えず服装を改めて確認していた彼の所に、意を決した様に一人の女子が近づいてきた。
「あ、あの、真田君…ちょっと訊いてもいい?」
「え…?」
女性から話しかけられる事の滅多にない真田は、一体何を訊かれるのか、と不思議に思ったが…
「真田君の家のシャンプーって何? 最近変えた?」
「は?」
更に不可思議な質問を受け、一瞬意識が凍結してしまった。
何? シャンプー? 何故そんなものが…?
「シ、シャンプー? う、うーむ…」
いきなりそんな事を言われても、選んでいるのは母か妹だからな…と思いつつも、真田は必死に記憶を辿ってみる。
「確か…炭が入っているヤツだったと思うが…詳しい名前までは思い出せん。明日まで待てるなら、確認してくるが?」
「あ、大丈夫! ぜ、全然待たないからっ、じゃあ、お願い出来る?」
「?…分かった、覚えておこう」
奇妙な依頼だと思っているのはこちらだけではない様で…向こうの女子も思い切り恐縮しながら約束を取り付けると、ささーっと小走りに離れていった。
(何かのアンケートか?)
まるで分からんと首を傾げたが、結局彼に正解など分かる訳もなく、その日は釈然としないまま帰路についた。
帰ったら夕食を取り、風呂に入るのが真田の日課。
変わった依頼を受けたとは言え、それが彼の習慣を変える事などなく、いつもの様に入浴を済ませた後…
「始めまーす」
「うむ」
最早、桜乃の頭皮マッサージが習慣として染み付いてしまったのか、真田はそれが当然というかの様に、座って相手のマッサージをむにむにと受けていた。
「……そう言えば」
「はい?」
不意に、頭を微かに動かして、兄は妹に確認した。
「ウチのシャンプー…最近変えたことはないだろう?」
「うん、同じよ? どうしたの?」
「いや…ウチのクラスの女子が、そんな事を尋ねてきたものだからな…何かのアンケートかもしれん」
「ふぅん…何でそんなアンケート取るのかなぁ?」
「さぁ……もう少し右」
「はぁい」
今や自分からリクエストする程、椿油と頭皮マッサージの世話になっておきながら、その効能が何であるかなど綺麗さっぱり頭から抜けている真田だった。
翌日、言われたままにシャンプーの銘柄をメモしたものを女子に渡した後、真田がようやく理由を知る事が出来たのは、授業終了後の部活動の時だった。
「見学に来ました〜」
「いらっしゃい、桜乃ちゃん」
「……」
その日は久し振りに、桜乃が兄の所属しているテニス部を見学に訪れ、部長の幸村精市から暖かな歓迎を受けていた。
家の手伝いも進んで行う少女は毎日彼らの部活の見学は出来ないのだが、こうして機会がある時には喜んで足を向けていた。
何しろ兄の活躍をこの目で見られる上に、彼の友人でもある先輩達にも会う事が出来るのだ、桜乃にとって、それは大きな喜びだった。
しかし唯一、肝心の彼女の兄である真田は、何処か納得いかない様な表情を浮かべ、無言を守っている。
最愛の妹が、誰か他のレギュラーメンバーと深い仲になりはしないかと不安で仕方がないのである。
レギュラー達とは無論、深い友情で結ばれている事は認めるが、それと妹の相手として認めるかはまた別の話であるらしい。
因みに、自分の兄がそんな懸念を抱いているということは桜乃は一切知らない…気付いてもいない。
「おう、久し振りじゃのう桜乃。立海には慣れたか?」
「…」
微笑みながら、後輩でもあり、親友の妹でもある桜乃を名で呼んだ仁王に、真田がじっと睨んで無言の圧力…
「しょーがないじゃろ、お前さんも真田なんじゃし。幸村も名で呼んどるんじゃから、そこは公平にしてもらわんとな」
「む…し、仕方ない」
納得するしかないのだろう…したくはないが。
「ご無沙汰しています、皆さん」
兄の苦悩はそっちのけ…というか知る由もなく、桜乃は先輩達一人ひとりに丁寧に挨拶に回る。
「ええ、こんにちは。桜乃さん…おや、今日はいつにも増して艶やかな黒髪ですね」
「わ! 分かるんですか? 柳生先輩」
女性の容姿の変化に素早く気付く粋な気遣いを見せてこそ紳士…ならば、この柳生と言う男は間違いなくそれだ。
因みにその台詞を聞いた瞬間、真田の青筋が帽子の陰で三本増えたのだが、そこで幸村も話題に乗ってきた。
「そう言えば、君も見事な黒髪だけど、最近は弦一郎も凄く髪が艶やかなんだよね…帽子に隠れて見えないけど、この間外した時に見てびっくりしたんだ。何か、特別な事でも?」
「む…いや…」
そんな事は…と思っていた真田の言葉を遮り、妹の桜乃が理由を話した。
「あ、きっと椿油のお陰ですよ。それから、私のマッサージかな」
「え…?」
し―――――――――――ん……
「何だそのいかがわしいモノを見るような目は―――――――っ!!」
「いやだって…」
「十分にいかがわしいだろい…マッサージって何だよマッサージって…」
視線を逸らしながら呟くジャッカルと丸井に真田が迫っている脇では、切原が桜乃に確認を取っていた。
「マッサージって…な、何の?」
「頭皮マッサージですよ? 毎日、椿油を髪に馴染ませて、頭をマッサージしてあげてます。結構上手くなったんですよ?」
にっこりと笑いながらわきわきと両手を動かしてみせる桜乃に、誤解は解けたものの、メンバー達は一斉に真田に向けて『羨まし〜〜〜』という視線。
「う…っ」
そこで自慢げに振舞うことは憚られるらしい副部長がどもり、参謀である柳が納得とばかりに頷いた。
「成る程、納得だ。弦一郎の性格からは、自分からそういう手入れをするとは思えなかったからな、せいぜいシャンプーを変えたぐらいかと…妹御の助力の成果か」
「悪かったな………ん…?」
シャンプー? つい最近も同じ単語を聞いた様な気が…
「……っ!!」
はっと何かを思い出したらしい副部長が、凍りついたまま顔色を失っていく。
まさか…昨日のクラスの女子の質問の理由は……
「どうしたの? 弦一郎」
「いや…その……・」
様子が明らかにおかしい親友を問い詰め、結局幸村は彼が昨日女生徒に問われた質問と、その本来の目的の予想について聞き出してしまった。
『……』
桜乃を含めてメンバー全員が沈黙する中、幸村が静かな声で確認する。
「つまり…君は毎日桜乃ちゃんの手厚いフォローを受けながら、心地良い時間を過ごしていたにも関わらず、その効能については問われても思い出せない程に綺麗さっぱり忘れ去り、日々安穏と過ごしていたと」
「物凄く大きな棘が隠されているのを感じるが、まぁ、概ねその通りだな…」
真田が渋々その事実を認めた瞬間…
『ゼータクだ〜〜〜〜〜〜っ!!!』
とメンバー全員から指差され、激しい糾弾を受けてしまう。
「黙れ――――――っ!!」
真田も怒鳴り返すが、指摘されたことに誤りはない為か、いつもよりは少し及び腰。
「あ、あの、皆さん…私のことはもうお気になさらないで…」
桜乃が大好きな兄を庇う事で、ようやくその場は収拾に向かったが、そんな中で丸井がじーっとその少女の髪を熱心に見つめていた。
「…? 何ですか? 丸井先輩…」
「いや、結構いいのかなーって思って、その椿油っての…俺ってほら、髪染めてるからその分傷み易くてさー、結構気にしてはいるんだけど」
「ああ…そう言えば確かに、染めたら傷むっていいますね」
その脇では、幸村が自身の髪をすっとかき上げて苦笑い。
「俺もくせっ毛だからね、まとめるのに苦労しているんだ。でもスポーツやっていると紫外線も受けるし、髪も傷み易くなるのかな」
「……そうですか…」
それから桜乃は暫し無言になっていたが、部活が始まれば自分も一緒にコート傍へと向かっていた。
翌日、放課後になって桜乃は手土産持参で再び部室を訪れていた。
「皆さんにもおすそわけで持って来ました。少ないですけど…」
『おお〜〜〜〜〜』
彼女が持ってきたのは、プラスチックの小ボトルに詰められた椿油七本分。
勿論、兄の真田を除いたメンバー達の人数分である。
「うわぁ、これって結構いいものでしょ? 香りが凄くいいし純度も高そう…いいのかい?」
なかなかの目利きであることを披露した部長の幸村に、桜乃はにこにこと笑いながら手を振った。
「あは、私も貰ったものですから…でも質はいいですよ、使っている私が保証します」
「うん、有難く貰うね」
礼を述べる部長の少し離れたところでは、同じ染髪仲間である丸井と仁王がボトルを手に笑っていた。
「椿油は初めて使うが…面白そうじゃな」
「おさげちゃんのお薦めなら、期待出来るんじゃね?」
しかし一方では、ジャッカルが困った様子で同じくボトルを手にしている。
「うーむ…使おうにもなぁ…俺のポリシーが…」
「別に髪にだけ使うものではない。肌にも良い効果が期待出来る」
「なにっ! 本当か?」
ジャッカルに助言している柳の隣では、早速数滴を取って髪に馴染ませている切原がいた。
「切原君、気が早いですよ」
「へへー、ちょっとだけッスよ」
「……」
そんな彼らの様子を、むっとした顔で真田が見つめていたが、それに気付いた桜乃がくすくすと笑いながら彼に近づいた。
「お兄ちゃんの分は家にあるからいいでしょ?」
「む……ま、ぁ…それはそうだが」
「くす…またマッサージしてあげるから機嫌直して、お兄ちゃん」
「べ、別に機嫌は悪くしておらん…!」
否定しながらもそっぽを向いてしまっている気難しい兄に、妹は困りながらも優しく笑っていた。
そして、椿油がレギュラーメンバーの中で広まって以降…
「こっちのブランドのやつはどうかな…」
「精製過程でも結構品質が異なる様ですね」
「んー、どうせならでっかいサイズのを買って皆で分けたらどうだい? ワリカンで」
「中にはマッサージ専用のものもあるから、注意して見た方がいいね…」
「お、結構お買い得じゃな、こっち」
「あ、いいッスねー」
「分析するに、一番安価で効果が期待出来るのは…」
彼らはすっかり椿油の効果を気に入ってしまい、昼休みの今も教室の中で次にどれを買おうかと検討中だった。
油を使用する以前と比べ、彼らの髪がやたらと艶々になっているのは気の所為だろうか…?
(い、一体何の話をしてるんだ…?)
周囲の他の生徒達が遠巻きに怪訝な顔で見ていたが、まさかその発生源が一年生の女子だとは誰も思っていないだろう。
(…桜乃がアレを渡すのを許したのは間違いだったかもしれんな…)
ただ一人、その一年生の兄である男だけは、少し離れた場所からその様子を眺め、一つの深い溜息をついていた……
了
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